イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源」読了

2019年03月17日 | 2019読書
オリヴァー・サックス/著、大田 直子/訳 「意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源」読了

著者は、「レナードの朝」という映画の原作を書いた精神科医だ。ロバート・デ・ニーロが主演で、数年間眠り続けた患者が突然目を覚ました。という映画だというのはなんとなく覚えている。(観たことはないけれども。)
その精神科医が、「意識」についての様々なことをエッセイ風にして過去の研究者などの見解を織り交ぜながら書いている。

ダーゥインの研究からは、いったいどれくらい下等な生物まで意識を持っているのかという考察をおこなっている。
意識というものをどうやって定義するかということも難しいが、こんな感じらしい。

意識=精神+感情

たとえばミミズは意識を持っているか・・。ただ刺激に対して反射をしているだけではないのかというと、そうでもなく、危険ではない刺激を与え続けるとそれに慣れてきて「馴化(じゅんか)」といういう状態となり、逆に危険な刺激を与え続けると過剰に敏感になる「鋭敏化」という状態になるそうだ。外からの刺激を認識していることになる。感情や精神を持っているとはいえないけれども、何かに対して「認識」ができるくらいの能力はあるらしい。
こういった反応は神経回路のなかの電気的な反応がもたらすのであるのけれども、ミミズと人間では神経回路の基本的な構造は変わらない。変わるのはその複雑さだけである。
それは体の大きさにもかかわるもので、ひょっとしてミミズが人間くらい大きかったらその行動は喜びや痛み、飢えや願望を持っていたかもしれないと考える科学者もいるらしい。

植物も動きはゆっくりであるが、画像に撮って早回しで見てみるとあたかも意識を持っているかの如くの振る舞いをする。植物には神経がないのでそのかわり様々な化学物質を分泌して外部からの刺激に対応している。ピエール瀧がコカイン使用で逮捕されたというニュースが流れていたけれども、あんな物質も、ひょっとしたらコカの木が切られたときに痛みを和らげるために作り出した物質かもしれない。そう考えると、動物とはただスピードが違うだけで意識とはいかなかいまでも認識をする能力があると言えるのではないだろうかと著者は説明している。

しかし、ピエール瀧というと「あまちゃん」で“無頼鮨”の“梅頭”という大将の役をしていたのだけれども、これで「あまちゃん」の再放送の可能性は限りなく無くなってしまった。「まれ」は役者たちが性犯罪や宗教に走ったりでまず再放送は無理だし、まあ、それほど観たくもないのだが、それに比べて「あまちゃん」の役者たちは犯罪からは縁遠いし、また再放送をしてくれないかと期待を込めていたけれどもあまりにも残念だ。


まあ、それはさておき、こう考えてみると、神経回路を持っている生物、もしくはそれに代わる伝達手段を持っている植物たちは意識を持っていると考えてもいいのかもしれない。
神経回路に代わる伝達手段というと、今、キーボードを叩いているこのパソコンにも高度な伝達手段がある。そうなると、このパソコンも意識を持っていると言ってもいいのであろうか。となってくる。そういえば、サクサク動いてくれる日と不機嫌な動き方しかしない日があったりして確かに人間的なところがあるように思える。

このパソコンは現段階で、どれくらいの生物のレベルに達しているのかは知らないけれども、やっぱりいつかは人間のレベルにまで達するときが来るのであろうか。
「ホモ・デウス」の著者は、将来、人間は情報だけの存在になるのではないかという示唆を与えているが、もし、コンピューター自身が意識を持ってしまったら、人間の意識を乗せかえるのではなくて新しい生物(意識?)が生まれることになるけれども、それはそれで困ったことにはならないのだろうか・・。

著者はそんなことを考えているのかどうかはわからないけれども、人間の意識の特徴として、「忘れる。」「思い違いをする。」「考えても考えても正しい答えや新しい発想が思い浮かばないけれども、それを頭の中で長いこと寝かせておくと突然ひらめくときがある。」と書いている。確かにそんなときがある。そういうことが芸術を生み出したり新しい技術を生み出したりする。そんな芸当はコンピューターには無理だろうと言っているかのようだ。
繊細な人間の神経構造は様々な神経症を引き起こしたりもするけれども、やはりそれも人間なのだと言わんがようだ。

著者は2015年に亡くなり、この本が最後の著書になったそうだ。多分、そんな人間らしさとは何かというようなそんなことを言いたくてこの本を書いたのではないと思う。もっと大きな自然科学の発達してきた大きな流れのなかで自分がどんな役割りを果たしてきたかというようなことを残しておきたかったのだろうけれども、僕にはどうも人間はどこに行くのかということを考えている本のように思えて仕方がない。

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