今朝、ふと「ハナミズキ」の葉がすっかり落ちているのに気がつきました。迂闊でした。思えば、「サザンカ」の花がすでに満開になっていたのですから、「ハナミズキ」の葉が散っていても、おかしくはなかったのです。
秋も随分深まってきました。暖かい日が続いていたので、冬が間近いということを忘れていたのです。そういえば、今日の新聞には「神宮外苑」のイチョウ並木が一面を飾っていましたっけ。樹齢101年の樹が100本以上並ぶと、確かに壮観です。写真ではきれいな黄金色で三角頭の木々に見とれてしまいましたが、そこには「今月いっぱい」という文字があるではありませんか。しかも「天気がよければ」という条件付きで…。
どうしましょう。予定では、「外苑散策」は、「日本語能力試験」が終わってから…ということになっていましたのに。「例年より一週間ほども早く、黄葉が始まった」という言葉が恨めしい。
イチョウの並木をバックに、早朝の金色の光を浴びて撮った写真は、学生達のいい思い出になるのです。学生達の顔を輝いて見え、辛かったことも忘れてしまいそうになります。昨年は、「黄葉」と「紅葉」と、欲張りにも二つ共楽しみ、またそれが可能であるということにも気づき、それで、今年も二匹目の泥鰌を狙っていたというのに…。この分では「紅葉」だけで終わりになるかもしれません。全く「散るな、散るな」と八百万の神々に祈らねばならないではありませんか。
ところで、今、少数民族の「学校教育」について考えさせられています。考えさせられるようになったきっかけは、中国なのですが、これも、中国だけのことではありません。ただ、この学校に来ている学生のうち、半数ほどが中国籍なので、そうなっただけのことなのです。
中国の少数民族といいましても、「朝鮮族」や「モンゴル族」は、何百万人もいますから、小国の民から見れば、「何が少数民族なんだ」というところでしょう。中国には、それぞれの民族の言葉で学べる学校もあります。一見、それはいいことのように思えますが…こうして、日本で彼らを教えてみますと、問題点も少なくないのです。
私たち、外国人から見れば、(中国の)どの民族であろうと、籍は「中国」です(しかも、外見も同じですし、「中国語」を話しています)。ですから、ややもすると、「漢語」で育っている「漢族」と同じレベルの教育を受けてきているような錯覚に陥ってしまいます。けれども、そういう人たちが、日本に来て大学を目指そうという時に、一つの「難関」があるのです。「読解力」という関門が。
最初は、私も「どちらにせよ、中国人なんだし、中国語を話しているんだし、『漢字』はあまり問題にならないだろう。しかも、大卒であれば、読解力が不十分というのは、ちょっと考えられない」くらいに思っていました。勿論、「漢族」の中にも、ちょっと困ったなという人はいましたが、それは「性格」や「傾向」で片付けられる類のことでした。実は、「文学」が大の苦手の「漢族の男性」がいたのです。なぜか「一級試験」には、合格しましたが。
ところが、違うのです。結局は、読書量の多寡の差によるのでしょうが、彼らの民族の言葉で「教育を受けてきた」というのは、彼らの民族の「教育レベル」の枠から出ていないということなのです。彼らの民族の言葉で書かれた書籍がそれほどないのです。つまり、「知識」も「感性を養う」ということも、学校教育において、それほど書物には頼られていないのです。
ただ、同じ少数民族であっても、「朝鮮族」は違っているようです。同じ言語を使う韓国が控えていますから、書物には不自由していないのです。
彼らは「モンゴル族」と同じように、民族の言葉で教育を受け、「漢語」を第一外国語として学んでいても、「韓国語」で書かれた小説や随筆、翻訳物などを通して、多くの知識を獲得することができます。しかし、モンゴル族は、そうではないのです。
中国のモンゴル族が、半数近くを占める「Dクラス」は(まだ中級ですから)、非漢字圏の学生達と一緒の授業です。毎日だいたい20分ほどを漢字の導入、練習に使っているのですが、その間、「Dクラス」のモンゴル族の学生達は、非漢字圏の学生と同じように漢字の練習をしています。「漢族」の学生には、その時間を無駄に過ごさないように、宿題のプリントをやるように言うのですが、モンゴル族にはその必要はないのです。また、それくらい練習をしておかないと、漢字の「小テスト」で、ある程度の点数が取れないのです。
大学へ行こうという人にとって、大切なのは、「読解力」であり、「思考力」なのです。勿論、人によって能力差がありますから、皆が皆、ある程度の量の本を読んでいなければならないというわけではありませんが、平均的な能力しか持っていない人間の場合、「読解力」や「思考力」を培うには、読書が一番いいのです。話すのはペラペラでも、それが即ち、文章を読み、その意味を掴むことに繋がるかといえば、そんなものでもないのです。
こう考えていくと、彼らのような「二重言語の世界」に生きている人は、あまり幸せであるとは言えますまい。一つの言葉しか話せなくとも、それで知識を充分に吸収することができ、自分なりの思考力をもって世界を拡げることができれば、必要な時に、次の段階へ進むこともできましょうから。
日々是好日