イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「魚と日本人―食と職の経済学」読了

2018年09月30日 | 2018読書
濱田武士 「魚と日本人―食と職の経済学」読了

この本は食材としての魚が日本の中でどのような状況になっているかということを、消費者、流通過程、生産者の三つの視点から分析をしている。

2000年以降、魚介類の国民一人当たりの年間供給量というのは急激に減少しているそうだ。乳製品や肉類以外の食材もやはり減少傾向なので魚だけが敬遠されているというわけではないそうだが、魚介類について著者は、その消費の減少の理由を、都市の空洞化と景気の後退による接待需要の減少というふたつの要因に求めている。
しかし、日本人は食がどんどん細っていたとは驚きだ。けっこう太った人をよく見るのだが、それはけっこう絶滅危惧種だったりするのだろうか・・・?

かつて、駅前や都市の中心には商店街があり、魚屋にかぎらず青果も肉も個人商店が販売していた。しかし、郊外に大きなスーパーやショッピングセンターができると商店街は衰退し、また、景気の後退で接待で使われていた料亭が少なくなり、そこに魚を納めていた業者は商店街の個人商店が多かったことからそれに拍車がかかった。
商店街の魚屋では消費者は店主とのやりとりで魚の調理の仕方やあまり見たことのない魚にもなじむことができたけれども、郊外のスーパーでは販売効率が優先されるので多種多様な魚を取り扱うことがなくなった。お肉なんかよりももっと素材や調理に関する知識が必要なのが魚ということだろう。

そんな状況は当然流通にも影響を及ぼす。本来、魚の流通というのは、卸売市場で仲買業者が競り落とした鮮魚が小売店へと流れていくというのが決まりとなっているのだが、ここでも効率と原価が優先され、仲買業者に行く前に荷受業者は直接大規模小売店へ魚をおろしてしまう。2013年ではセリを通して売買される魚介類は全体の30%しかないそうだ。冷凍で商品を流通させるコールドチェーンもそれに一役買い、そして商店街の魚屋は価格競争にも敗れてゆくという図式だ。

しかし、今では店主に料理法を聞かなくてもククッパッドを検索すればいくらでも調理法は見つかる。だから魚の消費が減った理由というのはもっと別にあるのではないかと僕は思うのだ。これは消費者の手先の不器用さと、もともとの人間の味覚に魚が負けてしまったのではないかと。

人間の脳をいちばん刺激して味覚をさせるのは脂質だそうだ。肉が高価なら魚もと思うかもしれないが、肉が安く手に入るこの時代、脂肪分の多い肉のほうが人間にとってはやっぱり美味しい。この歳になると肉は体にもたれるなんて思うこともあるけれども、それは人より魚を食っているからであって、ずっと肉を食べなれている人たちはそんなことを思わないのであろう。僕も多分、自分で魚を釣ってこなければ魚をこんなに食べなかったと思うのだ。
そして、今、どれくらいの人たちが一匹丸まるの魚を捌けるだろうか。そして食べる側も骨をより分けてうまく食べることができると自信をもって言える人はどれだけいるだろうか。
まず、出刃包丁を持っている人がいない。うちの奥さんの実家にも出刃包丁がなく、ぼくの奥さんの嫁入り荷物の中にもそれはなかった。多分これが標準的な家庭の台所になっているのだろうし、箸を上手に使える子供も少ないのではないだろうか。
そしてまた、魚は値段が高い。品質と鮮度がよいものはなおさらだ。うちの奥さんも言うけれども、魚を買うなら肉を買った方が安いというのが今の食品スーパーの現実なのだ。

しかし、自分で料理をせずに出来合いの者ばかりを食べるというのはなんだか人間が家畜化しているようで恐ろしい。香取君が「これがおふくろの味だ!」と喜んでいる次のシーンがセ〇ンイレブンでパック入りの総菜を買っているおふくろさんだったという落ちのコマーシャルなんかが成立するのがふつうであるということが恐ろしい。

生産者、獲る側の人たちの現在はどうであろうか。漁師の人口が減少するなかで、漁協のありかた、新規参入そして僕たちのような一般の釣り人との関係についてはそれぞれの立場や言い分があると思うのだが、それは次の機会に・・・。
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