日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「日本人は『お猫さん』とか、『お犬さん』とか、何にでも『さん』をつける」。

2013-09-19 08:41:57 | 日本語の授業
 晴れ。今日も「秋晴れ」です。そして、今夜は「お十五夜様」。今晩はきれいなお月様が見られそうです。

 そういえば、昨日、「Bクラス」で、日本人は、よく「お猫さん」とか、「ニワトリさん」とか、また、ある時は「ニャンちゃん」とか、「ワンちゃん」とか、あるいは「風さん」とか、「お日様」とか、動植物や自然現象に「さん」や「様」をつけるということが話題になりました。

 以前も、こういうことがありました。私たちの口癖がうつったのでしょうか、スリランカの男子学生が、話の中で、「どろぼうさんが…」とか、「小鳥さんが…」とか言っているのを聞いて、「あれれ、うつってる…」と思ったことがありました。

 まあ、これは偉そうに、ふんぞり返って、「どろぼうが…」とか、「鳥が…」とか、言うのに比べれば、どこか微笑ましく、グッと親近感が出てくることなので、悪くはないのですが(何と言っても、彼の国の人は、総じて日本人よりも体格がよく、ごついのです)。

 彼らに、「どうして」と聞かれても、「習慣だから」としか言えない部分もあります。それに、「これは、敬語ではない」と一概に否定することもできかねますし、人と同列に見なしているが故に、そういうのだと言える場合もありますし。つまり、もの皆(自然現象をも含めて)、生きているのです。その意味ではヒトと同じ。

 仏教国の人間にはこの考え方はスッと入っていき、別に取り立てて説明する必要もありません。だいたい輪廻思想がありますもの。

 ただ、そうは言いましても、本当のところ、日本はどうでしょうね。

 確かに「甦り」というのはありますが、万葉時代のように、人は死ぬと、近所の山に行き、時折、そこを訪ねてくる親しい人と、その人の夢で会うというのも、捨てがたいのです(あるだろうなと思ってしまうのです)。

 人は、(その人の)身近な人が、皆、死んでしまうと、つまり見知った人が死に絶え、(その人を)思い出す人がすっかりいなくなってしまうと、その時が本当に死を迎えることになる。完全に黄泉の国の人間になることだというのも、納得ができてしまうのです。

 なぜ、何度も何度も生きなければならないのか、できれば、黄泉の国で新たな「ひと柱」としてのんびり暮らしたほうがいいと、本心では皆思うでしょう。だから、もしかしたら、そうはさせじと、生前の功徳というか、悪行によって、甦りの場所が決まるということになったりするのかもしれません。でも、嫌ですね。死んでも「裁判」なるものが行われて、偉そうに決められてしまうなんて。死んだら、それで終わりとできないものか。まあ、これは死に行く者の気持ちで、それを送る身内にしてみれば、それでは、ある意味、辛すぎることなのかもしれません。

 さて、「Bクラス」です。

 時々、教えながらですが、彼らには、文法は文法、そして、いわゆる中心教材たる教科書は、短文、あるいは中文主体の問題集にした方がいいのではないか、その方が読解力がつき、知識も増えるのではないかと思うことがあります。

 どうしても、今、市販されている教科書というのは、時代に合わないのです、それにどこか、欧米人相手に編まれているようなそんな気がすることもあるのです。もちろん、だからといって時事問題ばかりをやったほうがいいと言うわけでもないのですが。

 いわゆる、留学試験で出てくるような、知識を問うような、あるいはそれを読むことによって、それを蓄積できるような、そんな文章の方がいいのではないか。漢字は、一応「N4」か、「N3」程度のものさえ身に付けておけば、それ以上の難易というのは、彼らにとってあまり関係ないのではないか(彼らにとって必要な単語さえ漢字で書ければ、後は自然に道が開けてくるのではないか)。

 そんな気がすることがあるのです。特に、東南あるいは西南アジアからの学生達が増えてくると。

 以前にも、中国人学生を教えている時、あまりに知識が少ないのに驚かされ、その時は、白地図を使って、国名を覚えさせたり、世界史(高校)の資料を使って、知識を注入(?)したりせざるを得なかったことがありました。

 日本人は、自分達を、より優れた国の教授法や教育内容と比較し、「ここが足りない、あれも学ばせておかなければ」などと考えがちですが、大半の国ではそうではないのです。それぞれの国家の政府の必要から、あるいはその国の成り立ちにかかわる考え方から(下手に優れた他の国のことを知らしめてしまうと、自国を誇れなくなる恐れがありますから)それをしないという国もありますし、また諸般の情勢から、教えたくとも教材も何もなくてできないという国もあるのです。

 この面では、私は、日本は捨てたものではないと思います。学校で学ばなくとも、以前は、テレビが啓蒙家の役割を果たしてくれました。NHKのいいところは、教養番組が充実していたことです。これは家族で楽しみながら、新しい知識を手に入れられるという面でもよかったし、また、自分で、問題を探さねばならないというのではなく、受け身で、それを学べたという面でもよかった。なぜなら、子供なんて何を学べばいいかなんてわかりませんから。漠然と見ているだけでも、それなりのものが得られたのです。

 今は、民放も頑張っています。もちろん、悪名高い番組もあるようですが、それとても、だれかがチャンネルを切ればすむことで、見るか見ないかはその人次第なのです。言わずもがなのことですが、インターネットはいくら発達しても、何を調べたらいいかがわからなければ調べられないし、知りようがないのです。その点、受け身でいられるテレビは、知識があまりないものにとっては救いなのです。

 当時、ある中国人が言っていました。「日本では動物番組でも、動物の進化とか身体の特徴などを「注」を入れて番組の中で説明している。ただおもしろいものを見せるだけではない」と。

ま た、旅行番組でも、「どこかしら教育番組のような色合いがある…」と。これはちょっと、そうかなという気もするのですが、多分、彼の国と日本とを比べての、相対的な評なのでしょう。

 本当は、学生達に私が見て面白かった、ためになるだろうと思われるテレビ番組を見せたいのです。もちろん、文字も大切、それはそれで大切なのはよくわかっているのですが、だいたい「中級以上」になりますと、「読解力」なんてのは、母語のレベルで決まっているので、新たに養うというのは難しい。半分以上はできないと思っています。

 母語で、ある程度の読解力が養われているなら、外国語で文章を読んでも同じこと、わかるでしょう。だから、それが養われている人は、文法は文法で覚え、必要な漢字は漢字で、その都度、覚え(身近なことでなければ、意味が摑めないので、覚えられないのが、一字一字に意味のある漢字の面白いところ)、映像や話し合いを通して、単語や知識を身に付ける方がいいのではないかと。

 ただ、これは皆に共通するわけではないのです。「このクラスは」と思っているだけで、しかも、こうなりますと、それぞれ興味の分野も異なっていますから、それを整合させたりすると、何やかにやと、教師の仕事はズンと増えてきます。他のクラスも教えていますし、初級を持っていると、ノートを見るだけでも一仕事になってきますから…、う~ん。切ないところですね。

 もちろん、切ないなんて言ってはいけないのでしょうけれども。ちょうど、次の「上級」の教科書の注文を入れなければならない時にかかっていますので、余計、躊躇してしまうのです。でも、やっぱり、無理かな。

日々是好日
コメント
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