![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/dd/988fd53ad080efd45386394f263f09d7.jpg)
写真①:『六人士』の庄屋佐兵衛が詠んだ辞世の歌碑
=福津市津屋崎白石浜俵瀬で、2008年1月4日午前9時06分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第31回:2008.01.05
六人士の歌碑と六社宮
清 「おいしゃん(叔父さん)、明けましておめでとうございます。前回、津屋崎横町の『教安寺』境内に祀られとる『義民六人士』のことを聞いたばってん、『六人士』の浦庄屋佐兵衛が詠んだ辞世の歌碑のことばもう少し話しちゃらんね」
琢二 「おめでとう。『義民六人士』は『義民六人衆』とも言い、略して『六人士』、『六義士』とも言うが、佐兵衛が詠んだ〈骨くだく思いもしぶきと消へさりぬ 白石浜の今日の夕映え〉という歌の石碑=写真①=は、白石浜の俵瀬にある」
清 「俵瀬って、車で行ける所かね?」
琢二 「渡の入海(いりうみ=津屋崎干潟)西岸の旧〈玄海彫刻の岬恋の浦〉正門前の道路北側に〈六人士の歌碑〉の案内標識=写真②=が建っている。ここから、北西へでこぼこ道を車で走り、2分で白石浜に突き当たり、すぐ左の俵瀬に歌碑があるのが見える。歌碑の裏には、〈義民六士/浦庄屋佐兵衛/組頭七郎兵衛/長兵衛/甚兵衛/作右エ門/弥右エ門/寛永十七年六月一日〉と刻まれとる」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/52/3689f98091ce0aa6e532da7a18c7ac66.jpg)
写真②:道路わきに建つ〈六人士の歌碑〉の案内標識(右は『津屋崎干潟』)
=福津市渡で、1月4日午後2時11分撮影
清 「歌碑は、だれが建てたとね」
琢二 「津屋崎漁業協同組合が昭和43年(1968年)6月、我が身を犠牲にして漁場を守った義民として6人の遺徳をしのび、ゆかりの白石浜に建てた。寛永17年(1640年)6月1日は、津屋崎浦と勝浦浜の漁場争いが決着した日で、江戸時代初期のことたい。浦庄屋佐兵衛ら6人は、黒田藩浦奉行への直訴の罪で翌2日に断罪されている。当時、漁区は網が引けない岩場が多いうえ、漁師約50戸の勝浦の6倍の300戸の漁師がいた津屋崎浦は、六義士の犠牲により白石から勝浦浜まで約1㌔の漁場を獲得したことになる」
清 「藩の浦奉行が、三百貫(1,125㌔)の大石を6人に担がせ、綱が切れた所か、力尽きた所を境界とすると言い渡したが、6人は必死に勝浦浜まで約10町(約1㌔)歩き続け、たまりかねた浦奉行が刀を抜いて綱を切って制止した所を境界とし、約百年の漁場争いに終止符が打たれたんだったね」
![俵瀬の〈六人士の歌碑〉 俵瀬の〈六人士の歌碑〉](http://chizumado.jp/mado/1008118/image.jpg)
〈六人士の歌碑〉の位置図
(ピンが立っている所)
琢二 「〈六人士〉が、『三百貫の大石』を担いで、この歌碑から白石浜を北へ約1㌔歩いた勝浦浜に、この『大石』=写真③=があるばい」
清 「写真では、台の上に載せられ、囲いがしてあるね」
琢二 「津屋崎漁協が昭和55年に砂浜に埋まっていた石を掘り起こし、コンクリート台に載せて保存できるようにした」
清 「いっぺん見に行こう」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/aa/03e543e585a6eb785fa043d7beaf2f16.jpg)
写真③:〈六人士〉が担いだとされる『大石』
=福津市勝浦浜で、2007年12月9日午前11時16分撮影
琢二 「この『大石』の東側の松原には、〈六人士〉を祀る『六社宮』=写真④=がある。松原地区では、津屋崎浦の願いがかなったから運が強い〝勝負の神〟として信仰していると聞く」
清 「波折神社にある『六之(ろくし)神社』のほかにも、〈六人士〉を祀る社があるっちゃね」
琢二 「〈六人士〉は、断罪されて約2百年後の天保5年(1834年)3月18日、黒田藩から罪をゆるし厚く祭祀を営むよう命じられ、神に祀られた。『六之神社』では、この3月18日に義民六士の霊を慰め、教安寺では命日の6月2日に供養が行われる」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/56/c2065ba379dc5005791c52db695c578b.jpg)
写真④:〈六人士〉を祀る『六社宮』
=福津市勝浦浜で、2007年12月9日午前11時24分撮影
![六人士が担いだ大石 六人士が担いだ大石](http://chizumado.jp/mado/1008119/image.jpg)
〈六人士〉が担いだとされる『大石』の位置図
(ピンが立っている所)
=福津市津屋崎白石浜俵瀬で、2008年1月4日午前9時06分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第31回:2008.01.05
六人士の歌碑と六社宮
清 「おいしゃん(叔父さん)、明けましておめでとうございます。前回、津屋崎横町の『教安寺』境内に祀られとる『義民六人士』のことを聞いたばってん、『六人士』の浦庄屋佐兵衛が詠んだ辞世の歌碑のことばもう少し話しちゃらんね」
琢二 「おめでとう。『義民六人士』は『義民六人衆』とも言い、略して『六人士』、『六義士』とも言うが、佐兵衛が詠んだ〈骨くだく思いもしぶきと消へさりぬ 白石浜の今日の夕映え〉という歌の石碑=写真①=は、白石浜の俵瀬にある」
清 「俵瀬って、車で行ける所かね?」
琢二 「渡の入海(いりうみ=津屋崎干潟)西岸の旧〈玄海彫刻の岬恋の浦〉正門前の道路北側に〈六人士の歌碑〉の案内標識=写真②=が建っている。ここから、北西へでこぼこ道を車で走り、2分で白石浜に突き当たり、すぐ左の俵瀬に歌碑があるのが見える。歌碑の裏には、〈義民六士/浦庄屋佐兵衛/組頭七郎兵衛/長兵衛/甚兵衛/作右エ門/弥右エ門/寛永十七年六月一日〉と刻まれとる」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/52/3689f98091ce0aa6e532da7a18c7ac66.jpg)
写真②:道路わきに建つ〈六人士の歌碑〉の案内標識(右は『津屋崎干潟』)
=福津市渡で、1月4日午後2時11分撮影
清 「歌碑は、だれが建てたとね」
琢二 「津屋崎漁業協同組合が昭和43年(1968年)6月、我が身を犠牲にして漁場を守った義民として6人の遺徳をしのび、ゆかりの白石浜に建てた。寛永17年(1640年)6月1日は、津屋崎浦と勝浦浜の漁場争いが決着した日で、江戸時代初期のことたい。浦庄屋佐兵衛ら6人は、黒田藩浦奉行への直訴の罪で翌2日に断罪されている。当時、漁区は網が引けない岩場が多いうえ、漁師約50戸の勝浦の6倍の300戸の漁師がいた津屋崎浦は、六義士の犠牲により白石から勝浦浜まで約1㌔の漁場を獲得したことになる」
清 「藩の浦奉行が、三百貫(1,125㌔)の大石を6人に担がせ、綱が切れた所か、力尽きた所を境界とすると言い渡したが、6人は必死に勝浦浜まで約10町(約1㌔)歩き続け、たまりかねた浦奉行が刀を抜いて綱を切って制止した所を境界とし、約百年の漁場争いに終止符が打たれたんだったね」
![俵瀬の〈六人士の歌碑〉 俵瀬の〈六人士の歌碑〉](http://chizumado.jp/mado/1008118/image.jpg)
〈六人士の歌碑〉の位置図
(ピンが立っている所)
琢二 「〈六人士〉が、『三百貫の大石』を担いで、この歌碑から白石浜を北へ約1㌔歩いた勝浦浜に、この『大石』=写真③=があるばい」
清 「写真では、台の上に載せられ、囲いがしてあるね」
琢二 「津屋崎漁協が昭和55年に砂浜に埋まっていた石を掘り起こし、コンクリート台に載せて保存できるようにした」
清 「いっぺん見に行こう」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/aa/03e543e585a6eb785fa043d7beaf2f16.jpg)
写真③:〈六人士〉が担いだとされる『大石』
=福津市勝浦浜で、2007年12月9日午前11時16分撮影
琢二 「この『大石』の東側の松原には、〈六人士〉を祀る『六社宮』=写真④=がある。松原地区では、津屋崎浦の願いがかなったから運が強い〝勝負の神〟として信仰していると聞く」
清 「波折神社にある『六之(ろくし)神社』のほかにも、〈六人士〉を祀る社があるっちゃね」
琢二 「〈六人士〉は、断罪されて約2百年後の天保5年(1834年)3月18日、黒田藩から罪をゆるし厚く祭祀を営むよう命じられ、神に祀られた。『六之神社』では、この3月18日に義民六士の霊を慰め、教安寺では命日の6月2日に供養が行われる」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/56/c2065ba379dc5005791c52db695c578b.jpg)
写真④:〈六人士〉を祀る『六社宮』
=福津市勝浦浜で、2007年12月9日午前11時24分撮影
![六人士が担いだ大石 六人士が担いだ大石](http://chizumado.jp/mado/1008119/image.jpg)
〈六人士〉が担いだとされる『大石』の位置図
(ピンが立っている所)
「津屋崎学」は、福津市立図書館、福岡県立図書館、国立国会図書館に各1冊寄贈しています。福津市立図書館では、郷土史コーナーの開架書棚に置かれていますが、貸出中のことがありますので、検索機でチェックしてみてください。