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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「変身願望」読了

2016年02月27日 | 2016読書
西村京太郎 「変身願望」読了

まず自分で選んで読む本ではないのだが、会社の事務所で、Eテレの「100分で名著」が面白いという話から、あの番組で取り上げられていたカフカの「変身」はこうやって読むのだというのがわかったという話になり、その子が、家に「変身願望」って本がありますよと言ってくれので一度読んでみようと借りてみた。

西村京太郎というと、十津川警部が時刻表とにらめっこして事件を解決するという土曜ワイド劇場しか知らないのでどんな物語だろうと読んでみたら、なかなか、人間のエゴとそのなれの果てをたっぷりのアイロニーを込めて書かれた短編集だった。
昭和40年代の後半から50年代の前半に書かれたものだが、受験生時代、深夜ラジオが始まる前の時間帯のラジオドラマのシナリオのような感じの物語であった。

会社に初めて導入されたNECのパソコンにリセットボタンというのがあった。押すとウインドウズが再起動するというもので、これを見ながら人生のリセットボタンってないのだろうか?なんていつも考えていたが、たとえ変身できたとしても結局は今の生き方が一番いいと思うに違いない。奥さんも、それは長澤まさみが家にいて、「今日の晩御飯はおでんやで~。」って言ってくれるとうれしいがやっぱり和歌山弁をしゃべる長澤まさみはちょっと気持ち悪く、今の奥さんがちょうどいいとしておいた方が無難なわけで、この本はこんな感じの内容であった。

「午後の愉しみ―開高健対談集」読了

2016年02月18日 | 2016読書
「午後の愉しみ―開高健対談集」読了

久々に存在を知らなかったの師の本をみつけた。状態がよいとはいえ、1974年出版、41年前の本だ。
釣りと食、文学、戦争の三つのテーマに分かれた対談集だが、さすがにすべての人が彼岸の先に行ってしまっている。しかしながら語られている内容は少しも古くないように思う。釣り師の心、文学が求めるもの、戦争が生み出す人の心の変化・・・。

40年前からは情報が豊富になりコミュニケーション手段も増え、問題や悩みを解決する選択肢は格段に増えているはずだが、それも効果がないのか41年後の現在も同じようなことどもが繰り返されている。

釣りと食のテーマはたわいもないこと。これは僕も今では40年以上の釣り歴だ、師の言っていることもなんとなくわかる気がする。ただ、「釣り師は好色だ。」という論理は果たして本当だろうか、それとも僕が好色でなさすぎるからいつまでもヘッポコなのだろうか・・。これは多分死ぬまでわからないだろう。

文学、これは正直どこまでも理解できない。もっと知りたいと思うが僕の頭脳と知識ではこの方々にはついてゆけない。ただ、あの闇の三部作の生い立ちはこうだったのかという思いもかけないエピソードを知ることができた。

戦争、それに打ちのめされる人、おっとどっこいとうっちゃる人、そこから創作をものにする人、様々だ。極限の世界からはすべてをそぎ落としたものが生まれて来るに違いない。生きるということの本当の意味が浮き出てくる世界なのであろう。
残念ながら人はそうやってしか生きることの意味を知ることができないものなのかもしれない。だから戦国時代の武将たちの生き方というのは現代の人々からも尊敬の念をもって受け入れられているのだろう。

この対談で交わされる会話はあらかじめテーマを決めて事前にネタを仕込んでいるのかもしれないが、言葉の往復のなかの知識の深さには驚かされる。いったいどこまで知っているのか。そして経験してきたのか。
師の言葉に、「知ることの苦しみ。」というものがあるが、この本を読み切るにはもっと“知”が必要だ。最近はちょっと貧血気味で血も足りないが脳みその“知”も足りない。
まだまだ知らなければならないことがいくらでもある。そして酒を酌み交わしながらこんな会話をすることができるようにいつかはなりたいものだ。




「梅原猛、日本仏教をゆく」読了

2016年02月02日 | 2016読書
梅原猛 「梅原猛、日本仏教をゆく」読了

梅原猛が四十二人の仏教者について解説をしている。
聖徳太子からはじまり仏教文化を花開かせた僧、現代に仏教を広めたひと。四十二人。知っている人、名前だけ知っている人、全然知らない人。総ページ数は300ページを超えるがひとりひとりの解説が短すぎるのがもったいない。もっと知りたい。でもこれだけでは少ない。おまけに日本史をほとんど勉強してこなかったので時代の流れをつかめない。承久の乱、建武の新政・・。とりあえずタブレットを片手に読み進んだが赤点ギリギリで高校を卒業した頭ではなかなかわからない。
あのころ、こんな本が片手にあればもっと日本史に興味を持てたのではないかと思うと惜しい気がする。まあ、この歳になったからこんな本が面白いと感じているということも事実であるのだが・・・。
それだけ日本の歴史の流れは仏教の各宗派の隆盛と衰退に沿っていたということだ。文化や習慣も同じことで、仏教から生まれた芸術や習慣が貴賎を問わず生活文化の背骨のように横たわっている。


天台宗はもとは密教ではなかったとか、近鉄奈良駅の広場に立っている銅像は行基だったとか、初めて知ったこともあったし、和歌山県にゆかりのある人物も多く取り上げられていた。
空海しかり、役小角はお母さんのお墓が六十谷にあったり、明恵上人も和歌山の生まれだ。浄土真宗の総本山も仮とはいえ一時期和歌山にあったのだ。

もっともっと知りたいと思わせる1冊であった。

「釣りの金言名手の格言100」読了

2016年01月22日 | 2016読書
つり人社書籍編集部 「釣りの金言名手の格言100」読了

カバーに“釣果アップ直結”なんて書かれているが、どうなんだろうか?
昔から聞いていたことがあるもの、どうもこの本のために無理やり考えたのではないかと思うもの合計100個。あまり心に響くようなものはなかった。
それに加え、それぞれの金言、格言に付いている解説の文章がパサパサだ。もうちょっとまともな文章を書いてほしかった。
唯一、これは!!と思ったのは、「少し超えたところに愉しみはあります。」という金言だ。
これは多分、人生のすべてのことに言えるのではないだろうか。“少し超えた”というのがいいではないか。
これだけはよかった。

本の最後には、読者に101個目の刻んでくださいと書かれていたので、僕もひとつ。
「釣れない釣りは釣りじゃない!」
雄大な大海原を眺めているだけで満足だなんて絶対に思えないのだ。やっぱり魚を釣ってナンボなのだ。





「他人を攻撃せずにはいられない人」読了

2016年01月17日 | 2016読書
片田珠美 「他人を攻撃せずにはいられない人」読了

僕のところにやってくるクレーマーの何人かの中には、明らかに「僕たちをいじめてやろう。」もしくは、「僕たちを弄んでやろう。」としか思っていなくてしかもそれを楽しんでいるとしか思えない人々がいる。
まさしく本書のタイトルのような人だ。

こういう人々というのはどうして多大な労力と時間を割いてこんなことをするのだろうと常々考えるのだが、ここ2、3年でなんとなく自分なりに答えが出てきた。
結局、ものすごく寂しい人々であるこということではないのかと思い至ったのだ。
まあ、こんなことをねちねち言っているようではまともなご近所付き合いはできるわけもなく、友人がいたとしてもこれまたまともにお付き合いをしてくれるわけがない。
どうして孤立しているのかわからなくなってくる人たちの何割かは、「世間が私を理解してくれない。そんな世間が悪い。」となってくる。そこへもって、まずは絶対に何の抵抗も見せない僕たちの業界は彼らにとってものすごくおいしい世界なのかもしれない。
役所や学校というところも同じような感じのようだが、僕たちの世界は高級品に囲まれてさぞやみんな優雅な生活をしているんじゃなかろうかと妬みの度合いが高いのかもしれない。現実はまったく逆で、僕の給料ではそんなものを購入することは絶対にできることはなく、せいぜい通用口で売っている半額になったサンドイッチを週に1回買えるくらいだ。言葉はおかしいが、まったくの濡れ衣なんだ。

僕たちというのは、どれだけ罵倒しても絶対に反撃してこない相手なのだからやたらとスッキリする。誰も文句を言わないのだからやっぱり私が正しいのだ、私を理解しない世間のほうが間違っているのだということを再認識できるんだから気持ちがいい。そこからは世の中の間違ったことを正しているんだという正義感まで生まれるようだ。
この本にも書かれていたが、人はそうやって自分を正当化しないとやっていけないらしい。僕も、「私はあなたたちにもっと良くなってもらいたいと思って必死で言っているの!」と言われてひっくり返りそうになったことがある。このひとは自分の家に見ず知らずの人を上げて夕食も食べずに夜中の11時過ぎまで大声をあげて僕たちのために相当な労力を使ってくれている・・。
それが理解できない。いったいこれがこのひとにとって何の得になるのか・・。僕は人間がわからなくなった。それとも人は損得を超越した使命を持っているものなのか・・・。

こういう人はとにかく何時間でも話したがる。それも向こうがしゃべる時間のほうがはるかに長い。本当に疲れないのかと心配になるほどだ。だからそれを楽しんでいるとしか思えないのだ。
そうしなければ気持ちが治まらない哀れな性格なのか、それともこんなことにしか楽しみを見出せない哀れな生き方しかできないのか、同情もしてやりたいような気持ちもするのだが、ただ罵倒され続けるこちらもはやり哀れだ。

この本は対処法として、逃げろとか反撃しろとかもっともらしく書いているが、会社の看板を背負ってそれはできない。会社がそうしろと判断してくれれば僕はいくらでも戦う覚悟あるが、はしごを外されて家族を路頭に迷わせることはできない。そんな判断をしてくれる上司などはいない。どれだけ個人攻撃をされていてもまったく知らない振りされてしまうのが現実だ。やるなら自分の責任で、相手と刺し違える覚悟がいる。

だから、結局、今までどおりこんなテロリストのような相手からは多大な罵倒を受け続けるよりほかはないのだというのが結論だ。

一度でいいから言ってみたい。「それがどうした。」と・・・。
そして他山の石として自分は歳をとってもこんな人間にはならないでいたいものだと思うのである。

この本もその他の新書と同じく、センセーショナルなタイトルのわりにはまったく中身のないものであった。僕でさえ、こんなことはすでに悟っている。
本当に最近の新書はどうなっているのだ・・・。


「預言者のことば」読了

2016年01月08日 | 2016読書
カリール ジブラン/有枝 春 訳 「預言者のことば」読了

以前に読んだ「預言者」の違う訳者のものを読んでみた。前作は経営コンサルタントの訳であったが、今作の訳者は調べる限り翻訳業のひとであることしかわからない。
船井幸雄の訳に比べると少しだけわかりやすいという感じだ。そういう意味では相当意訳されているのだろうと思う。
意訳によって訳者の考えを受け入れるか、直訳を苦心して足らなくても自分なりの理解をするか。
どちらにしてもこの本は何度も読まなければ真意はわからないような気がする。

前作と同じ感想にはなるが、自分に正直に生きないと人生は苦しいぞと言っているのは間違いがないようだ。
しかし、多くの宗教について書かれた本のようにどうすればそんなに生きられるかについては具体的には書かれていなのだ。
そこはやはり自分で考えろということなのだろう。