キャリー マリス/著 福岡伸一/訳 「マリス博士の奇想天外な人生」読了
PCR検査というと、現在では世界中で知らない人はいないのではないだろうか。僕がPCR検査というものを初めて知ったのはこの本だった。コロナウイルスが世間を騒がせるほんの数か月前のことだった。
著者であるキャリー マリスはこのPCR検査、ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)を発明した科学者だ。そして、1993年、ノーベル化学賞を受賞する。
この本の面白いところは、大体、こういう自伝的なものは、どういった困難を克服してこの偉業を成し遂げたかというような、文系の素人ではちょっと理解が及ばない話となるのだが、そういう部分はわずかだ。
ノーベル賞を受賞した科学者は受賞講演をするのが慣わしで、その講演内容は大体が、受賞の対象となった研究や内容目的を解説するもので、大体が難解な話で聴衆は誰一人として理解できないにかかわらず、全員が拍手するという奇妙なもので、それを素直に奇妙と思っている著者は、その講演の冒頭で、『これから、ポリメラーゼ連鎖反応を発明するということがどういうことなのか、お話してみようと思います。それを普通の言葉で説明することは簡単にできません。ここにおられる大多数の方々にとって、それは面白い話にはならないでしょう。ですから私は専門的な説明はいたしません。かわりに、発明にいたる経緯と、発明によって可能になったことを皆さんに知ってもらいたいと思います。なじみのないお話になると思いますが、細かいことは問題ではありません、ご安心ください。細かいことは抜きにして、PCRを発明したときの雰囲気の一端でも感じていただければよいと思います。』と語るのだが、この本も同じようなスタンスで、専門的な部分はほとんどなく、著者の生き方、世界の見方が書かれている。
その著者の生き方だが、タイトルのとおり、奇想天外というか、その奇行が当時も耳目を集めたようだ。淡い記憶の中で、サーファーがノーベル賞を受賞したというニュースがあったということを思い出したが、PCRのヒントを思いついたのは同僚で恋人であった人とドライブの途中であったとか、その女性とはそのヒントがなかなか現実のものにならかったことに合わせて別れを迎え、それにもめげずたくさんの女性遍歴を繰り返し、授賞式には、前妻とその間にできた子供たちと当時付き合っていたガールフレンドを引き連れて参加したなどのエピソードや、LSDを常習していたなど、普通の人がこれをやっていると間違いなく逮捕寸前か世の中から排除されかねないようなことが書かれている。研究内容もすごいのだろうが、私生活もなんともすごい。
発明についての記述はこの部分だけだ。『まず、短いオリゴヌクレオチドを合成する。それを使って、長いDNA鎖上のある特定の地点に結合させる。しかし、長いDNA鎖上には少しだけ違うがよく似た場所が30億ヌクレオチドのヒトゲノムの中には1000ヵ所くらいはある。その程度の精度ではダメなので、その上でもうひとつのオリゴヌクレオチドを使ってもう一度選抜をかける。一番目のオリゴヌクレオチドでまず1000ヵ所をピックアップし、一番目のオリゴヌクレオチドが結合する場所の下流に、二番目のオリゴヌクレオチドが結合するように設計しておけばその二番目のオリゴヌクレオチドが正解をひとつだけ選び出す。そのあとはDNAが自分自身をコピーする能力を利用してやれば二つのオリゴヌクレオチドの間に挟まれたDNAは指数関数的に増幅してゆく。』
確かに、普通の言葉で書かれてもまったく理解ができない。
このアイデアがひらめいたとき、キャリー マリスはホンダシビックの助手席に恋人のジェニファーを乗せていたそうだが、その瞬間、下りカーブの路肩に乗り上げ、ダッシュボードの中から封筒と鉛筆を取り出し書き留めたという。急いで書いたので鉛筆の芯を折ってしまいようやくボールペンを見つけて計算を続けた。
その考えはあまりにも簡単だったためたくさんの分子生物学者に意見を求めたがこのような方法がかつて試みられたという事実を知っているものはいなかったという。唯一、友人でベンチャー企業の起業家だけが興味を示してくれ、独立してパテントを取るように勧めたけれども当時勤めていたシータス社のもとで発表したのだが、この会社はこの研究で3億ドルの稼ぎをしたという。
これから先は著者の面白おかしいエピソードが続く。しかし、それはきっと面白おかしいだけではなく、著者は相当俯瞰的に世界を見ていたのではないかと思えるところもある。確かにそれは世間一般から見るとそれはおかしいのではないかという考えかもしれないが、確かにそう言われてみればそうかもしれないという説得力がある。
その顕著な意見が、科学は等身大でなければならないという考えと、物事の本質を見直すべきであるという考えだ。
科学は等身大でなければならないという部分では、たとえば、宇宙論や量子力学の研究に対して、そういう研究は人間の営みに対してどれほどの貢献をしているのかというのである。国は何十億ドルもかけて巨大な装置を作り、有能な研究者を投下しているが、研究者は単に面白いからやっているだけであると断言する。
僕なんかは、そういった研究は、人はどこから来てどこへ行くのかという本能的な探求心の発露や、遠い将来、人類が宇宙に進出するための準備だと思っているのだが、言われてみればもっと近い将来にやってくるかもしれない小惑星の天体の衝突に備えるための観測や対策にもっとお金と知識を注ぎ込むほうが良いのではないかと思ったりもする。また、地球の温暖化への対応や自然災害への対処などはもっと等身大な問題として知識のある人たちには考えてもらいたいというのも確かである。台風や大雨のたびに話題になる、深層崩壊といのもそのメカニズムやその危険のある場所を特定する方法も確立されていないという。
物事の本質を見直すべきであるという部分では、オゾン問題、悪玉コレステロール、健康食材など、世間では当然それが正しいと思っていることは本当に科学的に証明されているのか、また、逆に、まったく科学的ではない占星術は本当に科学的ではないのか、はたまた、著者自身の実体験から、宇宙人は本当に存在して実際地球にやってきているのではないか、LSDなどの違法とされる薬物は本当に人体に有害なのか、そういったものに対しては自分自身でリテラシーを持たねばならないと言っている。
また、様々な危機をあおるような行動は誰かを利するために意図的になされているのではかいかと疑うべきであるというのである。世界が複雑化したことで、政府の役割のほとんどは、きわめて専門的な技術領域に分散し、素人がつねに監視することがまったく不可能になってしまったというのである。その陰で誰かが自分の私利私欲のために蠢いているというのである。
僕もそういった部分については確かにそのように思っていて、様々な利権と既得権益を守るためにいろいろな人がいろいろな不安を煽るようなことを企てて無駄なお金を支払わせようとしているに違いないと考えている。コロナウイルスのことでも、不安を煽ることで病床の確保やワクチン接種、休業補償に関わる費用で儲け倒しているひとがいるのも事実のように思う。
もっというと、車検制度なんかも、工学的には今の自動車は2年に1回の点検をしなくても故障なんかすることもないはずだ。少なくとも日本の車はもっと性能がいいのにそんな制度を維持し続けるのは自動車整備業界を儲けさせるための何ものでもないと誰もが思っているはずだ。著者の言葉を借りると、車の状態の本質は自分で見極めればよいということだ。
特に、エイズに関することと、地球温暖化については手厳しい意見を書いている。
エイズについては、その原因とされるHIVウイルスと関連性には絶対的な確証がないといい、地球温暖化については地球が現在まで繰り返してきた気候変動の一部に過ぎないという。
この本は約20年前に書かれたものであるが、その後、こういった問題の原因が本当に解明されているのかどうかを僕は知らないが、著者の主張に説得力が感じられないのは、自分で合成した薬物を大量に摂取したことでトリップしすぎたというようなことが書かれていると、宇宙人は本当に存在し、実際に誘拐されたと言われても、違法薬物は体に悪影響を及ぼすことはないと言われてもやっぱりそれは本当ではないだろうと思ってしまうのである。しかし、その薬のおかげで世紀の大発明であるPCRを発明したのであれば薬さまさまとなるのであるから著者のいうことももっともであると思ったりもするのである。
しかし、それも含めて自分自身で考えろというのであれば確かに著者のいうことは正しいと思えてくるので、タイトルのとおり、奇想天外であり、この人のように自分を信じて自由な生き方をしてみたいと思えてくるのである。
本文の最後はこう締めくくられている。『人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。最初は何事にも混乱があるだろう。でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである。』
まさに諦観の極みというような文章である。当然だが、この人はただの薬物中毒者ではないと思えるのである。
この本の訳者は福岡伸一である。アメリカで研究生活を送っていたとき、まさに著者の研究のセンセーションを体験したそうだ。そして、少し遅れてこの革命的な発明をした人物についての、この本に書かれているようなさまざまな噂が広まってきたという。
原題は、「Dancing Naked in the Mind Field」というそうだ。「心の原野を裸で踊る」というような意味だそうだが、ほとんど無名で、ほとんど論文の発表もしていない研究者が、『天上からやってきたミネルバがマリスの頭上で一瞬微笑んだ』結果、ノーベル賞を受賞することになったのだと訳者のあとがきで書いている。僕はふと、キャリー マリスという人は本当に宇宙人に誘拐され、この革命的な発明を授けられたのではないかと思ったりしてしまった。
福岡伸一というひとは科学エッセイでは一番面白い文章を書く人ではないかと僕は思っているのだが、この本の面白さは著者の奔放な生き方はもとより、きっとこの人の文章力にもよっているのではないかと思ったのである。
PCR検査というと、現在では世界中で知らない人はいないのではないだろうか。僕がPCR検査というものを初めて知ったのはこの本だった。コロナウイルスが世間を騒がせるほんの数か月前のことだった。
著者であるキャリー マリスはこのPCR検査、ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)を発明した科学者だ。そして、1993年、ノーベル化学賞を受賞する。
この本の面白いところは、大体、こういう自伝的なものは、どういった困難を克服してこの偉業を成し遂げたかというような、文系の素人ではちょっと理解が及ばない話となるのだが、そういう部分はわずかだ。
ノーベル賞を受賞した科学者は受賞講演をするのが慣わしで、その講演内容は大体が、受賞の対象となった研究や内容目的を解説するもので、大体が難解な話で聴衆は誰一人として理解できないにかかわらず、全員が拍手するという奇妙なもので、それを素直に奇妙と思っている著者は、その講演の冒頭で、『これから、ポリメラーゼ連鎖反応を発明するということがどういうことなのか、お話してみようと思います。それを普通の言葉で説明することは簡単にできません。ここにおられる大多数の方々にとって、それは面白い話にはならないでしょう。ですから私は専門的な説明はいたしません。かわりに、発明にいたる経緯と、発明によって可能になったことを皆さんに知ってもらいたいと思います。なじみのないお話になると思いますが、細かいことは問題ではありません、ご安心ください。細かいことは抜きにして、PCRを発明したときの雰囲気の一端でも感じていただければよいと思います。』と語るのだが、この本も同じようなスタンスで、専門的な部分はほとんどなく、著者の生き方、世界の見方が書かれている。
その著者の生き方だが、タイトルのとおり、奇想天外というか、その奇行が当時も耳目を集めたようだ。淡い記憶の中で、サーファーがノーベル賞を受賞したというニュースがあったということを思い出したが、PCRのヒントを思いついたのは同僚で恋人であった人とドライブの途中であったとか、その女性とはそのヒントがなかなか現実のものにならかったことに合わせて別れを迎え、それにもめげずたくさんの女性遍歴を繰り返し、授賞式には、前妻とその間にできた子供たちと当時付き合っていたガールフレンドを引き連れて参加したなどのエピソードや、LSDを常習していたなど、普通の人がこれをやっていると間違いなく逮捕寸前か世の中から排除されかねないようなことが書かれている。研究内容もすごいのだろうが、私生活もなんともすごい。
発明についての記述はこの部分だけだ。『まず、短いオリゴヌクレオチドを合成する。それを使って、長いDNA鎖上のある特定の地点に結合させる。しかし、長いDNA鎖上には少しだけ違うがよく似た場所が30億ヌクレオチドのヒトゲノムの中には1000ヵ所くらいはある。その程度の精度ではダメなので、その上でもうひとつのオリゴヌクレオチドを使ってもう一度選抜をかける。一番目のオリゴヌクレオチドでまず1000ヵ所をピックアップし、一番目のオリゴヌクレオチドが結合する場所の下流に、二番目のオリゴヌクレオチドが結合するように設計しておけばその二番目のオリゴヌクレオチドが正解をひとつだけ選び出す。そのあとはDNAが自分自身をコピーする能力を利用してやれば二つのオリゴヌクレオチドの間に挟まれたDNAは指数関数的に増幅してゆく。』
確かに、普通の言葉で書かれてもまったく理解ができない。
このアイデアがひらめいたとき、キャリー マリスはホンダシビックの助手席に恋人のジェニファーを乗せていたそうだが、その瞬間、下りカーブの路肩に乗り上げ、ダッシュボードの中から封筒と鉛筆を取り出し書き留めたという。急いで書いたので鉛筆の芯を折ってしまいようやくボールペンを見つけて計算を続けた。
その考えはあまりにも簡単だったためたくさんの分子生物学者に意見を求めたがこのような方法がかつて試みられたという事実を知っているものはいなかったという。唯一、友人でベンチャー企業の起業家だけが興味を示してくれ、独立してパテントを取るように勧めたけれども当時勤めていたシータス社のもとで発表したのだが、この会社はこの研究で3億ドルの稼ぎをしたという。
これから先は著者の面白おかしいエピソードが続く。しかし、それはきっと面白おかしいだけではなく、著者は相当俯瞰的に世界を見ていたのではないかと思えるところもある。確かにそれは世間一般から見るとそれはおかしいのではないかという考えかもしれないが、確かにそう言われてみればそうかもしれないという説得力がある。
その顕著な意見が、科学は等身大でなければならないという考えと、物事の本質を見直すべきであるという考えだ。
科学は等身大でなければならないという部分では、たとえば、宇宙論や量子力学の研究に対して、そういう研究は人間の営みに対してどれほどの貢献をしているのかというのである。国は何十億ドルもかけて巨大な装置を作り、有能な研究者を投下しているが、研究者は単に面白いからやっているだけであると断言する。
僕なんかは、そういった研究は、人はどこから来てどこへ行くのかという本能的な探求心の発露や、遠い将来、人類が宇宙に進出するための準備だと思っているのだが、言われてみればもっと近い将来にやってくるかもしれない小惑星の天体の衝突に備えるための観測や対策にもっとお金と知識を注ぎ込むほうが良いのではないかと思ったりもする。また、地球の温暖化への対応や自然災害への対処などはもっと等身大な問題として知識のある人たちには考えてもらいたいというのも確かである。台風や大雨のたびに話題になる、深層崩壊といのもそのメカニズムやその危険のある場所を特定する方法も確立されていないという。
物事の本質を見直すべきであるという部分では、オゾン問題、悪玉コレステロール、健康食材など、世間では当然それが正しいと思っていることは本当に科学的に証明されているのか、また、逆に、まったく科学的ではない占星術は本当に科学的ではないのか、はたまた、著者自身の実体験から、宇宙人は本当に存在して実際地球にやってきているのではないか、LSDなどの違法とされる薬物は本当に人体に有害なのか、そういったものに対しては自分自身でリテラシーを持たねばならないと言っている。
また、様々な危機をあおるような行動は誰かを利するために意図的になされているのではかいかと疑うべきであるというのである。世界が複雑化したことで、政府の役割のほとんどは、きわめて専門的な技術領域に分散し、素人がつねに監視することがまったく不可能になってしまったというのである。その陰で誰かが自分の私利私欲のために蠢いているというのである。
僕もそういった部分については確かにそのように思っていて、様々な利権と既得権益を守るためにいろいろな人がいろいろな不安を煽るようなことを企てて無駄なお金を支払わせようとしているに違いないと考えている。コロナウイルスのことでも、不安を煽ることで病床の確保やワクチン接種、休業補償に関わる費用で儲け倒しているひとがいるのも事実のように思う。
もっというと、車検制度なんかも、工学的には今の自動車は2年に1回の点検をしなくても故障なんかすることもないはずだ。少なくとも日本の車はもっと性能がいいのにそんな制度を維持し続けるのは自動車整備業界を儲けさせるための何ものでもないと誰もが思っているはずだ。著者の言葉を借りると、車の状態の本質は自分で見極めればよいということだ。
特に、エイズに関することと、地球温暖化については手厳しい意見を書いている。
エイズについては、その原因とされるHIVウイルスと関連性には絶対的な確証がないといい、地球温暖化については地球が現在まで繰り返してきた気候変動の一部に過ぎないという。
この本は約20年前に書かれたものであるが、その後、こういった問題の原因が本当に解明されているのかどうかを僕は知らないが、著者の主張に説得力が感じられないのは、自分で合成した薬物を大量に摂取したことでトリップしすぎたというようなことが書かれていると、宇宙人は本当に存在し、実際に誘拐されたと言われても、違法薬物は体に悪影響を及ぼすことはないと言われてもやっぱりそれは本当ではないだろうと思ってしまうのである。しかし、その薬のおかげで世紀の大発明であるPCRを発明したのであれば薬さまさまとなるのであるから著者のいうことももっともであると思ったりもするのである。
しかし、それも含めて自分自身で考えろというのであれば確かに著者のいうことは正しいと思えてくるので、タイトルのとおり、奇想天外であり、この人のように自分を信じて自由な生き方をしてみたいと思えてくるのである。
本文の最後はこう締めくくられている。『人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。最初は何事にも混乱があるだろう。でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである。』
まさに諦観の極みというような文章である。当然だが、この人はただの薬物中毒者ではないと思えるのである。
この本の訳者は福岡伸一である。アメリカで研究生活を送っていたとき、まさに著者の研究のセンセーションを体験したそうだ。そして、少し遅れてこの革命的な発明をした人物についての、この本に書かれているようなさまざまな噂が広まってきたという。
原題は、「Dancing Naked in the Mind Field」というそうだ。「心の原野を裸で踊る」というような意味だそうだが、ほとんど無名で、ほとんど論文の発表もしていない研究者が、『天上からやってきたミネルバがマリスの頭上で一瞬微笑んだ』結果、ノーベル賞を受賞することになったのだと訳者のあとがきで書いている。僕はふと、キャリー マリスという人は本当に宇宙人に誘拐され、この革命的な発明を授けられたのではないかと思ったりしてしまった。
福岡伸一というひとは科学エッセイでは一番面白い文章を書く人ではないかと僕は思っているのだが、この本の面白さは著者の奔放な生き方はもとより、きっとこの人の文章力にもよっているのではないかと思ったのである。