先々週の7月3~5日の三日間。ひょんなことから、関西旅行となった。人事異動が正式に決まる前にチケットを手配していたので、仙台空港と伊丹空港の往復切符であった。したがって、小生の場合、大宮⇔仙台間の新幹線代がさらにかかるハメとなったが、細かいことは気にしないのだ。(ということにしておこう。)
タイミングとしては職場も任地も一転したので、リセット的なリフレッシュの旅ともなったのである。
<東大寺大仏殿。世界一の木造建築物だ!>
11時半に伊丹空港に着いた。空港では関西の知人が待っていてくれた。この知人の国産高級車で関西を案内してくれるというのが、この旅のメリットのひとつである。まずは、小雨降る中、奈良の東大寺に行ってもらった。東大寺は5年ぶりである。あの堂々とした巨大な木造建築物を見るたびに圧倒された気持になる。そして、その中に、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)、いわゆる“奈良の大仏”様が鎮座しているのだ。(下の写真)
<この角度からの大仏様が一番厳かで迫力があるように思う>
この大仏殿は二度燃えている。一度目は1180年源平合戦の最中に平重衡の軍によって焼かれた。重源という上人が再建責任者で、同時代人の西行は重源にたのまれて平泉に勧進に行った。この旅の途中、西行は鎌倉で源頼朝にも謁したという。1185年にはほぼもと通りに再建した。
時代は過ぎて戦国時代。1567年に三好・松永の戦いの時にも全焼した。この時は戦乱がおさまるまで再建できなかったのだろう。大仏の修理が完成したのは百年以上経った江戸時代の元禄4年(1691年)。大仏殿の再建は将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われ、宝永6 年(1709年)に完成した。
これが今に伝わる三代目大仏殿である。高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の約三分の二に縮小されているという。今でもどでかい印象であるが、天平の初代はこの1.5倍も大きかったのだ。
鹿のフンに気をつけながら東大寺を後にし、興福寺の五重塔を見た後、大阪の通天閣に登って、道頓堀でご馳走になった。時々小雨降る梅雨空ではあったが、いい一日を過せたのだった。
タイミングとしては職場も任地も一転したので、リセット的なリフレッシュの旅ともなったのである。
<東大寺大仏殿。世界一の木造建築物だ!>
11時半に伊丹空港に着いた。空港では関西の知人が待っていてくれた。この知人の国産高級車で関西を案内してくれるというのが、この旅のメリットのひとつである。まずは、小雨降る中、奈良の東大寺に行ってもらった。東大寺は5年ぶりである。あの堂々とした巨大な木造建築物を見るたびに圧倒された気持になる。そして、その中に、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)、いわゆる“奈良の大仏”様が鎮座しているのだ。(下の写真)
<この角度からの大仏様が一番厳かで迫力があるように思う>
この大仏殿は二度燃えている。一度目は1180年源平合戦の最中に平重衡の軍によって焼かれた。重源という上人が再建責任者で、同時代人の西行は重源にたのまれて平泉に勧進に行った。この旅の途中、西行は鎌倉で源頼朝にも謁したという。1185年にはほぼもと通りに再建した。
時代は過ぎて戦国時代。1567年に三好・松永の戦いの時にも全焼した。この時は戦乱がおさまるまで再建できなかったのだろう。大仏の修理が完成したのは百年以上経った江戸時代の元禄4年(1691年)。大仏殿の再建は将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われ、宝永6 年(1709年)に完成した。
これが今に伝わる三代目大仏殿である。高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の約三分の二に縮小されているという。今でもどでかい印象であるが、天平の初代はこの1.5倍も大きかったのだ。
鹿のフンに気をつけながら東大寺を後にし、興福寺の五重塔を見た後、大阪の通天閣に登って、道頓堀でご馳走になった。時々小雨降る梅雨空ではあったが、いい一日を過せたのだった。