晴れ。秋晴れです。昨日の帰り、きれいな三日月を見ました。テレビで見たのと同じだと思ってしまうのが、何ともおかしい。
そして、今朝。羊雲が空一面に広がっていました。私の感覚は、まだ古代人と同じで、地球の周りに(地平線や水平線の上に)、空があって、そこには星が貼り付けられたように並んでいて、時間の経過とともにズリズリとずって、昼が夜になっていく…。
おかしなものです。恒星である太陽に捕まっている星、地球に生きているということはわかっているのですが、どうしても、目で見ることができ、身体で感じることのできる地球の、この大地が、世界の中心であるような感覚から逃れられないのです。
月を見ながら、知識と自分の感覚とのずれを、一人でおかしがってしまいましたが、人間というのは、本当にちっぽけな、哀れな存在ですね。
さて、学校です。
「Eクラス」の、ディクテーション用ノートと宿題用ノートを見るのが、少し楽になってきました。夏休みは終わったのだと、まだあまりわかっていない人もいるようですが、これも私の感覚と同じ、身体が反応していないのです。
ただ、「ひらがな」の間違いにイライラしたり、後ろで教科書を写していたこと(私が読み上げなかった単語まで写しているのです。しかも、ひらがなを写し間違えて)にムカッとしたりは、しなくなりました。
私も彼らに慣れてきたのでしょう。まあこれも、お互いに…というところでしょうか。そして、昨日から「漢字」の練習がはじまりました。この「ひらがな」や「カタカナ」が、しかとは覚えられていない人のいるクラスでも、「漢字」の授業は始めるのです。
とはいえ、それを心待ちにしていた人もいるのも事実。18人ほどもいると、それぞれがそれぞれの目的ややり方で、授業に臨み、また、私たちは私たちで、それぞれのやり方をしようとしますから、最初はギクシャクしてしまうのも、無理からぬことなのかもしれません。ただ、私たちはこういうやり方で授業に臨んでもらいたいと、言うだけは言ってあります。そうするかどうかは彼らの選択になりますが。
勉強に慣れていない人は、わずか「9課」までの内容であろうと、既に「わからない」という顔をして、隣の人に話しかけるか、(断られれば)スマホで遊ぶかしています。中には、勉強したいからかなのかわかりませんが、隣の人に一から十まで聞こうとする人までいます。不思議なのですが、ベトナムやスリランカの人は、聞かれたら、熱心に教えてしまうのです。教師が説明しているから(教師の話を聞かなければならないから)、今は嫌だとは言わないのです。で、その人まで、説明を聞きそびれてしまいますから、わからなくなってしまうのですが、そのことは二者とも考えないのです。
聞く方も、今は聞かない方がいいなどとは考えない。わからないとなったら、とにかく直ぐに聞いてしまう。聞くことで、その人の迷惑になることがあるのだとは考えない。最近は(そうした時に)、私が睨みつけますので、廻りは、私の目(きっと、嫌な目つきでしょうね)に気づき、アタフタとしてしまうのですが、当事者の二人は全く気づかない。それが何度も繰り返されますと(これは一人や二人がそうするというのではありませんから)、他者の時にはわかるので、自然に少しずつ用心するようになる。
まあ、それが目的です。うるさいと感じて、その都度文句を言ってしまうと、お互いに嫌な気分になるだけではなく、他の人まで嫌な気分になってしまいます。この「目」がものを言うようになれば、後は楽です。
日本語学校の教師というのは、まず「学生を信じています」し、「外国人だから」という目では見ません。そういう人間でも、「これは悪い」とか「これをしたら日本では立ちゆかなくなる」と思うようなことであったら、まず、しない方がいいのです。外国人に慣れていない人であったら、もっと嫌でしょう。
言葉は確かに便利ですが、『中級』くらいに入っていればともかく、『初級Ⅰ』のレベルであったら、何を言っても無駄なのです。わかってくれません。こちらがカリカリしながら言っても、結局は、暖簾に腕押しなのです。わかり合えるのは、身振りや手振り。そして、「目」なのです。
「怒っている」「笑っている」「嬉しがっている」「嫌がっている」などの時の表情は、万国共通なのです。ただ、こちらも本気で、大仰であると思われるくらいに真剣に「怒ったり」、「嫌がったり」すべきで、中途半端は逆効果になってしまいます。
今日でこのクラスを持って一週間と1日が過ぎ、先週に比べれば、随分楽になりました。そう思って、思わず手綱を緩めると、気体状態になってしまい、次の先生がちょっと手を焼いたそうです。この手加減というのが…難しい。あまり強面ばかりでやるというのも…もう年なので、こっちの方が疲れてしまうのです。困った、困った。
日々是好日
そして、今朝。羊雲が空一面に広がっていました。私の感覚は、まだ古代人と同じで、地球の周りに(地平線や水平線の上に)、空があって、そこには星が貼り付けられたように並んでいて、時間の経過とともにズリズリとずって、昼が夜になっていく…。
おかしなものです。恒星である太陽に捕まっている星、地球に生きているということはわかっているのですが、どうしても、目で見ることができ、身体で感じることのできる地球の、この大地が、世界の中心であるような感覚から逃れられないのです。
月を見ながら、知識と自分の感覚とのずれを、一人でおかしがってしまいましたが、人間というのは、本当にちっぽけな、哀れな存在ですね。
さて、学校です。
「Eクラス」の、ディクテーション用ノートと宿題用ノートを見るのが、少し楽になってきました。夏休みは終わったのだと、まだあまりわかっていない人もいるようですが、これも私の感覚と同じ、身体が反応していないのです。
ただ、「ひらがな」の間違いにイライラしたり、後ろで教科書を写していたこと(私が読み上げなかった単語まで写しているのです。しかも、ひらがなを写し間違えて)にムカッとしたりは、しなくなりました。
私も彼らに慣れてきたのでしょう。まあこれも、お互いに…というところでしょうか。そして、昨日から「漢字」の練習がはじまりました。この「ひらがな」や「カタカナ」が、しかとは覚えられていない人のいるクラスでも、「漢字」の授業は始めるのです。
とはいえ、それを心待ちにしていた人もいるのも事実。18人ほどもいると、それぞれがそれぞれの目的ややり方で、授業に臨み、また、私たちは私たちで、それぞれのやり方をしようとしますから、最初はギクシャクしてしまうのも、無理からぬことなのかもしれません。ただ、私たちはこういうやり方で授業に臨んでもらいたいと、言うだけは言ってあります。そうするかどうかは彼らの選択になりますが。
勉強に慣れていない人は、わずか「9課」までの内容であろうと、既に「わからない」という顔をして、隣の人に話しかけるか、(断られれば)スマホで遊ぶかしています。中には、勉強したいからかなのかわかりませんが、隣の人に一から十まで聞こうとする人までいます。不思議なのですが、ベトナムやスリランカの人は、聞かれたら、熱心に教えてしまうのです。教師が説明しているから(教師の話を聞かなければならないから)、今は嫌だとは言わないのです。で、その人まで、説明を聞きそびれてしまいますから、わからなくなってしまうのですが、そのことは二者とも考えないのです。
聞く方も、今は聞かない方がいいなどとは考えない。わからないとなったら、とにかく直ぐに聞いてしまう。聞くことで、その人の迷惑になることがあるのだとは考えない。最近は(そうした時に)、私が睨みつけますので、廻りは、私の目(きっと、嫌な目つきでしょうね)に気づき、アタフタとしてしまうのですが、当事者の二人は全く気づかない。それが何度も繰り返されますと(これは一人や二人がそうするというのではありませんから)、他者の時にはわかるので、自然に少しずつ用心するようになる。
まあ、それが目的です。うるさいと感じて、その都度文句を言ってしまうと、お互いに嫌な気分になるだけではなく、他の人まで嫌な気分になってしまいます。この「目」がものを言うようになれば、後は楽です。
日本語学校の教師というのは、まず「学生を信じています」し、「外国人だから」という目では見ません。そういう人間でも、「これは悪い」とか「これをしたら日本では立ちゆかなくなる」と思うようなことであったら、まず、しない方がいいのです。外国人に慣れていない人であったら、もっと嫌でしょう。
言葉は確かに便利ですが、『中級』くらいに入っていればともかく、『初級Ⅰ』のレベルであったら、何を言っても無駄なのです。わかってくれません。こちらがカリカリしながら言っても、結局は、暖簾に腕押しなのです。わかり合えるのは、身振りや手振り。そして、「目」なのです。
「怒っている」「笑っている」「嬉しがっている」「嫌がっている」などの時の表情は、万国共通なのです。ただ、こちらも本気で、大仰であると思われるくらいに真剣に「怒ったり」、「嫌がったり」すべきで、中途半端は逆効果になってしまいます。
今日でこのクラスを持って一週間と1日が過ぎ、先週に比べれば、随分楽になりました。そう思って、思わず手綱を緩めると、気体状態になってしまい、次の先生がちょっと手を焼いたそうです。この手加減というのが…難しい。あまり強面ばかりでやるというのも…もう年なので、こっちの方が疲れてしまうのです。困った、困った。
日々是好日