それは国宝でも重要文化財でも重要美術品でもなかった。
ふと立ち止まって、まず、正面から拝観。
「うぅぅッ」
次に、坐像のお顔の正面から右に回り込む。
じっと拝む。
「ぅあ~」
ゆっくり正面に戻って、お顔の左に回り込んで、右横顔を拝む。
お顔の左側と右側では、同一人物とは思えないほど印象が違う。
「ライティングのせいだろうか」
思わず視線を坐像からはずして、天井を見つめ、そこから光の軌跡を包んでいる空間全体を含めて、ぐるりと見回す。
「お堂ではどのようにみえたのだろうか」
痩せたお顔の頬骨は飛び出て、半眼の目の奥は深い海の色を湛えている。
「これは能面だ」
私は、意識的に、顔を能面の輪郭に切り取り、お顔の真左を見つめていた。
何度も右へ左へ回り込んで、真横から能面としての表情を読んでみた。
右側の横顔は同じに頬骨が突出しているが、それを否定するかのように“悟りとはこうした風情”と思えるほどの安らぎを、見るものに与えてくれる。こちらはひとつも能面には見えなてこない。つまり人の顔である。
ところが左側は、抽象に抽象を重ね、人を超え神霊の赴く処を知らしめるほどの凄みがある。
『蘭渓道隆坐像』頭部に古い頭部前面が隠されていた、という曰く付きの坐像である。
宋の西蜀(現 四川省)からはるばる日本に、建長寺の開山に招かれ、その後に建仁寺へと。
この坐像までに、数体の重要文化財の坐像を見てきた。それぞれ玉眼が見事なほど智慧の光を放っていた。
ところがである。この蘭渓道隆坐像は目がくぼみ、くぼむことで光を閉ざし頬骨の突出を強調し、左右のお顔の違いが浮き出ているのだった。
政治と宗教、宗教のなかの争いごと。左右の違いが歴史に隠された何事かを物語っているのか、と邪推している私がいた。
さて、ほっとさせてもらえたのは、『竹林七賢図』である。大胆でゆったりした大振りの筆遣い。そこから空間美が極まる『山水画』へ、動線は一気に光と影、陰影が活かされた『雲龍図』へと導かれる。
ここまでくると、かつて京都の寺院を巡ったころの空気が、からだの中に満ちてきた。
五感が甦る……、風、匂い、鶯ばりの廊下の音、自然の色、……清水寺の本坊で、若い僧侶が手による抹茶の味と香りにその時々に添えられる和菓子の彩りを思い出す。
訪ねるたびに、東京人の嫉妬をこえて跪いてしまう古都への畏敬。
この日も、ここまでくる間にも繰り広げられている圧巻の品々に、抑えられない目眩を覚えた。
「もう、いいわ、『風神雷神』まで、正気は保てないかも……」
それでも、古都の旅を思い出つつ、つぶやきながら歩き続けた。
「3分間待つのだよ」
『小野篁・冥官・獄卒立像』の前で、照明が変化するのをじっと待つ。
なるほど、なるほど。
「地獄の眼差しは、赤」
そういえば、『三具足』香炉・花瓶・燭台が殷の時代を彷彿させてくれたし、その連なりにあった『鉄風炉』の三足の乳足のなんとも肉感的な曲線には心が解けた。
悪を行っても権力を手に入れたい。一国を質に入れてもこの茶器が欲しい。云々。
「地獄に堕ちても俗の俗を極めたい、と言いたげだったし」
思いは行ったり来たり。
建仁寺さんを中心に、日本にもたらされた喫茶の文化を根付かせ、日本独特の茶道へと発展させていく、その大本を『プロローグ:禅院の茶』で立体的にみせてもらえたことは貴重だった、とここに至って合点がいく。
エピローグ:ようやくたどり着いた『風神雷神図屏風』は大勢の人垣から拝観。
「あぁ~、辻邦生の『嵯峨野名月記』をもう一度読み返したい」
日本文化の粋に触れる醍醐味を実感した。
思いがけず戴いた非売品の観覧券で、私の春の午後は桜と名品に心を蕩かしてもらった。
「これはご褒美に違いない」
平成館を出てすぐさま、耳にイヤホーンを差し込んだ。
選んだ曲は『蘇州夜曲』。繰り返し聴きながら、博物館に別れを告げて寛永寺の墓所へ。
三月に麿さんとの対談の前にお参りをして、半月ほどたった昨日のこと、無事に「からだとの対話」をすませた報告に再びのお参り。
第二霊園には真っ直ぐ伸びた縦の道に数本、徳川家の墓所から横の道に数本、満開の桜がすでに風にのって花びらを散らしはじめていた。
久方ぶりに、博物館の庭での花見と膨大な数の名品を堪能させていただきました。
この場をお借りして、ここまで誘なってくださった御仁にお礼を!
ふと立ち止まって、まず、正面から拝観。
「うぅぅッ」
次に、坐像のお顔の正面から右に回り込む。
じっと拝む。
「ぅあ~」
ゆっくり正面に戻って、お顔の左に回り込んで、右横顔を拝む。
お顔の左側と右側では、同一人物とは思えないほど印象が違う。
「ライティングのせいだろうか」
思わず視線を坐像からはずして、天井を見つめ、そこから光の軌跡を包んでいる空間全体を含めて、ぐるりと見回す。
「お堂ではどのようにみえたのだろうか」
痩せたお顔の頬骨は飛び出て、半眼の目の奥は深い海の色を湛えている。
「これは能面だ」
私は、意識的に、顔を能面の輪郭に切り取り、お顔の真左を見つめていた。
何度も右へ左へ回り込んで、真横から能面としての表情を読んでみた。
右側の横顔は同じに頬骨が突出しているが、それを否定するかのように“悟りとはこうした風情”と思えるほどの安らぎを、見るものに与えてくれる。こちらはひとつも能面には見えなてこない。つまり人の顔である。
ところが左側は、抽象に抽象を重ね、人を超え神霊の赴く処を知らしめるほどの凄みがある。
『蘭渓道隆坐像』頭部に古い頭部前面が隠されていた、という曰く付きの坐像である。
宋の西蜀(現 四川省)からはるばる日本に、建長寺の開山に招かれ、その後に建仁寺へと。
この坐像までに、数体の重要文化財の坐像を見てきた。それぞれ玉眼が見事なほど智慧の光を放っていた。
ところがである。この蘭渓道隆坐像は目がくぼみ、くぼむことで光を閉ざし頬骨の突出を強調し、左右のお顔の違いが浮き出ているのだった。
政治と宗教、宗教のなかの争いごと。左右の違いが歴史に隠された何事かを物語っているのか、と邪推している私がいた。
さて、ほっとさせてもらえたのは、『竹林七賢図』である。大胆でゆったりした大振りの筆遣い。そこから空間美が極まる『山水画』へ、動線は一気に光と影、陰影が活かされた『雲龍図』へと導かれる。
ここまでくると、かつて京都の寺院を巡ったころの空気が、からだの中に満ちてきた。
五感が甦る……、風、匂い、鶯ばりの廊下の音、自然の色、……清水寺の本坊で、若い僧侶が手による抹茶の味と香りにその時々に添えられる和菓子の彩りを思い出す。
訪ねるたびに、東京人の嫉妬をこえて跪いてしまう古都への畏敬。
この日も、ここまでくる間にも繰り広げられている圧巻の品々に、抑えられない目眩を覚えた。
「もう、いいわ、『風神雷神』まで、正気は保てないかも……」
それでも、古都の旅を思い出つつ、つぶやきながら歩き続けた。
「3分間待つのだよ」
『小野篁・冥官・獄卒立像』の前で、照明が変化するのをじっと待つ。
なるほど、なるほど。
「地獄の眼差しは、赤」
そういえば、『三具足』香炉・花瓶・燭台が殷の時代を彷彿させてくれたし、その連なりにあった『鉄風炉』の三足の乳足のなんとも肉感的な曲線には心が解けた。
悪を行っても権力を手に入れたい。一国を質に入れてもこの茶器が欲しい。云々。
「地獄に堕ちても俗の俗を極めたい、と言いたげだったし」
思いは行ったり来たり。
建仁寺さんを中心に、日本にもたらされた喫茶の文化を根付かせ、日本独特の茶道へと発展させていく、その大本を『プロローグ:禅院の茶』で立体的にみせてもらえたことは貴重だった、とここに至って合点がいく。
エピローグ:ようやくたどり着いた『風神雷神図屏風』は大勢の人垣から拝観。
「あぁ~、辻邦生の『嵯峨野名月記』をもう一度読み返したい」
日本文化の粋に触れる醍醐味を実感した。
思いがけず戴いた非売品の観覧券で、私の春の午後は桜と名品に心を蕩かしてもらった。
「これはご褒美に違いない」
平成館を出てすぐさま、耳にイヤホーンを差し込んだ。
選んだ曲は『蘇州夜曲』。繰り返し聴きながら、博物館に別れを告げて寛永寺の墓所へ。
三月に麿さんとの対談の前にお参りをして、半月ほどたった昨日のこと、無事に「からだとの対話」をすませた報告に再びのお参り。
第二霊園には真っ直ぐ伸びた縦の道に数本、徳川家の墓所から横の道に数本、満開の桜がすでに風にのって花びらを散らしはじめていた。
久方ぶりに、博物館の庭での花見と膨大な数の名品を堪能させていただきました。
この場をお借りして、ここまで誘なってくださった御仁にお礼を!