日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「それぞれの『常識』」。

2009-11-18 11:05:31 | 日本語の授業
 今朝は昨日の「薄暗さ」どころか、まだまだ「闇の世界」です。通勤途上で、上空を低く飛ぶ鳥の群れを見かけました。しかも、「雁行」という見事な隊列で飛んでいるのを見たのです。久しぶりに見た大群です。今年に入ってからは、見ることはあっても、せいぜい二十羽程度のものでしたから、思わず「オー」と言ってしまいました。

 さて、鳥といえば、ある在日の中国人の方が、こんな失敗談を話してくれました。日本語では(スーパーや肉屋さんで)「とりにく」と言えば、「鶏の肉」を指すのですが、それにまつわる話です。

 彼女が、まだ日本へ来てから日も浅い頃のことです。「ウズラ(鶉)の卵」が買いたいと思ったのだそうですが、如何せん、日本語が話せない。それで、スーパーの人に、片手で鶉の卵くらいの大きさの輪っかを作り、「これ、これ」と言いながら、目で訴えたのだそうです。そんなことをされても、係の人が判るはずもありません。首をかしげて、困り切った表情。で、焦った彼女が、「卵」という言葉を頭の中で捜しながら、思わず、「お母さん」と言ってしまったのだそうです。すると、途端に、係の人はにこやかに微笑みながら、意気揚々と「とりにく」を持ってきた…という話。

 今ではそんなことで困りはしないでしょうが、似たような話を他にも聞いたことがあります。ドイツ旅行に行った人の話です。レストランに入って、さて食べようとしたところ、メニューのドイツ語が読めない。で、一人は、「コケコッコー」と鳴いて、「鳥料理」をゲットし、もう一人は、「モー、モー」と鳴いて「牛肉料理」を「ゲット」した…。

 外国では、言葉が通じないと緊張しがちです。途方に暮れてしまうこともあります。けれども、そこはそれ。絵を描いたり、鳴いたり、身体中の機能を駆使すれば、大半のことは判ってもらえます。また、そうすることも、面白いもの。子供に戻って、体中を解放するのですから、その開放感たるや、癖になった人もいるくらいなのです。

 ただ旅行は「面白かった」とか「きれいだった」で、終わることも出来ましょうが、そこで生活するともなりますと、予期せぬ障害が、竹の子のように、あっちでもこっちでも生えてきます。それをどう理解し、解決していくか。理解するにしても、道は一筋ではありません。解決方法もあってなきがごときもの。だから、悩むのでしょう。ただ、人によっては、その経験が、自分を伸ばしていくよすがにもなったりしますから、この苦労は全くの無駄ではないと思うのです。

 特に受験を控えた学生達はそうです。道を求めるために、一度自分を見つめ直すという作業が必要になります。そうしないと、彼らの求める「答え」は出てこないことが多いのです。しかも、その作業を一度しておかないと(彼らの志望する大学が、ある程度のレベルを要求する大学であった場合ですが)、面接の時に立ち往生してしまうことにもなりかねません。大学側の「問い」に対する「答え」は、「型に嵌った言葉」ではなりませんし、まず何よりも「(自分の)表面的な部分」からは出てきませんから。

 それと、もう一つ。彼らの国で習い覚えた「価値観」が壁になることもあるのです。問い詰めていくうちに、彼らが勝手に心の中で「これはつまらないにちがいない」とか、「こんなことを言ったら馬鹿にされるに決まっている」と思い込んでいることが壁になっていることも、少なくないのです。それを「当然」と思っているのですから(その社会での「常識」です)、疑問を呈せば、不審な顔で見られてしまいます。

 もっと早くこのことを話してくれていたら、疾うの昔に、スルスルと彼らのある種の思いが引き出せ、万事が順調にいっていたのにと、思えることも多いのです。が、人はなかなか「これまでの当然の価値」を振り捨てることはできませんから、彼らなりの考え方で、いわゆる杓子定規に、「正しい(心にもないことです)」、「恰好のよさげな(いかにも偉そうな)」ことを言ってみたりするのです。

 それを一つ一つ、潰していかねばなりません。そうすれば、少しずつ、彼らの「姿」が見えてくるものなのです。が、ただ、これには時間がかかります。「習いが性」になって、しかも、本人が気づいていない場合、この壁を越えることは難しいのです。しかも、彼らにしても、知らず知らずのうちに防衛本能を働かせてしまいますから、面倒さも倍増してしまいます。迂回させられたり、障害を設けられたりすることだってあるのです。その上、入試には決められた「日」がありますから、時間切れということにもなりかねないのです。

 勿論、そう言いましても、皆が皆そうだというわけではありません。個人差は確かにあります。この個人差というのも、彼ら自身の性格というよりも、どれほど深くその価値観の下で、学校教育なり、家庭教育なりを受けてきたかによるような気がします。

 特に中国人の場合、高卒の学生よりも大卒の学生の方が、この「病の根」は深いのです。当然のことですが、彼らは、「病」とは思っていません。皆がそう信じ、あるいは、信じている振りをして、その価値観のもとで生きてきたわけですから。そうせざるを得ないような環境にあったわけですから。日本人のように、「脳天気」にはいかないのです。「『得罪別人』をせぬ」ように、道徳的な意味以外の意味で、つねに気にしていなければならないのです。

 日本人は、追い詰められたら、引っ越ししたり、ここでだめならと、外国へ行ってしまうことだって、簡単にできてしまいます。「『得罪別人』をせぬ」ようにとは思いますが、それはあくまで道徳的な見地に照らしてのもの。彼らの国の人ほどには、怖いことだと思っていません。嫌いなら話さなければいいし、適当にやり合ってもいい。会社勤めをしている人の場合なら、そのルールは、「私情を職場に持ち込まない」だけですから。

 職場での「評価」というのは、その人が仕事が出来るかどうか、また、その「能力」があるかどうかであって、その人がどのような「信仰」を持とうと、どのような「主義主張」を持っていようと関係ないのです。仕事上の技能があれば、それで誰も困らないのですから。まあ、誰も理解できないような「変わり者」は、困りますけれど、そういう人は稀です。大体は、「どうしてその人がそういう行動をとるのか」を理解できる程度の変わり者に過ぎませんから。

 というわけで、最近は「壁の『打ち壊し屋』」を職業にしています。なかなか力も要り、神経も使い、しかも、作業は皆が帰ってからということにもなりがちです(土曜・日曜を学生に求められても、それだけは断ります。それが必要な学生は、土台、そういう大学に入ることは無理なのです。また、自分で、そういう時間を作れず、人に要求するという甘えを一旦許してしまえば、くせになってしまいます。癖になってしまうと、将来どれほど損をすることになるかわかりません。彼らのためにもならないのです。だいたい、今は、かつてのように、アルバイトをせねば、生きていけないという学生はいないのです。恵まれすぎてきた故の、驕りであるようにも見えます。人は自分のために尽くしてくれるはずといった)。

 私が、「得したな」と思えるのは、「帰ったら、バタンキューで眠れる」ということぐらいでしょうか。

日々是好日  
コメント
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