今朝の天気予報を見て驚きました。九州以南に、長く「雷様マーク」の「バッテン」がつけられているではありませんか。こんな時期に「雷様」が、こんなにたくさんお出ましになろうとは。乏しい記憶の糸をたぐりながら、思い出してみようとしますが、だめですね。例年はどうだったのか、すっぽりと記憶の網からすり抜けています。
とはいえ、「雷様」の来校は困ります。授業中に「稲妻」がピカッと、一瞬でも走ったら、もう授業にはなりません。
「キャー。先生、すご~い」、「キャー、キャー、キャー」と喜ぶ輩だの、
「先生。これは何と言いますか」と冷静な学生だの(明日には忘れているのですが)、
黙って耳を欹てて次の一光を待ち望む輩だの
まあ、授業にはなりませんね。しようがないので、「雷様談義」となってしまいます。
本当に不思議なのですが、「雷様」が鳴ると、皆、どこかしらウキウキしてしまうようなのです。目を見開いて、キラキラしながら(勉強の時と違う)、次の「ピカッ」と「ドーン」を待っているようなのです。ピカッが来ないと、いかにも残念そうな、がっかりした顔になるのですぐに判ります。
天変地異というのは困りものですが、(教室というかなり安全な場所にいるので)「雷様」が来ても、ここなら怖くはないし、倦んだような毎日に刺激を与えるようなことを体験しているとでもいった気分になっているのでしょう。ワクワクしている、期待に弾んでいるとでもいった、そんな表情なのです。
思えば、今年の4月には、「ピッカピッカの一年生」だった「Dクラス」の学生達も、既に来日後8ヶ月が過ぎ、十年前から日本にいるような顔になっています。来日後「半年」というのは、どうも微妙な期間で、この期間をうまく乗り切れた学生はいいのですが、それがうまくいかなかった場合、やることなすことすべてが、マイナスの方向へ向かってしまうような、そんな気分にもなりかねません。
大半の学生は、多少意に染まぬことはあるでしょうが、それはまあ、どこで暮らそうと同じことですから、それと見極めて、どうにか(この期間を)乗り切ってしまえるのですが、そうなりますと、却って今度は、日本での生活も「こんなものか」と、甘く見てしまうようなのです。そして、学校とアルバイト先と二つの点を行き来して、それで、日本での生活が終わってしまうような、そんな空しい気分にもなってしまうようなのです。
目的がはっきりしている学生の場合は大丈夫なのですが、そうではない場合、このまま何も見つけられずに、終わってしまうという結果にもなってしまいます。つまり、「惰性で」アルバイトへ行き、「惰性で」学校に来るという状態なのです。叱られれば、提出モノは出す、けれども、自分の意志をもって何事かをなしたというものではない。
即ち自分の国にいる時と同じなのです。「自分の国ではどうしょうもないから(日本へ)来た」という学生も少なくないのに。確かに、ここには、(彼らの国に比べれば)チャンスはあります。それにも拘わらず、何事も「適当に」してしまうものだから、誰からも評価されない。「自己評価」と「他者による評価」との間に、大きなギャップがあるのです。だから、誰に対しても不満になるし、報われない自分に対する哀れみの情から、ますます「自己評価」は高くなる。
悪循環ですが、こういう人は少なくありません。「私はまじめだ」とか「私は頭がいい」と思い込んでいる人に多く見られるのですが。そこから現状に対する不満が出て来るのでしょう。「能力の高い私が、どうしてこんな所で働かなければならないんだ」、「どうして、みんな、私を認めないのだ」という不満です。こうなると、だれもが、浮かばれなくなってしまいます。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず、我に関せず」(勝海舟)
外国では、まず、こう思って生きていくしかありません。己の道を見定めて生きていけば、誰かは見てくれています。それが、ひいては「他者による評価」や「好ましい結果」にも繋がるのです。
日々是好日
とはいえ、「雷様」の来校は困ります。授業中に「稲妻」がピカッと、一瞬でも走ったら、もう授業にはなりません。
「キャー。先生、すご~い」、「キャー、キャー、キャー」と喜ぶ輩だの、
「先生。これは何と言いますか」と冷静な学生だの(明日には忘れているのですが)、
黙って耳を欹てて次の一光を待ち望む輩だの
まあ、授業にはなりませんね。しようがないので、「雷様談義」となってしまいます。
本当に不思議なのですが、「雷様」が鳴ると、皆、どこかしらウキウキしてしまうようなのです。目を見開いて、キラキラしながら(勉強の時と違う)、次の「ピカッ」と「ドーン」を待っているようなのです。ピカッが来ないと、いかにも残念そうな、がっかりした顔になるのですぐに判ります。
天変地異というのは困りものですが、(教室というかなり安全な場所にいるので)「雷様」が来ても、ここなら怖くはないし、倦んだような毎日に刺激を与えるようなことを体験しているとでもいった気分になっているのでしょう。ワクワクしている、期待に弾んでいるとでもいった、そんな表情なのです。
思えば、今年の4月には、「ピッカピッカの一年生」だった「Dクラス」の学生達も、既に来日後8ヶ月が過ぎ、十年前から日本にいるような顔になっています。来日後「半年」というのは、どうも微妙な期間で、この期間をうまく乗り切れた学生はいいのですが、それがうまくいかなかった場合、やることなすことすべてが、マイナスの方向へ向かってしまうような、そんな気分にもなりかねません。
大半の学生は、多少意に染まぬことはあるでしょうが、それはまあ、どこで暮らそうと同じことですから、それと見極めて、どうにか(この期間を)乗り切ってしまえるのですが、そうなりますと、却って今度は、日本での生活も「こんなものか」と、甘く見てしまうようなのです。そして、学校とアルバイト先と二つの点を行き来して、それで、日本での生活が終わってしまうような、そんな空しい気分にもなってしまうようなのです。
目的がはっきりしている学生の場合は大丈夫なのですが、そうではない場合、このまま何も見つけられずに、終わってしまうという結果にもなってしまいます。つまり、「惰性で」アルバイトへ行き、「惰性で」学校に来るという状態なのです。叱られれば、提出モノは出す、けれども、自分の意志をもって何事かをなしたというものではない。
即ち自分の国にいる時と同じなのです。「自分の国ではどうしょうもないから(日本へ)来た」という学生も少なくないのに。確かに、ここには、(彼らの国に比べれば)チャンスはあります。それにも拘わらず、何事も「適当に」してしまうものだから、誰からも評価されない。「自己評価」と「他者による評価」との間に、大きなギャップがあるのです。だから、誰に対しても不満になるし、報われない自分に対する哀れみの情から、ますます「自己評価」は高くなる。
悪循環ですが、こういう人は少なくありません。「私はまじめだ」とか「私は頭がいい」と思い込んでいる人に多く見られるのですが。そこから現状に対する不満が出て来るのでしょう。「能力の高い私が、どうしてこんな所で働かなければならないんだ」、「どうして、みんな、私を認めないのだ」という不満です。こうなると、だれもが、浮かばれなくなってしまいます。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず、我に関せず」(勝海舟)
外国では、まず、こう思って生きていくしかありません。己の道を見定めて生きていけば、誰かは見てくれています。それが、ひいては「他者による評価」や「好ましい結果」にも繋がるのです。
日々是好日