曇り。時折、陽が射してくることはあっても、今日は一日中、曇りとのことでした。
ここ数日、朝は雷様がドンドコと鳴り続け、雨もザァ-ザァ-と降っては止みを繰り返し、その隙間を縫うようにして、人間が活動している具合でした。そう、「天」には、敵いません。
たかだか、21世紀ほどの科学で、自然を操縦できると踏んでいた人間の悲しさ。その気になれば、人間を絶滅させることなど、朝飯前なのでしょう。もちろん、人はわかっているからこそ、神を作り、伝説を編み続けているのでしょうけれども。
今朝は、夜明け前から、虫たちの声が聞こえていました。涼しくなると、途端に生き返って恋の歌を奏で始めるのですから、虫たちは強い。人も彼らと同じように天の法に従って生きていけば、「賢治」の世界で終わっていたのでしょうけれども。
どう足掻いても、勝てる見込みはありません。それでも、好奇心と探求心とを、普通の人間よりも多く与えられた人達が、新しい道を進んでいこうとしています。これは「恵」なのでしょうか、それとも「罰」なのでしょうか。
秋が深まってくると、いつも浮かんでくる句があります。
「咳をしても一人」(尾崎放哉)
浮かんでくると、自然に、放哉や山頭火の俳句集を見てしまいます。こういう時は、決まって、所在なかったり、モヤモヤしていたり、何となくやるせなかったりしているのですが、きっと、無意識に、慰めを求めているのでしょう。
「いつしか ついてきた犬と 浜辺にいる」(放哉)
「こころ疲れて 山が海が うつくしすぎる」(山頭火)
「まっすぐな道で さびしい」(山頭火)
「ふくろうはふくろうで わたしはわたしで ねむれない」(山頭火)
「こんなよい月を ひとりで見て寝る」(放哉)
放哉や山頭火のことを知ったのは、高校の国語の授業の時でした。それまでは、俳人というのは芭蕉であり、蕪村であり、一茶であり…それ以外の人は、偶然、雑誌や新聞などで目にしても、それなりのことで、それでその人を求めるというようなことはありませんでした。
多分、私にとって、「俳句」は「短歌」よりも難解だったのでしょう。短いだけにどうとでも解釈でき、それ故に、却って諄くなってしまい、煩わしく思えたのです。
それが、自由律のものは、直ぐにわかってしまいます。この判るということに感情移入しやすさを感じたからかもしれません。だれでもの俳句…。
さて、学校です。
こういう日本語学校には、真剣に大学や大学院の進学を考えて来た者。進学はしたいが、無理はしたくない。ほどほどの日本語が話せたら、専門学校へ行き、手に職をつけ、日本の会社で働きたいと考えて来た者。それから何が目的で来たのか(私たちには)わからない者。大きく分ければ、この三種の人達以外には、いないのです。
この学校では、できるだけ、この3番目の人達を避けているのですが、それもなかなかうまくいかず、(彼らを)連れてくる人達は(どんなにしつこく私たちが言っても)、必ず、「彼は勉強したいと言っている」と言うのです。
この真偽を見分けるのは、本当に難しい。彼らの国の有名大学を出ている人であっても、来日後の行動は、明らかに、「3番目の種類の人だな」としか思われない人がいます。もちろん、これは、日本人同士であっても、一度の面接で相手見抜けるかというと…そんなことはないでしょう。仕方がないと言えば、ある意味ではしかたがないとしか言いようがないのです。
ただ、こういう人たちであっても、「遅刻しない、毎日学校へ来る」を繰り返しているうちに、日本語はそれなりに(日本で生活していて、それほど困らない程度には)上手になっていきます。ですから、彼らの希望に沿った専門学校を探せ、そこへ行き、そして適当な頃に帰国していくのでしょう(こういう人たちには、それなりのネットワークがあるようです)。
それが、運悪く、経済的な理由で、一時、大学や大学院を諦め、専門学校で勉強した後に再チャレンジしようという学生が、こういう所に引っかかってしまうと、悲惨なことになってしまいます。先に、学校に言って、相談してくれれば、それなりの所を紹介できるのですが、一円でも安いところがいいと、目先の利益で動いてしまうと、却って墓穴を掘ってしまうのです。それに、変に自分に自信のある人は、最後の最後まで勝手にやってしまい、自分でドンドンドンドン傷を深くしていくことになってしまいます。直ぐに頼ってくれれば、傷は浅くてすむのですけれども…。
日々是好日
ここ数日、朝は雷様がドンドコと鳴り続け、雨もザァ-ザァ-と降っては止みを繰り返し、その隙間を縫うようにして、人間が活動している具合でした。そう、「天」には、敵いません。
たかだか、21世紀ほどの科学で、自然を操縦できると踏んでいた人間の悲しさ。その気になれば、人間を絶滅させることなど、朝飯前なのでしょう。もちろん、人はわかっているからこそ、神を作り、伝説を編み続けているのでしょうけれども。
今朝は、夜明け前から、虫たちの声が聞こえていました。涼しくなると、途端に生き返って恋の歌を奏で始めるのですから、虫たちは強い。人も彼らと同じように天の法に従って生きていけば、「賢治」の世界で終わっていたのでしょうけれども。
どう足掻いても、勝てる見込みはありません。それでも、好奇心と探求心とを、普通の人間よりも多く与えられた人達が、新しい道を進んでいこうとしています。これは「恵」なのでしょうか、それとも「罰」なのでしょうか。
秋が深まってくると、いつも浮かんでくる句があります。
「咳をしても一人」(尾崎放哉)
浮かんでくると、自然に、放哉や山頭火の俳句集を見てしまいます。こういう時は、決まって、所在なかったり、モヤモヤしていたり、何となくやるせなかったりしているのですが、きっと、無意識に、慰めを求めているのでしょう。
「いつしか ついてきた犬と 浜辺にいる」(放哉)
「こころ疲れて 山が海が うつくしすぎる」(山頭火)
「まっすぐな道で さびしい」(山頭火)
「ふくろうはふくろうで わたしはわたしで ねむれない」(山頭火)
「こんなよい月を ひとりで見て寝る」(放哉)
放哉や山頭火のことを知ったのは、高校の国語の授業の時でした。それまでは、俳人というのは芭蕉であり、蕪村であり、一茶であり…それ以外の人は、偶然、雑誌や新聞などで目にしても、それなりのことで、それでその人を求めるというようなことはありませんでした。
多分、私にとって、「俳句」は「短歌」よりも難解だったのでしょう。短いだけにどうとでも解釈でき、それ故に、却って諄くなってしまい、煩わしく思えたのです。
それが、自由律のものは、直ぐにわかってしまいます。この判るということに感情移入しやすさを感じたからかもしれません。だれでもの俳句…。
さて、学校です。
こういう日本語学校には、真剣に大学や大学院の進学を考えて来た者。進学はしたいが、無理はしたくない。ほどほどの日本語が話せたら、専門学校へ行き、手に職をつけ、日本の会社で働きたいと考えて来た者。それから何が目的で来たのか(私たちには)わからない者。大きく分ければ、この三種の人達以外には、いないのです。
この学校では、できるだけ、この3番目の人達を避けているのですが、それもなかなかうまくいかず、(彼らを)連れてくる人達は(どんなにしつこく私たちが言っても)、必ず、「彼は勉強したいと言っている」と言うのです。
この真偽を見分けるのは、本当に難しい。彼らの国の有名大学を出ている人であっても、来日後の行動は、明らかに、「3番目の種類の人だな」としか思われない人がいます。もちろん、これは、日本人同士であっても、一度の面接で相手見抜けるかというと…そんなことはないでしょう。仕方がないと言えば、ある意味ではしかたがないとしか言いようがないのです。
ただ、こういう人たちであっても、「遅刻しない、毎日学校へ来る」を繰り返しているうちに、日本語はそれなりに(日本で生活していて、それほど困らない程度には)上手になっていきます。ですから、彼らの希望に沿った専門学校を探せ、そこへ行き、そして適当な頃に帰国していくのでしょう(こういう人たちには、それなりのネットワークがあるようです)。
それが、運悪く、経済的な理由で、一時、大学や大学院を諦め、専門学校で勉強した後に再チャレンジしようという学生が、こういう所に引っかかってしまうと、悲惨なことになってしまいます。先に、学校に言って、相談してくれれば、それなりの所を紹介できるのですが、一円でも安いところがいいと、目先の利益で動いてしまうと、却って墓穴を掘ってしまうのです。それに、変に自分に自信のある人は、最後の最後まで勝手にやってしまい、自分でドンドンドンドン傷を深くしていくことになってしまいます。直ぐに頼ってくれれば、傷は浅くてすむのですけれども…。
日々是好日