日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「人それぞれ。皆が一様に上手になれるわけでもないし、それを望んでいるとは限らない」。

2013-09-09 11:02:36 | 日本語の授業
 曇りのち晴れ。今日は「重陽の節句」。秋ですね。昨日の雨が、秋を運んできたようです。もっとも週末には一時撤退するようですが。

 さて、学校です。

 こういう日本語学校の学生達は、一律に、外国人であるから、こういう授業をすると、型に嵌め込むことはできません。「漢字圏」、「非漢字圏」によっても違いますし、「高卒」、「大卒」に拠っても違います(知識の量もですが、勉強したことがあるかとか、成功体験なども関係してくるのです)。また「母国の教育レベル」や「勉強の習慣の有る無し」、「書く習慣の有無」によっても違ってきます。

 ただ、「動機」や、あるいは「目的」がしっかりしていて、意欲さえあれば、こういう違いは何とかなる…(と、私たちは信じています)。ところが、それもない、しかも、勉強する習慣もないとなりますと、もはや、私たちには手に負えない存在となり果ててしまうのです。

 日本の学校で言えば、公立の小中学校のようなものなのです。経済的に恵まれている者もいれば、そうではない者もいる。勉強したい者もいれば、それはごめんだという者もいる。中には、勉強することがどういうことなのか(一ヶ月ほども、日本にいて勉強しているのだから、少なくとも、「ひらがな」くらいは覚えられるだけの能力や根気は、もっていてほしい)、よくわからぬまま来日してしまっている者もいる(本当にそうなのです。これは、彼らの母国の教育や社会と関係したことなのでしょうが)。

 多分、こういう人は何もわからないし、考える気もないまま、来日してしまったのでしょう。知り合いが日本へ行って(アメリカやヨーロッパは行きにくい)、それなりに金を稼いできた。だから自分も…と、漠然と僥倖を期待して来てしまったのでしょう(そのくせ、アルバイトがないと文句を言うのです。日本語が話せないし、ひらがなも書けない、読めないのであれば、ないのは当然です。それもわからないのかと、こちらでは思うのですが)。もちろん、それをよしとし、送り出す親も親だとは思います。けれども、もしかしたら、親の方でも、それがよくわからないようなレベルなのかもしれません。

 本当に何を考えているのか、わからないスリランカ人学生がいるのです。

 しかも、「(彼が)可哀想だ。判らないと言っているから、先生、面倒見てあげて」なんぞと言ってくるスリランカ人学生まで、いるのです。

 七月に来てから、直ぐに「ひらがな」や「カタカナ」は教えてあります。もちろん、教えっぱなしではなく、覚えられるように何回も「ひらがな」や「カタカナ」のテストをしたり(学校で)、宿題で教科書を写させたりしています。彼らが覚えられるように、その時の担任が嫌になるくらい、こういう手間暇をかけているのです。その期間は、彼らが来日してからの、ほぼ一ヶ月、毎日のように続けられました。

 それでも、覚えられないのか、覚えるつもりがないのか、だいたい勉強したことがないから、適当にやっていただけであるのか、それはわかりませんが、実際には覚えていないのです。しかも、まだ「8課」とか、「9課」とかいった、そういった段階です。それくらいの単語も(多分、前の課も、虫食い状態でしょう)わからないとは。

 実際のところ、この学校では、耳タコになるくらい、復習に時間をかけています。これも、アルバイトが忙しくて、それほどの時間を復習に割けない人が多いからなのですが。新出の単語に至っては、1日に2、3度は全部を読み(学校で)、意味の確認をしていますし、ディクテーションもしています。2日に1課ですから、少なくとも5、6回は皆で読み、カードで練習し、ディクテーションをして確認をしています。その都度、ひらがなやカタカナは書くチャンスがあるのです(カード練習はずっと続けます。いまだに「動詞」や「形容詞」は、すべてを毎日やっています)。練習のBにしても、1日のうち、3、4時限目の教員が前の分をもう一度やっていますし、翌日には、また前日の分を復習としてやっています。そして練習の前にはまたその課の分をやっています。

 おまけに、放っておいたら、宿題もしない人も(つまり、書かないから文字を忘れてしまう)いるので、そういう人でも、「ひらがな」や「カタカナ」を、1日に1度は(ディクテーションでも、書けませんから)書かせられるようにと、この「Eクラス」では、宿題の一部を、わざわざ時間を与えて、学校でさせているのです(10分ほど)。出来ない人は、例を写すだけでもいいということにして。

 皆、当然のことながら、小学生や中学生ではありません。ほとんどが二十歳を過ぎた立派な大人です。男性に至っては、私などよりも遙かに背も高いし、恰幅もいい。「ひらがな」を覚えるために、教師がつきっきりで(既に練習期間の一ヶ月は終わりました)、「はい、『ま』は違いますよ。こうですよ」と、教えなければならないとでもいうのでしょうか。

 クラスの大半は、ほとんど覚えていますし、忘れていた単語があれば、自分で単語の対訳を見ます(それもできずに、人が教えてくれるのを口を開けて待っているだけ)。少なくとも、他の人達は、覚えられないのは自分が勉強しないからだと言うことがわかっているのです。このクラスには大学進学を希望している者もいます(頑張ればできるでしょう)けれども、何せ非漢字圏で来日したのは「七月」です。

 4月や1月に来た学生と一緒に(大学を)受験しなければならないのです。1月に来た学生は、すでに『中級』に入っていますし、4月に来た学生も、『初級Ⅱ』の「39課」を終えています。七月生は、七月に来て、長い夏休みがあって、今はまだ『初級Ⅰ』の「9課」なのです。そこで、勉強する気のない人に付き合って、だらだらやってしまったら、懸命に勉強している大半の学生まで、何のために日本へ来たのかわからなくなってしまいます。

 「(日本では)勉強する人はドンドンして、出来ない人は次の『10月生』が来た時に、また始めからやり直せばいい。できてもできなくても、同じクラスにいるなんてことはでいないよ。」と一回一回言っていっても、果たしてどれほどわかってもらえるのでしょうか(わかる学生は、言わずともわかるので、気の毒なのですが。わからない学生は何度言っても、彼らの国の言葉に翻訳させて聞かせても、やはりわからないのです)。

 「ここは、小学校や中学校ではないよ。勉強する人はたくさん勉強していき、勉強する気のない人、時間がかかる人は、それなりに何度もやればいい」ということがわかるまで、どれほどかかるのでしょう。もしかしたら、この学校にいる間にわかるなんてことはないのかもしれません。以前にバングラデシュの学生でそういう人がいましたから。

日々是好日
コメント
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