日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『(誰であろうと)自由に学ぶ権利はある』は、常識?」。

2009-11-25 08:44:38 | 日本語の授業
 今日は、雨で明けました。起きて直ぐ、窓を開け、外を偵察。自転車で行けるかどうかを見るのです。強行突破できないこともない…。そう判断すると…途端に動作はのろくなります。で、ほぼ定刻に出発です。部屋の中から見た時には、それとも判らぬほどの雨粒だったのですが、自転車で走ってみると、また違います。路上の水たまりには時々、ポツリ、ポツリといった微かな水の輪が拡がっているのです。思ったよりも数多く。

 こうなりますと、信号の「青」が気になります。遠くの信号が「青」であることに気づくと、必死に漕ぐか、力を抜くかの決断を下さねばなりません。いくら「ポツリ、ポツリ」であろうと、いくら暖かかろうと、11月下旬の雨です。(濡れて気持ちの)よかろうはずがない。信号の前で待たされるのは、嫌です。

 さて、「今日のブログ」を書こうとして、前のブログを見てみると、きれいな「ジャコバサボテン」の写真がつけ加えられているではありませんか。北京の翻訳者が、コンピュータ操作の苦手な私の代わりに、気を利かせてくれたのでしょう。

 当然のことながら、無味乾燥の文字が並ぶだけのものよりは、潤いも増します。ありがたい限りです。ただ(日本の新聞にもそれとなく関連した記事が載っていましたが)、せっかく翻訳してもらっているのに、中国では見ることが出来ないようなのです。

 この学校のことや、(日本での就学生の)日々の生活、或いは(この学校の)教職員の(就学生に対する)要求なりを、この中国語訳を通して、知ってもらえたらと、無理を承知で忙しい中をお願いしてきたのですが…。しばらくは、(一年の総括としての)中国語訳を冊子にするまで、待っていただかなくてはならなくなりそうです。
 これは、訪中の折りに、関係者に配っています。

 この学校で勉強しようという人たちは、当然のことながら、日本語のものを渡しても読めない。また来日の経験もないので、日本のことも、就学生としての生活のこともわからない。で、そういう人たちでも、様子がわかるようにと翻訳してもらっているのに、それが開けない…困ったことです。
 翻訳者には、真に申し訳ないのですが…これも、(彼の国の)政治体制がそうであるから仕方がない…。このような(こんな学校の)情報を知っておろうが知っておるまいが、巨大な一国の政治の動勢には、全く関係がないと思うのですが。全く…日本で生まれ、日本で育ってきた私には、その理由が全く解りません。

 そのことを教室で話すと、直ぐにミャンマーの学生から「ミャンマーも、そう。同じ、同じ。ミャンマーにいたら何にもわからない」という反応が返ってきました。
 日本のように、自由に何でも見ることができる(勿論、犯罪に拘わるものは例外ですが)という国は、まだまだ、世界では少数なのかもしれません。しかしながら、これがその国の「文明度を測る」一つの目安になるような気がします。また故に、特に、このような措置は、残念でなりません。

 能力の高い人が、「決して、少ないはずはあるまい」と思われれる国、中国です。何と言っても日本の何倍もの人口を持っているわけですから、その人口の割合からいっても、頭のいい人はもっと表れて然るべきです。自由に新しい「思想・知識・技術」を獲得できれば、どのようにすばらしい人が輩出されるであろうと思われるだけに…残念でたまりません。
 先日も、日本の大学院を出、中国の大学へ就職した人(知り合いの知り合い)が、「中国では、インターネットの情報も自由に見られない。これでは世界のレベルに遅れてしまう。他の国の人は、新しい知識・技能を次々に獲得しているというのに…」と叫びを上げているという話を聞きました。

 どこに住んでいようと、どのような時であろうと、世界中で知識・技能を共有出来るということが、インターネットの良さであるということを思えば、それを切り刻むというやり方は、もしかしたら時代に逆行するどころか、己が国民の将来をも破壊しているということにもなりかねません。

 選ぶのは個人なのです。たくさんの情報の中から、自分の求めるものを選択するのはその人なのです。情報が誤っているかどうかを見極めるのもその人自身なのです。その人が愚かであれば、そういう情報しか選ばないでしょうし、もし、聡明であるとすれば、その人に「必要とする情報」を見せないというのは、「蛇の生殺し」と同じ、酷なことです。

 こういうことを続けていけば、その人の将来だけでなく、その人が構築するかもしれない新しい技能・思想などをも破壊することになるのです。また、その人がそれらを構築した後に、新たにそれを基に築き上げられるかもしれない若者達や国の将来をもめちゃめちゃにしているかもしれないのです。

 この学校でも、内モンゴルから来た学生の一人が、面接の時に(彼はパオに住んでいました)、「自分のいるところには、日本語の学校なんてない。だから、インターネットで、日本語の勉強をした」と言っていました。

 中国は広い。政府や政府関係者の知らないところで、どんなすばらしい才能を持った人が生まれているかもしれません。けれども、国の上層部に、どのような(身分・地域・職業の)人であろうと、同じ教育を受ける権利があるという思想や、また「そうすべきだし、そうせねばならぬ」という確固たる意志が欠けていると、せっかく能力を持って生まれてきていても、そのまま「千里の馬の嘆き」を喞つしかないことにもなりかねないのです。

 自分や自分の関係する人たちの子供の教育には余念がないけれども、それ以外の者にはほとんど関心を払わないという傾向のある人たちが、「公」の精神を幾分なりとも持ってくれるといいのですけれども。勿論、こういうことも一朝一夕にはならぬことは重々判っていますし、日本にそれが完璧な形であるとも思っていません。
 しかし、中国に行くたびに、「公の心」の大切さを感じずにはいられないのです。「自分の子供が可愛いように、人も自分の子供が可愛い」のです。だから、自分の子供に高い教育を受けさせようと思うように、政府関係者は(為政者なのですから)責任を持って、国の将来を担う子供達の教育にもっと注意を払うべきなのです。

 翻って、これは、日本のことです。
 私が現場にいる時のことですから、もう三十年くらい前になるでしょうか。旅行に行けば、一番最初に目につくのは、立派な小学校や中学校の建物です。僻地ほど教育設備が整っているのです。校庭が広いのは当然としても、立派な体育館や校舎が建っているのです。しかも、田舎で生活する教員には僻地手当がつきます。十分とは言えませんが、教員はどの地であっても、応分の生活をすることができるのです。やる気があれば、収入のことで悩んだりせずに(もとより豊かな生活というわけではありませんが)教育に集中出来るのです。(やる気がない人は、何の仕事をしようと、どこの国の人であろうと同じ。たいしたことはできません)。

 こう書いているうちに雨が止んできました。今日一人、大学へ願書を持っていくことになっています。彼女は先日も渋谷で道に迷い、「あわや」というところであったと聞きました。「午前の授業が終わってから行く」という彼女に、教員達から「朝一番で行きなさい。道に迷ったらどうするの」とか、「朝一番で行けば、忘れた書類があっても、取りに戻れる。朝一番で行きなさい」とかいう「思いやりに満ちた?」声がかけられていました。

 もっとも、彼女は「みんな信用していない…」と、憮然とした表情をしていましたけれども…。いうまでもなく、私もそうした方がいいと思います…。

日々是好日
コメント
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