吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年1月6日〈津屋崎学〉032:「活洲場」

2008-01-06 13:40:37 | 郷土史
写真①:曽根の鼻に突堤が残る「活洲場」跡
     =福津市津屋崎渡半島南端で、2007年12月30日午前11時20分撮影

琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第32回:2008.01.06
  「活洲場」


清 「福岡県飯塚市幸袋にある〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤傳(伝)右衛門(1860-1947)の旧邸が、一般公開されて人気やね。おいしゃん(叔父さん)、津屋崎にもあんな屋敷があったら観光の目玉になるとにね」
琢二 「清、何も知らんのか。傳右衛門は、津屋崎でも事業をしよったとぞ」
清 「えっ、本当?」
琢二 「津屋崎渡半島の南端・曽根の鼻に、『活洲場(いけすば)』の跡=写真①=が残っとる。明治40年(1907年)5月、『津屋崎活洲会社』が創立され、曽根の鼻に延長約240㍍の突堤を築き、海面約2,300平方㍍を囲んで活洲を建設した。タイ、ヒラメ、ブリなど約50種の魚を泳がせ、観覧用の堤防や中の島も設け、同41年7月から活洲の遊覧を始めた。9月からは、方形の屋根を4本柱で支えた東屋で活魚を賞味できるいけす料理を開業した=写真②=」


写真②:魚の観覧客で賑う「活洲場」
     =福津市津屋崎で、『津屋崎町史通史編』(旧津屋崎町発行)からスキャン

清 「傳右衛門は、『津屋崎活洲会社』とどう関わっていたとね」
琢二 「『津屋崎活洲会社』は資本金3万円で、地元の醤油醸造家占部太平を社長に発足したが、傳右衛門は麻生太吉や貝島栄三郎ら筑豊の炭鉱主らとともに大株主に加わった」
清 「確か、津屋崎天神町に新泉岳寺を建立した地元の実業家児玉恒次郎さんも、『活洲場』開設に参加したんだよね」
琢二 「よう覚えとったな。児玉さんは、津屋崎の観光開発に熱心やった」
清 「それで、『活洲場』は、儲かったちゃろか」
琢二 「〈魚に引かれて津屋崎遊び〉と大評判になり、いけす料理開業翌月の10月には1日平均450人の賑わいだった」
清 「へー、好調やないと」
琢二 「ところが、11月に近くでコレラが発生、伝染の恐れが出たため、1か月休業するはめになったうえ、冬場には寒さで料理の目玉のタイやヤズがショック死した」
清 「あらら、大変だね」
琢二 「明治42年11月29日には、九州北部を襲った暴風・高潮のため、『活洲場』の魚が高潮にさらわれて、沖に逃げ去るという大打撃を受けたったい。とうとう同43年5月に臨時株主総会を開き、水族館計画を含む増資案を撤回し、やりくり営業を続けたものの、会社解散に追い込まれた。〈津屋崎千軒〉として栄えた明治の港町・津屋崎の観光浮揚に、羽振りの良い傳右衛門ら炭鉱主が一役買ってでたものの、実を結ばなかったのは残念な結果ばい」

「活洲場」跡
      「活洲場」跡の位置図
       (ピンが立っている所)
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