電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

若い頃の感想文が出てきた

2007年10月24日 06時27分12秒 | クラシック音楽
本棚を整理していたら、若い頃、高校生か大学生の頃に書いた感想文が出てきました。ほとんど40年近く前のものです。驚くより何より、どんなことを書いていたのかと、興味津々。主題は小林秀雄の「モオツァルト」(新潮文庫)です。

小林秀雄「モオツァルト」を読んだ。六曲の「ハイドン・セット」の価値を認めることに異論はないが、「殆ど当時の聴衆など眼中にない様な、極めて内的なこれらの作品は、続いて起こった『フィガロの結婚』の出現より遥かに大事な事件に思われる」とすることには異論ありま~す。「シンフォニイ作者モオツァルトは、オペラ作者モオツァルトから何物も教えられる処はなかった様に思われる」だって!この人は、「フィガロの結婚」の伯爵夫人の嘆きや、「魔笛」のパミーナの喜びなどを、どのように聴いたのだろう?モーツァルトの遺作は「レクイエム」には違いないが、彼が死の直前にパパゲーノのアリアをうたってることを、この人はどう考えるのだろう?「モオツァルトは歩き方の達人だった」なんて、彼のエッセイ「モオツァルト」はちっとも歩いてる感じがしないじゃないか!

まあ、なんともはや(^o^;)>poripori
無謀にも、小林秀雄氏にかみついています。身の程知らずなどということは薬にもしたくない、たぶん、これが若さですね。

たしかに、今も同感できる部分はあります。小林秀雄氏は、モーツァルトの歌劇作品にうらみでもあるのかいな、と思うほど、純器楽作品を高めてオペラ作品を低める。「コシ・ファン・トゥッテ」のような作品が、弦楽四重奏等と共通のアンサンブル・オペラであると指摘できることはわかるが、ニ重唱や四重唱がみな器楽に由来するわけでもないでしょう。音楽史的には話が逆ではないかと思います。この、一方を低め他方を高く見せるという手法は、あまり読後感が爽やかではありません。

あ、いけない、年甲斐もなく、小林秀雄氏にかみついてしまった。もしかすると、今も昔と変わらず無謀なのかもしれない(^o^)/
コメント (6)