日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「第二回『模擬試験』」。「中国で『民族の言葉』で、教育を受ける」。

2009-11-16 08:33:17 | 日本語の授業
 昨日は暖かかったのに、今朝はもう寒くなっています。今日は最高気温も上がらないそうで、この分でいきますと、一日中、寒さに震えるということになるのかもしれません。寒すぎるというのも、嫌ですが、11月も中旬という頃なのに、コートがいらないというのも奇妙な感じがします。全く、人間というのは、得手勝手なものです。

 今日、「ABクラス」では、二回目の「模擬試験」をします。前回(11月9日)は、7月に「日本語能力試験(1級)」に合格していた学生まで、すっかり文法を忘れていて、点数が伸びていませんでした。喝を入れると、「先生、『留学生試験』に必死だったもの」という答えが返ってきて、当方でも「なるほど」と、納得してしまい、迫力に欠ける気味はあったのですが、今回はそうはいきませんぞ。

 しかしながら、それは、言われるまでもなくそうなのです。試験の傾向が全くといっていいほど違うのです。特に「総合」や、「数学Ⅰ」や「数学Ⅱ」、「物理」や「化学」などを受けた学生達は、アルバイトの合間を縫っての勉強ですから、相当大変だったようです。しかも、その間、「英語」が(大学)入試に必要だという学生は、「英語」の授業にまで参加していたのですから。

 それはともかく、「留学生試験」は、終わりました。学生達は一様に「難しかった…」と言っていましたが、なんとなく、「これで(全部)終わった」という気持ちにもなったのでしょう。確かにそれも無理からぬこと。こちらも大変でしたから、学生の気持ちもわかります。それに、どのような形であれ、終えてみれば、一応、知識も増えたでしょうし、自信も、それなりについたでしょう。

 その上、次にある「日本語能力試験(1級)」は、日本語のレベルが問われるだけです。どのような知識が要求されるのか、確としない部分も「なきにしもあらず」であった「総合」(範囲はあることはあるのですが、時々、高校の教科書にも載っていないような学者の説が出されることもあるので、少々困りものなのです)を経験していれば、「日本語能力試験(1級)」は範囲も指定されています。文は決められた数だけ覚えればいいことですし、「文字語彙」も一万語程度ですから、とかく「組みやすし」と、高を括りがちなのです。

 そういうわけで、「喝」を入れる必要が出て来るのです。それに、大学によっては、「日本語能力試験(1級)」と、かなり似た傾向の問題を出すところもあることですし。

 とはいえ、今回の「留学生試験」の対策を通して(それに、今年4月に少なからぬモンゴル族学生を入れるようになったのですが、その彼らの指導を通して)、見えてきたことがありました。

 この学校は半数ほどが中国から来た学生なのですが、中国は広く、これまでも(たとえ学生のすべてが漢族であろうと)、学生達のすべてを同じように扱うことはできかねるという部分もありました。それに、以前は少数民族と言いましても朝鮮族がいるくらいでしたから、それほどの問題はなかったのです。ところが、今はそれにモンゴル族が加わっています。中国語で生い育ってきた学生と、それぞれの民族の言葉で教育を受け、中国語は毎週数回という、第一外国語くらいの扱いであってみれば、漢字の習得にも差は出てきます。つまり、自ずと(日本語の)漢字の習得にも限界があるのです。

 文章を読む速さにしても、そうです。「中国人であれば、出来て当然」とはいかないのです。モンゴル族は、(モンゴル語と日本語が近い関係にあるらしく)日本語を覚えるのが速いと言われていますが、これは、話し言葉に限られているような気がします。書き言葉、つまり「文章を読む、そして理解する」となると、漢族のようにはいかないのです。勿論、能力がある人もいますから、一概には言えないのですが。

 それに、来日するまでに読んだ本の量も、日本人がどのように本が苦手な子供であっても、小学校から始まった図書館教育を通じて読んできた量とは、比べものにならないくらい少ないのです。

 これは、親のせいでも、本人のせいでもなく、書籍がそれほど傍にないという環境によるのです。気の毒にもなるのですが、「読解力」や「本を読む速度」は、それまでの「読書量」に関係してきます。個々の学生に聞いてみると、本当に読んでいないのです。読んできたと言う人がいても、それは、(同じ民族の)他の人よりは比較的多かったというだけのことで、悲しいほどの量なのです。

 その点、朝鮮族は恵まれています。韓国語で書かれた小説なども手に入れやすいようですし、なにがしか本を読んできています。本を読む速さも、漢族にそれほど劣らないのです。

 こういうことも、実際に何人かまとまった学生を指導するまでは気がつきませんでした。個々の問題だと思っていたのです。確かに、以前、モンゴル人の学生から、「漢族と同じ『考』に参加するのは不利だ。点が取れないから大学に入れない。だから、小学校からモンゴル語の教育を受け、民族大学に入った」という話を聞いたことがありました。

 とはいえ、日本語は、漢字を抜きにしては考えられません。漢字の知識を問わざるを得ないのです。こういう来日前の彼らの能力を測る手段の一つに、中国の場合、「考」があります。高校卒業時に、これでどれほどの点数をとっていたかが、一つの目安になるのです(勿論、これは、その人の全能力を測ることはできません。ただ漢字で書かれた文章を読み解く力や、その他、高校までのどれほどの知識を習得出来ているかがわかるのです。指導する上での心の準備にはなります)。ただ、大卒者の場合は、その提出を、入国管理局が求めていないので、これまでは私たちも出してくれとは言ってきませんでした。

 しかしながら、民族大学を出た人である場合、これも私たちが知っておく必要があるのではないかとも思えるのです。四年制の大学を出ているのが、多少疑わしいという人も中にはいるのです。

 勿論、中国の場合、親が高級官僚であれば、政治力にものを言わせて裏口入学もできるでしょうし、いわゆる重点高校であっても、金にものを言わせることもできます(多額の寄付金を納めればいいのです)。中国の場合、国立や公立であっても、日本の私立と変わらないとも言えるのです。

 けれども、それほどの大金持ちの子供や、政府高官の子弟がこんな小さな学校に来るはずもなく、つまり、そんな親を持っている人は、この学校の場合いないのです。それにも拘わらず、疑わしい人がいるということなのです。それほど、学生のレベルが落ちているということなのでしょう。

 80年代には考えられなかったことなのですが、それほど中国の大学も様変わりしてしまったということなのでしょう。
 ただ、人の能力は、一度の「考」だけで知ることはできません。中国の教育方法が合わなかったという人もいるでしょう。ただ、私たちの心の準備という点からしますと、この「考」というのは、それなりの価値はあるのです。

日々是好日
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