國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」読了
最近、電車の中で本を読んでいる人というのは稀である。みんなスマホの画面に見入っているので本を読んでいる人というのは意外に目立つ。若い人ほど少ないので余計に気になる。高校生らしき少年が熱心に読んでいるのでどんな本を読んでいるのだろうと覗いてみたらこのタイトルであった。
調べてみると2011年の出版ながら最近文庫本が出版されていて売り上げ上位をキープしているベストセラーらしい。
僕も借りようとしたらすでに借りている人がいて、僕の後にもすでに予約が入っていた。借りた本もボロボロの一歩手前というような現状で、相当人気のある本なのだということがわかった。
内容はというと、「暇」と「退屈」の構造を哲学を通して論考しようという内容だ。
前半はなるほどというものであったが、後半はあまりにも難しくて僕にはよくわからなかった。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは1930年に出版した「幸福論」の中でこんなことを書いている『今の西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから・・』
どういうことを意味しているのかというと、20世紀のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていてこれから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在せず、したがって若者にはあまりやることがない。だから若者は不幸であるといのである。要は、使命感に燃えて打ち込めるような仕事がない人は不幸であるというのである。
豊かで安全な社会が喜べない。
まだ人類が定住生活をし始める前、常に五感を駆使して危険回避と食料探しをしていた。だから暇などなかったのである。マルクスは資本論の中で、労働者が獲得されるべき重大な権利のひとつとして余暇の獲得を挙げているのだが、悲しいかな、有閑階級と言われるような裕福な階級の人たちは別にして労働者たちは余暇を獲得したとたんに心のなかにぽっかりと穴が空いてしまったのである。
哲学者たちは暇というものをどう考えていたか。
パスカルはこう考えた。『人の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。』
また、こうも言っている。『愚かなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる。』
これを説明するために、ウサギ狩りを例にあげている。狩りとくのはなかなか大変なものである。思い装備をもって、一日中、山を歩き回らねばならない。そんな狩りをしている人に、そんなにウサギが欲しいならあげるよと言って手渡してやると嫌な顔をするというのである。
狩りをする人が欲しているのは、『不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわせてくれる騒ぎ』にほかならないというのである。ウサギは欲望の対象ではあるけれども欲望の原因ではないということだ。ウサギ狩りを魚釣りに置き換えてもよさそうだ。う~ん、まさしくその通りだと思えてしまう。
ハイデッカーは退屈の形態を三つに分けている。それは、①退屈の第一形式(何かによって退屈させられること。)②退屈の第二形式(何かに際して退屈すること。)③退屈の第三形式(なんとなく退屈である。)というのである。
何かによって退屈させられていることとは、例えば、なかなか来ない電車を待つときである。退屈を抑え込みたいと思っているのにそうできないという焦りがそこに隠れているという。
また、遅々として進まない時間に引き止められているのだという表現も使っている。
何かに際して退屈することでは、パーティーでの体験を例に上げている。大変楽しい体験であるのだが、どうしてだか退屈するのである。なぜだかよくわからないが、パーティーに際して退屈したというのだ。う~ん、これもよくわかる。会社の宴会というのはまさしくこれだった。
退屈の第三形式についてはなんだかよくわからない。もはや空虚でしかないというのであるが・・・。
ハイデッカーが考えるこれらの暇への対処というのは、気晴らしであるという。第一形態への気晴らしは、やるべきことを探すことだという。これの典型は仕事であるというのだ。やるべき仕事がない状態とは、むなしい状態に放っておかれるということであり、人はそれに耐えられないというのである。
会社にも確かにそうなんじゃないかと思える人というのは確かに多々いた。
第二形態は第一形式とは大分異なる。すでに気晴らしが行われているのに退屈であるというのは、退屈と気晴らしが絡み合った状態であるといい、人間が正気で生活するということはこの第二形式を生きることではないだろうかと考えている。
第三形式の退屈はある意味、究極の退屈であると言えるかもしれないが、私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃れるためなのだという。
第一形式と第三形式の退屈には大きな相関関係があるのである。人間は飽きる動物である。正気を保つ気晴らしが見つかったとしてもいつかはそれに慣れてしまい何となく退屈だという感覚にとらわれる。そしてまた別の気晴らしを見つけるようになる。だから、第一形式と第三形式の退屈の間を行ったり来たりしながら第二形式の正気の状態を保とうとするのである。
人間は退屈から逃れられないということを踏まえ、著者は浪費者になれという。
世界の資本主義は、「退屈」と「気晴らし」の循環につけこんで消費者に対して新たな気晴らしを提案し続けることで成り立っていると考えられる。著者が考える退屈の解消策ひとつはこういった資本主義の罠から抜け出すために消費者ではなく浪費者になれという。
ここでいう浪費とは無駄に物を使うということではなく、「そのものを楽しむ」ということを意味する。それが容易ではないから消費社会はそこにつけこむ。物に溢れていると思われる消費社会だが、実はわずかな物を記号に仕立てて消費者が消費し続けるように仕向けているだけだというのである。
そのためには相当な訓練が必要である。その訓練のひとつは「とらわれ」の状態を目指せという。多分、動物には退屈という感覚は存在しない。それは、人間のように、様々な世界を覗き見できないのでひとつの環世界の中だけで生きているからだというのである。だから、人間も動物のようにひとつの環世界に生きることができれば退屈はしないはずなのである。
こう読んでみると、僕の生き方もまんざらではなかったのかもしれない。長く続けた魚釣りのあれこれは一朝一夕には得られない経験値である。まあ、そのおかげで自由自在におカネを使える浪費はできない身分にしかなれなかったが・・。
どちらにしても僕の人生はすでに不可逆的段階に入ってしまっている。いくらかでもまんざらではなかっとでも思わなければこれから先、やってはいけないのである・・。
また、師が好んで使った言葉、「釣師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。」という意味が少しだけわかった気がする。「心の中の傷」とは「暇」のことではなかったか。師はハイデッカーの哲学にかなり影響を受けていたようだが、そこから導き出した答えのひとつがこれであったのだろう。
「眼を見開け、耳を立てろ」というのも、ハイデッカーがいう動物的な生き方をせよというメッセージだったのかもしれない。
しかし、この本を電車の中で読んでいた若者よ、君はまだ暇を感じるほど老いてはいないはずだ。すでに暇を感じているようでは僕のような人間になってしまうぞ。気をつけろ!
僕も君もまだまだ人生は続く・・。
最近、電車の中で本を読んでいる人というのは稀である。みんなスマホの画面に見入っているので本を読んでいる人というのは意外に目立つ。若い人ほど少ないので余計に気になる。高校生らしき少年が熱心に読んでいるのでどんな本を読んでいるのだろうと覗いてみたらこのタイトルであった。
調べてみると2011年の出版ながら最近文庫本が出版されていて売り上げ上位をキープしているベストセラーらしい。
僕も借りようとしたらすでに借りている人がいて、僕の後にもすでに予約が入っていた。借りた本もボロボロの一歩手前というような現状で、相当人気のある本なのだということがわかった。
内容はというと、「暇」と「退屈」の構造を哲学を通して論考しようという内容だ。
前半はなるほどというものであったが、後半はあまりにも難しくて僕にはよくわからなかった。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは1930年に出版した「幸福論」の中でこんなことを書いている『今の西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。また共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるから・・』
どういうことを意味しているのかというと、20世紀のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていてこれから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在せず、したがって若者にはあまりやることがない。だから若者は不幸であるといのである。要は、使命感に燃えて打ち込めるような仕事がない人は不幸であるというのである。
豊かで安全な社会が喜べない。
まだ人類が定住生活をし始める前、常に五感を駆使して危険回避と食料探しをしていた。だから暇などなかったのである。マルクスは資本論の中で、労働者が獲得されるべき重大な権利のひとつとして余暇の獲得を挙げているのだが、悲しいかな、有閑階級と言われるような裕福な階級の人たちは別にして労働者たちは余暇を獲得したとたんに心のなかにぽっかりと穴が空いてしまったのである。
哲学者たちは暇というものをどう考えていたか。
パスカルはこう考えた。『人の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。』
また、こうも言っている。『愚かなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる。』
これを説明するために、ウサギ狩りを例にあげている。狩りとくのはなかなか大変なものである。思い装備をもって、一日中、山を歩き回らねばならない。そんな狩りをしている人に、そんなにウサギが欲しいならあげるよと言って手渡してやると嫌な顔をするというのである。
狩りをする人が欲しているのは、『不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわせてくれる騒ぎ』にほかならないというのである。ウサギは欲望の対象ではあるけれども欲望の原因ではないということだ。ウサギ狩りを魚釣りに置き換えてもよさそうだ。う~ん、まさしくその通りだと思えてしまう。
ハイデッカーは退屈の形態を三つに分けている。それは、①退屈の第一形式(何かによって退屈させられること。)②退屈の第二形式(何かに際して退屈すること。)③退屈の第三形式(なんとなく退屈である。)というのである。
何かによって退屈させられていることとは、例えば、なかなか来ない電車を待つときである。退屈を抑え込みたいと思っているのにそうできないという焦りがそこに隠れているという。
また、遅々として進まない時間に引き止められているのだという表現も使っている。
何かに際して退屈することでは、パーティーでの体験を例に上げている。大変楽しい体験であるのだが、どうしてだか退屈するのである。なぜだかよくわからないが、パーティーに際して退屈したというのだ。う~ん、これもよくわかる。会社の宴会というのはまさしくこれだった。
退屈の第三形式についてはなんだかよくわからない。もはや空虚でしかないというのであるが・・・。
ハイデッカーが考えるこれらの暇への対処というのは、気晴らしであるという。第一形態への気晴らしは、やるべきことを探すことだという。これの典型は仕事であるというのだ。やるべき仕事がない状態とは、むなしい状態に放っておかれるということであり、人はそれに耐えられないというのである。
会社にも確かにそうなんじゃないかと思える人というのは確かに多々いた。
第二形態は第一形式とは大分異なる。すでに気晴らしが行われているのに退屈であるというのは、退屈と気晴らしが絡み合った状態であるといい、人間が正気で生活するということはこの第二形式を生きることではないだろうかと考えている。
第三形式の退屈はある意味、究極の退屈であると言えるかもしれないが、私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃れるためなのだという。
第一形式と第三形式の退屈には大きな相関関係があるのである。人間は飽きる動物である。正気を保つ気晴らしが見つかったとしてもいつかはそれに慣れてしまい何となく退屈だという感覚にとらわれる。そしてまた別の気晴らしを見つけるようになる。だから、第一形式と第三形式の退屈の間を行ったり来たりしながら第二形式の正気の状態を保とうとするのである。
人間は退屈から逃れられないということを踏まえ、著者は浪費者になれという。
世界の資本主義は、「退屈」と「気晴らし」の循環につけこんで消費者に対して新たな気晴らしを提案し続けることで成り立っていると考えられる。著者が考える退屈の解消策ひとつはこういった資本主義の罠から抜け出すために消費者ではなく浪費者になれという。
ここでいう浪費とは無駄に物を使うということではなく、「そのものを楽しむ」ということを意味する。それが容易ではないから消費社会はそこにつけこむ。物に溢れていると思われる消費社会だが、実はわずかな物を記号に仕立てて消費者が消費し続けるように仕向けているだけだというのである。
そのためには相当な訓練が必要である。その訓練のひとつは「とらわれ」の状態を目指せという。多分、動物には退屈という感覚は存在しない。それは、人間のように、様々な世界を覗き見できないのでひとつの環世界の中だけで生きているからだというのである。だから、人間も動物のようにひとつの環世界に生きることができれば退屈はしないはずなのである。
こう読んでみると、僕の生き方もまんざらではなかったのかもしれない。長く続けた魚釣りのあれこれは一朝一夕には得られない経験値である。まあ、そのおかげで自由自在におカネを使える浪費はできない身分にしかなれなかったが・・。
どちらにしても僕の人生はすでに不可逆的段階に入ってしまっている。いくらかでもまんざらではなかっとでも思わなければこれから先、やってはいけないのである・・。
また、師が好んで使った言葉、「釣師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。」という意味が少しだけわかった気がする。「心の中の傷」とは「暇」のことではなかったか。師はハイデッカーの哲学にかなり影響を受けていたようだが、そこから導き出した答えのひとつがこれであったのだろう。
「眼を見開け、耳を立てろ」というのも、ハイデッカーがいう動物的な生き方をせよというメッセージだったのかもしれない。
しかし、この本を電車の中で読んでいた若者よ、君はまだ暇を感じるほど老いてはいないはずだ。すでに暇を感じているようでは僕のような人間になってしまうぞ。気をつけろ!
僕も君もまだまだ人生は続く・・。