電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

梶尾真治『つばき、時跳び』を読む

2009年02月25日 06時28分33秒 | 読書
何らかの偶然で、時代を超えて過去や未来へ飛んでしまう、いわゆるタイムスリップものを初めて読んだのは、本書の本文中でも言及されている、マーク・トゥエインの『アーサー王宮廷のヤンキー』でした。これは実におもしろかった!さらにいささか趣きは異なりますが、半村良『戦国自衛隊』や、ジュード・デヴロー『時のかなたの恋人』(*1)なども面白く読みました。今回読んだ、梶尾真治著『つばき、時跳び』(平凡社)は、どちらかといえば『時のかなたの恋人』に通じる、時代を隔てたラブ・ロマンスです。

サラリーマンをやめ、専業作家生活を始めた井納惇は、祖父の家「百椿庵」に住み始めます。そこで、母が見たことがあるという若い女の幽霊に出会います。ですがそれは、実は幽霊ではなく、百椿庵の屋根裏に装備された時間移動を司る装置によって現代に飛んで来た、幕末の時代の娘でした。彼女の名は「つばき」。150年前に、1人で百椿庵に住んでいたのです。惇はつばきに現代のいろいろを手ほどきしますが、これは映画「マイフェアレディ」風。さらに着物ではなく現代の洋服を着せて、現代の町を案内します。このあたりは、映画「ローマの休日」風味。ところが、不注意にもつばきは幕末に戻されてしまいます。惇は彼女のことが忘れられず、屋根裏の装置をあれこれ探るうちに、今度は自分が幕末の百椿庵に移動することになってしまい、つばきに再会するのですが………というお話。



なかなかよくできたタイムスリップ・ラブロマンスです。現代の台所で、つばきが中性洗剤に感動し、油汚れがどんどん落ちることに驚いていますが、むしろガステーブルで鍋底にススがつかないことに驚くべきでしょう。長年、山形で芋煮会をしている者としては、鍋底にこびりついたススをかき落とす手間が、いちばんうっとおしい作業であることを痛感していますので。そんなこともあり、面白さから言えば、過去の時代から来た娘に現代を案内するよりも、現代の主人公が幕末の世に飛んでいってからの方がずっと面白いと感じます。

野暮を承知で、もう一つだけ疑問を呈しておきましょう。クロミウムとかいう、時間移動をつかさどる金属は、どうやら昇華性のものらしい。しかも、

前日、自分で手にしたときよりも、あの梁に差し込まれていたピンクがかった金属棒が、驚いたことに、ひとまわり小さくなっていた。
目の錯覚などではなかった。昨夜、原稿用紙が風で飛んだりしないようにと、その上に置いた。縦に置いた金属棒は、やや原稿用紙からはみ出ていた。それが、今では、原稿用紙内におさまっている。
(中略)
金属棒を手に持つと、確かに軽くなっていることがわかった。梁からはずしたことで昇華が促進されているのだろうか。

という具合に、一晩ではっきりと質量の減少さえわかるほど昇華が速いのであれば、幕末から現代まで存在し続けられるはずがない。逆に、幕末から現代まで、油紙に包まれて昇華せずに残っていたのなら、たかだか一晩で、小さくなったのがわかるほど急に昇華が進むのは不自然です。
つばきさんが再び幕末に飛ばされてしまう物語の展開上、必要な属性であることはわかりますが、昇華速度の不均一というのは、あまり納得できる想定ではないように思います。

まあ、そんなことは野暮なツッコミであることはもとより承知。つばき嬢は「ローマの休日」でいうところのアン王女でありますが、この映画の方は別れの後の空虚さで終わるのにたいして、こちらの物語はカルピスソーダのように甘酸っぱいハッピーエンドです。

この百椿庵という建物は、実は著者の自宅なのだそうで(*2)、こういう椿の花がたくさん咲き誇るお家に、一度住んでみたいものです。いえ、幽霊や幕末のお嬢さんの御訪問は、つつしんでご辞退申し上げますが(^o^)/

(*1):ジュード・デヴロー『時のかなたの恋人』を読む~電網郊外散歩道
(*2):カジシン・エッセイ第24回「時を超える話」~高橋酒造株式会社
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