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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「禅とは何か-それは達磨から始まった-」読了

2015年05月13日 | 読書
水上 勉 「禅とは何か-それは達磨から始まった-」読了

本書は、達磨から始まった禅が中国での隆盛と衰退をたどり、日本に渡って巨大教団として発達し大きくなってしまったゆえに始まった頽廃、そしてそれに反旗を翻した高僧たちの生き方を紹介している。
高僧たちはどんな生き方をしたかは書かれていても、禅的な生き方とはなにかということについては、「こうだ、こうしなさい。」という指針は残念ながら書かれていない。
ただ、人間の大半、それもほとんどの人たちはグローバルな世界で生きるということは無理なはずだから手の届く範囲で生きるべきなのだと高僧たちの生き方を読んで思う。

気候や風土は土地々でどこも違う。そこの場所に合った生き方だから数百年の長きにわたって人は生き延びた。科学が発達し風土をねじ伏せ、大量生産でどこでも同じ生活をやりなさいとなってくるとどこかで無理がくる。

もちろん、どこかでの交わり、つながりは必要だろう。しかしそれはほんの希なことでいい。そして細い細いつながりでいい。遠くのことをうらやむとその地に合った生き方がしづらくなる。だから遠くから流れてくる人は希人として貴重な情報源として大切にするもののそれは特別(自分たちとは違う人)として扱ってきたのだ。むしろ、やっぱり自分が住む場所が一番だと再認識するための対象だったのかもしれない。
グローバルをローカルとして捉えることができるような人というのは世界でもほんの数人だろう。スティーブ・ジョブズかザッカーバーグくらいか・・・。それ以外のグローバルな経営者と言っているような人たちはただ大量発生したバッタみたいに世界中の市場を食い荒らしているだけのように思う。中国を食い荒らし、インドからアフリカに行ってほかに食い荒らすものがなくなったあとはいったいどうするつもりなのだろうといつも思ってしまう。

正法というものなどは体得することはできるはずもないが、道元が師匠から、「国王大臣には近づくなかれ」と説かれたというのはなんとなくわかるような気がする。何かに仕えて生きるというのは自分の心にバイアスをかけることと同じだ。
無為自然、任運騰々と生きることが禅的な生き方だとするのなら組織の枠に嵌っていては実現はむりだと思う。都から遠く離れてひっそりとひとりで生きることだ。

日本中に同じショッピングモールが建設されどこに行っても同じ生活が展開されその延長に人口の集中による疲弊と集落の崩壊が迫っている。乞食(こつじき)のような生活はしたくないが、最低限のインフラが整っていればそれでいいのではないか。基準は自分の食べ物を自分で捕って帰ってくることができる範囲だ。

もうすでにパンドラの箱は開けられてしまったか。
禅的な生活だけがこの箱を再びもとに戻すことができるような気がする。

はたしてこれが正しい考え方なのか、グローバルな世界で生きることができない無能なサラリーマンの負け惜しみなのかはわからないが、少なくとも水上勉は前者の生き方を推奨しているように思うのだ。