デスクの引き出しを整理していたら、昔のバーチカルファイルの中から、昭和51年11月の仙台市交通局『市民のあし』誌が出てきました。創業50周年記念特集号となっており、仙台市の市電の開通から廃止までを、写真で振り返るようになっています。

これによれば、仙台市の市電誕生は大正15年11月25日で、先代駅前から大町一丁目(2.1km)と東五番丁から荒町(1.2km)という路線を、40人乗りの木造車両10両で運行するというものだったそうです。

そこから昭和期に道路を作り線路が延び、市内循環線が開通したのが昭和3年3月で、戦争の時期には男子に変わって女性の運転手が登場したとのことです。

昭和17年8月には市バスが発足、近郊5バス事業を吸収して車両数65台、免許路線310kmで運行されますが、これもガソリン不足で代燃車だのみとなり、営業路線も次々に休止されてしまいます。

昭和20年7月10日未明の仙台空襲では、B29爆撃機100機により市街地は焦土と化してしまいます。


敗戦の後、焼け跡からの復興もまた、市電や市バスとともにすすんだとあり、昭和23年5月に原ノ町線が開通、昭和30年代が利用者数の最盛期にあたるようです。



経済成長と共にモータリゼーションが進み、昭和40年代には交通渋滞がひどくなって乗客の減少が顕著になり、昭和51年3月、ついに市電全廃となりました。


学生時代、市電の循環線を利用したものの、のんびりしたスピードで時間がもったいないように感じたものでした。でも、架線を支えるネットが路上をおおい、ガタゴト走る市電の中では、ゆっくり本も読めました。東一番丁や片平丁に向かう時に、駐車場の心配も不要な市電利用は、今思うとけっこう良かったように思います。


今や地下鉄が走る百万都市となった仙台市、懐かしい記憶の一コマです。

これによれば、仙台市の市電誕生は大正15年11月25日で、先代駅前から大町一丁目(2.1km)と東五番丁から荒町(1.2km)という路線を、40人乗りの木造車両10両で運行するというものだったそうです。

そこから昭和期に道路を作り線路が延び、市内循環線が開通したのが昭和3年3月で、戦争の時期には男子に変わって女性の運転手が登場したとのことです。

昭和17年8月には市バスが発足、近郊5バス事業を吸収して車両数65台、免許路線310kmで運行されますが、これもガソリン不足で代燃車だのみとなり、営業路線も次々に休止されてしまいます。

昭和20年7月10日未明の仙台空襲では、B29爆撃機100機により市街地は焦土と化してしまいます。


敗戦の後、焼け跡からの復興もまた、市電や市バスとともにすすんだとあり、昭和23年5月に原ノ町線が開通、昭和30年代が利用者数の最盛期にあたるようです。



経済成長と共にモータリゼーションが進み、昭和40年代には交通渋滞がひどくなって乗客の減少が顕著になり、昭和51年3月、ついに市電全廃となりました。


学生時代、市電の循環線を利用したものの、のんびりしたスピードで時間がもったいないように感じたものでした。でも、架線を支えるネットが路上をおおい、ガタゴト走る市電の中では、ゆっくり本も読めました。東一番丁や片平丁に向かう時に、駐車場の心配も不要な市電利用は、今思うとけっこう良かったように思います。


今や地下鉄が走る百万都市となった仙台市、懐かしい記憶の一コマです。