吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2007年4月19日〈津屋崎学〉027:津屋崎祇園山笠

2007-04-19 10:28:39 | 郷土史

写真①:波折神社を出発する〈津屋崎祇園山笠〉追い山の2番山・「北流れ」(左側)と先発した1番山・「新町流れ」(右側)
     =福津市津屋崎古小路で、2006年7月16日午前9時05分撮影

・琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第27回:2007.4.19
  津屋崎祇園山笠


清 「21、22日に津屋崎千軒〉通りで、津屋崎の物産販売や絵馬の展示などがある第10回〈よっちゃん祭〉が、NPO(特定非営利活動)法人・〈つやざき千軒いきいき夢の会〉主催であるばってん、津屋崎の男の祭りと言えば、やっぱり〈津屋崎祇園山笠〉=写真①=たいね、おいしゃん(叔父さん)」
琢二 「そらー、そうくさ。〝オギオンサマ〟とも呼ばれてきた〈津屋崎祇園山笠〉が、悪疫、災害を除く神事として昔からの伝統を今に引き継ぎ、〈津屋崎千軒〉通りの狭い路地を一気に駆け抜ける一番の祭りばい。清や吉村青春さんら天神町に住む人や新屋敷・出口、沖町、裏町・蔵屋敷・門前の住人は〈岡流れ〉に所属する。東船津町、西船津町、東魚町、西魚町、横町の人は〈新町流れ〉が受け持つ。東古小路、浜ノ町、上本町、北本町、西古小路の人は〈北流れ〉になる。この三つの流れに分かれ、〈追い山〉を競う勇壮な夏祭りが〈津屋崎祇園山笠〉たい」
清 「なるほど。それで、〈津屋崎祇園山笠〉は、いつごろ始まったとね?」
琢二 「江戸時代に発刊された地誌・『筑前国続風土記附録(ちくぜんのくにぞくふどきふろく)』によると、正徳4年(1714年)たい。津屋崎の氏神・〈波折神社〉=写真②=の境内にある祇園社に、博多から祇園神をお迎えし、旧暦の6月19日に高さ10㍍という大きな三基の山笠を作って担ぎ、神様に捧げて祇園神の祭りをしたのが始まりとされとる」
清 「それから、〈津屋崎祇園山笠〉は毎年続いとうと?」
琢二 「戦争で一時中断し、戦後にいったん復活して昭和37年(1962年)まで続いて行われとった。ところが、翌38年から13年間中断していた」


写真②:波折神社に勢揃いした〈津屋崎祇園山笠〉追い山3流れを前に宮地嶽三柱太鼓の演奏を見る人たち
     =福津市津屋崎古小路で、06年7月16日午前8時58分撮影

清 「と言うと、それからまた復活したっちゃね」
琢二 「昭和50年(1975年)のことたい。〈津屋崎祇園山笠保存会〉が16人の発起人で組織され、一つの山笠が作られた。〈津屋崎祇園山笠保存会〉の人たちの情熱で、昭和54年(1979年)に〈岡流れ〉、〈新町流れ〉、〈北流れ〉の三つの流れが復活。〈岡流れ〉は旧役場跡に、〈新町流れ〉は瀬戸鮮魚店前の空き地に、〈北流れ〉は津屋崎漁港そばの波切不動堂横の空き地にと、それぞれ3基の山笠が立つようになった」

清 「そんな歴史があったとは、知らんかったな」
琢二 「今は参加者の勤務の都合を考えて毎年、7月19日に近い日曜日に〈追い山〉を行い、その前日の土曜日に〈追い山〉の安全を祈願する〈裸参り〉をしとるばい」
清 「〈裸参り〉は、小学生の時に毎年出とったよ。赤い締め込みと白の法被姿に赤鉢巻をして、手に提灯を持った大人を先頭に夕暮れの波折神社を出発、走って在自の金刀比羅神社と宮司元町の宮地嶽神社を参拝して帰った。『オイサ、ヨイヤサ』と元気な掛け声を出しながら走って、汗びっしょりになったけど、気持ちがいいもんや」
琢二 「天神町から在自に向かう田んぼの中の暗い夜道を、〈裸参り〉の赤提灯の列が動いていくのを見るのも、津屋崎の夏の風物詩たい」


写真③:波折神社前の道路を曲がる〈追い山〉1番山・新町流れと、神社で出発を待つ2番山・北流れ(左側)
     =福津市津屋崎古小路で、06年7月16日午前9時08分撮影

清 「そして、翌日ある〈追い山〉が〈津屋崎祇園山笠〉のハイライトやね」
琢二 「波折神社を出発点とし、天神町の津屋崎交番付近を到着点として競う〈追い山〉は、大勢の見物客で賑う」
清 「〈追い山〉や〈裸参り〉のほかに、〈津屋崎祇園山笠〉の行事があると?」
琢二 「年によって違うが、7月16日が日曜の年は、まず7月1日午前8時に山笠を飾る台をお清めする〈台卸し〉を行う。山笠の飾り付けは約2週間かけて行われ、江戸時代の安永年間から受け継がれ、古博多人形の流れを汲む福岡県指定特産民芸品の津屋崎人形を使った豪華絢爛の合戦絵巻の山笠が、観客の人気を呼ぶ。5日午前8時からは、山笠台を組み立てる〈棒ガラメ〉をして山笠小屋を作り、子供たちが本番さながらに宮参りする〈慣らしがき〉がある。12日午後2時からは、山笠の台に人形を飾り付けたあと、追い山で走るコース以外の自分の流れの通りを回って披露する〈回し〉を行う」
清 「へー、いろいろ行事があるっちゃね」


写真④:〈津屋崎千軒〉通りを勇壮に走る〈津屋崎祇園山笠〉追い山2番山・北流れ
     =福津市津屋崎古小路で、06年7月16日午前9時10分撮影

清 「その次の行事が、〈裸参り〉かな?」
琢二 「15日の土曜日は、午前9時から波折宮(神社)社殿で追い山の出発順序を決めるクジ取りの行事がある。各流れから各3人の代表者と山笠保存会役員9人、波折宮宮司、宮総代が参加し、3回のクジ取りをする。まず1回目のクジで3流れ代表者の席順を決め、次にクジ引きの順序を決める。3回目に本クジで1番、2番、3番山笠の順番を決めるったい。午後から、3流れ毎に山笠を担いで通りを回る〈流れがき〉を行い、午後8時に波折宮から〈裸参り〉に出発する」
清 「クジ取りの行事は、クジ引きを3回やるとか、面白いね」
琢二 「16日の日曜日が、午前9時から波折宮で神事のあと、『祝いめでた』(『博多祝い唄』)を歌い、一番太鼓を合図に〈追い山〉のスタートたい。1番山、2番山、3番山と順に境内を出て行く。〈追い山〉が終わったら、各流れは山笠小屋の前で1本締めの〈手締め〉を行い、山笠と小屋を解体する」
清 「山笠には、何人くらいが参加しとるとやろか」
琢二 「各流れの住人のほか、他地区からの応援や国際交流で外国人の参加があったり、総勢200人前後が参加している。3流れの山の鉢巻の色と他地区からの応援は、岡流れが〈赤色:応援=末広、宮司地区〉、新町流れが〈黄色:応援=在自、須多田、大石地区〉、北流れが〈桃色:応援=渡地区〉とされている」
清 「そう言えば、吉村青春さんの連載エッセー『一木一草』第37回〝山のぼせ〟(新風舎・クリエイターズワールドの吉村青春ホームページ『わが詩(うた)―柳は緑、花は紅』に06年7月10日アップの『鵲声記』134収録)で、福岡県立福岡高校2年生で16歳だった昭和36年(1961年)7月18日に、〈岡流れ〉の飾り山に台上がりした姿=写真⑤=を載せとんしゃったばい」
琢二 「〈台上がりは、山笠の舁(か)き手を『棒に付け!』と鼓舞する役です。私は、自宅近くを勇壮に走る流れ舁(が)きした台上で、〝山のぼせ〟気分に酔いました〉と、青春さんは書いとんしゃったな」


写真⑤:赤鉢巻に白法被、赤い締め込み姿で〈岡流れ〉の飾り山に台上がりした吉村青春
     =昭和36年(1961年)7月18日撮影(モノクロ写真)
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