空海/〔著〕 加藤精一/編 「空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」 」読了
即身成仏とは、真言密教の根本である大日如来はこの宇宙、この世界にあまねく隅々まで存在し、宇宙、世界を構成している物質そのものも大日如来自身なのである。よって自分自身の体も大日如来の一部=仏様なのだ。それを感じ取ったときに人はすぐに仏になれる。これが即身成仏だ。人々(衆生)がそれを理解できなのは修行ができていないからで、それを感じ取ることができるようになるために人々は修行をしなければならないということだそうである。
この本に納められている理論は、信仰の考え方ではなく、大日如来は空想の世界のものではなく、実在する生命体なのであるということをさまざまな論理を使って証明しようとしている。
そこでは、声や文字の存在から大日如来の存在を証明しようとしている。
実在はしているが、どうも実体はないような説明の仕方だ。
空海が生きた時代というのは、戦や飢饉が頻発し、人々は死人から衣服を奪い取るようなそんな時代であった。
物があるから欲望が生まれ、持つものと持たないものが身分の上下を作り、支配するものとされるものができる。そこからまた欲望が生まれる。また、生身の体だから情欲も生まれてくる。完全無欠の存在はじつは実体がないのがふさわしいのだろう。
私たち自身が大日如来と同じ存在なのだから欲望があってもいい、煩悩があってもいい。しかし、それを容認するためには私たちは大日如来と一心同体だということを悟っていなければならないのではあるのだが・・・。多分それを悟ったときには自動的に欲望や煩悩がなくなっているのではると思うが。
空海は物を持っていても、悟りがあれば仏様と同じ心を持てる。道元は物を持っているから人間は欲望と煩悩にまみれるのだからはじめから持たないことで悟りを得るのだという、似ていないようでもよく似ているような教えのような気がした。
アウシュビッツというところは、人間というのはここまで残酷になれるのだという見本のような場所だとあるコラムに書いていた。
空海も道元も人間というのはそういうものだからなんとかしてひとりでも多くの人にその悟りの心をもってほしいと考えたのだろう。
どちらも大きな伽藍を建て、空海は政治の世界でも活躍をしたようだが、それはそれぞれの教えを広めるためであって本位ではなかったようで、晩年は高野山に篭り、都からの招聘には一切答えなかったそうだ。道元も都を離れ、福井県の山奥に隠棲した。
彼らにしてみれば、人々はやっぱり偶像的なもの=物体を目の当たりにしなければ納得をしないということに、ある意味、限界ややるせなさも感じていたのかもしれない。
空海は修行の場に山の中や海岸などの自然の中を選んだ。精巧にできた生物の姿を見ると、大きな力が世界を作ったと感じるのだろうか。何の光もない中で星空を見てみるとあまりにも広い世界には何もないのだと感じるのだろうか。
それはきっと世界の東の果てのこの国でしか生まれなかった思想ではなかったのかと思う。
やっぱり人はこういうふうに生きなければならないのだろうなと考えさせられる1冊であった。
即身成仏とは、真言密教の根本である大日如来はこの宇宙、この世界にあまねく隅々まで存在し、宇宙、世界を構成している物質そのものも大日如来自身なのである。よって自分自身の体も大日如来の一部=仏様なのだ。それを感じ取ったときに人はすぐに仏になれる。これが即身成仏だ。人々(衆生)がそれを理解できなのは修行ができていないからで、それを感じ取ることができるようになるために人々は修行をしなければならないということだそうである。
この本に納められている理論は、信仰の考え方ではなく、大日如来は空想の世界のものではなく、実在する生命体なのであるということをさまざまな論理を使って証明しようとしている。
そこでは、声や文字の存在から大日如来の存在を証明しようとしている。
実在はしているが、どうも実体はないような説明の仕方だ。
空海が生きた時代というのは、戦や飢饉が頻発し、人々は死人から衣服を奪い取るようなそんな時代であった。
物があるから欲望が生まれ、持つものと持たないものが身分の上下を作り、支配するものとされるものができる。そこからまた欲望が生まれる。また、生身の体だから情欲も生まれてくる。完全無欠の存在はじつは実体がないのがふさわしいのだろう。
私たち自身が大日如来と同じ存在なのだから欲望があってもいい、煩悩があってもいい。しかし、それを容認するためには私たちは大日如来と一心同体だということを悟っていなければならないのではあるのだが・・・。多分それを悟ったときには自動的に欲望や煩悩がなくなっているのではると思うが。
空海は物を持っていても、悟りがあれば仏様と同じ心を持てる。道元は物を持っているから人間は欲望と煩悩にまみれるのだからはじめから持たないことで悟りを得るのだという、似ていないようでもよく似ているような教えのような気がした。
アウシュビッツというところは、人間というのはここまで残酷になれるのだという見本のような場所だとあるコラムに書いていた。
空海も道元も人間というのはそういうものだからなんとかしてひとりでも多くの人にその悟りの心をもってほしいと考えたのだろう。
どちらも大きな伽藍を建て、空海は政治の世界でも活躍をしたようだが、それはそれぞれの教えを広めるためであって本位ではなかったようで、晩年は高野山に篭り、都からの招聘には一切答えなかったそうだ。道元も都を離れ、福井県の山奥に隠棲した。
彼らにしてみれば、人々はやっぱり偶像的なもの=物体を目の当たりにしなければ納得をしないということに、ある意味、限界ややるせなさも感じていたのかもしれない。
空海は修行の場に山の中や海岸などの自然の中を選んだ。精巧にできた生物の姿を見ると、大きな力が世界を作ったと感じるのだろうか。何の光もない中で星空を見てみるとあまりにも広い世界には何もないのだと感じるのだろうか。
それはきっと世界の東の果てのこの国でしか生まれなかった思想ではなかったのかと思う。
やっぱり人はこういうふうに生きなければならないのだろうなと考えさせられる1冊であった。
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