日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「大学の『オープンキャンバス』へ、行ってほしい。たとえ一人でも、怖じずに」。

2013-09-18 17:54:30 | 日本語の授業
 晴れ。
 秋晴れです。朝晩はグッと涼しくなりました。早朝は20度を切っています。そういう日が2日も続くと、秋が本格的になったような気がしてくるから不思議です。このまま秋に突入…まさかね。

 学校では「七月生」がかなりおとなしくなってきました。このクラスのスリランカ人学生が二人ほど寮に入っていないので、少し心配だったのですが、いずれにしても、この近くなので、まあ、大丈夫でしょう。それに一人は勉強にかなり欲があるようですし。

 ただ、この欲といっても、「大学に入りたい」で、止まっているのです。「何を学びたいか」と聞くと、途端に口ごもってしまいます。成績がある程度よかった…だから大学。ここまでは万国共通でしょう。そして、後は…。

 「大学よりも専門を選べ。専門も何が好きか、何がやりたいか、損得よりも先にそれを考えよ」というのは、彼らにとっては少し酷なのかもしれません。

 そういうと、「日本では何が勉強できますか」と聞き返されてしまいます。

 最近は、いろいろな学部が、初夏の花のように咲きそろい、名を見ただけでは「いったい何が学べるのか」、日本人である私でも…、よくわからない…。

 それで、まず、自分がやりたいこと(やりたいことがなければ、好きなこと)を、だいたいでもいいですから、決め、そして、オープンキャンバスに行ってみる。

 時々、「何を選んだら、日本で就職がしやすいのか」と聞かれることがあります。これも難しい。日本で働くことが、最終目的である彼らにとって、切実な問いであることはよくわかっているのですが、日本人の学生だって、それはわからないのです。しかも、四年後の卒業時に、何がよかったかなんて、神ならぬ身の我ら人間、だれにもわからない…。

 ただ、以前のこと。中国人学生が、皆一様に、「経営」を専攻したいと言うので、変だと思い、(これが)好きなのか、あるいは関心でもあるのかと聞いたことがありました。すると、好きじゃないけどと言う者がいたのです。好きじゃないのにどうして専攻したいというのかと改めて問いただしてみますと、「卒業後、日本の会社に勤めたいから」

 もちろん、「経営」や「経済」などがわかっていた方が、会社勤めは楽かもしれません。、けれども、「それだけじゃないだろう。それに、それが(日本の会社に勤められる)必要最低条件ではなかろう」と言いましても、なかなかわかってくれないのです。

 「例えば、銀行であろうと、商社であろうと、環境問題に精通した者はいる。機械メーカーであろうと、音楽やアニメーションのことがわかった者がいる。何を専攻していようと、就活は自由である」と、それを納得させるのに大汗を掻いたことがあります。もっとも、結局、彼は経営を専攻しましたけれども。

 「芸は身を助く」とも「好きこそものの上手なれ」とも言います。しかしながら、その反面、「芸が身を助けるほどの不幸せ」という言葉もあります。何がその人にとって幸せであるのか、それはだれにもわからないのです。それなら、好きなことを勉強した方がいいんじゃないかというのが、私たちの考えなのですが(そうは言いましても、それだけではないことはよくわかっています。両親の勧めでこれにしなければならないとか、国が欲しているからとか、そういう場合もあります)

 彼らは縁あって、日本にやって来ました。「フクシマ」が、カタカナで語られるようになってから、日本に学びにやってきた人達は、日本にとっても大切な人々です。彼らが、ここ、日本で、なにがしかのものを身に付け、そして将来幸せな生活を送ることができるように、日本語学校に勤めている人間である私たちも、それなりのことをしていかねばならないのです。

 「フクシマ」となってから、日本人は、欧米人だけではなく、東南西南アジアの人に対しても、中近東やアフリカに対しても、どこか態度が変わってきたような気がします。中南米からの人は日系が多く、またこれとは質を異にする部分があるのですが。

 何となくなのですが、政府の政策というものも、微妙に人々の心に影響を与えているような気がします。もしかしたら、それは政府の政策によって方向を変えた企業の態度に拠るのかもしれませんが。

 以前、中国にいた時、欧米の駐在が長かったという企業人と、後発国の駐在が長かった企業人との違いに愕然としたことがありました。留学生に対しても、後発国の駐在が長かった人は王族か貴族のような態度て接しようとするのです。こちらは別に関係がないのに。ただただ、非常に不愉快な気分にさせられただけでした。

 けれども、もう時代が違います。こんな態度で彼らと接することなんてできはしないでしょう。また、そうしない人が好まれ、派遣されていることでしょう。まあ、これは希望ですが。わざわざ、異国へまで行って、彼の国の人々を、嫌日家や反日家にさせる必要などないのです。

 日々是好日