吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2007年12月31日〈津屋崎学〉030:「教安寺」

2007-12-31 09:00:44 | 郷土史

写真①:「鷗詠山教安寺」の山門
     =福津市津屋崎横町で、2007年12月13日午前9時05分撮影

琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第30回:2007.12.31
  「教安寺」


清 「おいしゃん(叔父さん)、今年も大晦日になったね。ご先祖のお寺参りも、近ごろ行かんけど、きょうは津屋崎横町の『教安寺』のことば話しちゃらんね」
琢二 「清、津崎家の菩提寺・『教安寺』のお参りを欠かしたら、いかんぞ」
清 「分かりました。『教安寺』のことは、浄土宗のお寺ということぐらいしか知りまっせん」
琢二 「そう、浄土宗で、『教安寺』は寺号(じごう)だな。山号(さんごう)を鷗詠山(おうえいざん)=写真②=、院号(いんごう)を浄土院(じょうどいん)という」
清 「ちょっと。その寺号、山号、院号って何のこと?」
琢二 「日本の寺院は、奈良時代には平地に建てられていたが、平安時代には山に多く建てられるようになり、高野山、比叡山などが山の名の山号で呼ばれている。『比叡山延暦寺』、『成田山新勝寺』など寺の名前の上に付ける称号として山号が使われているが、のちに『金竜山浅草寺』(きんりゅうざんせんそうじ)などと平地の寺でも山号を付けるようになった。院号というのは、垣根のある立派な屋敷や建物、回廊をさす。『教安寺』の総本山は、京都の知恩院だが、知恩院は院号で、山号は華頂山(かちょうざん)、寺号は大谷寺(おおたにでら)たい」
清 「へー、そうなんや」


写真②:「鷗詠山」の山額が掲げられている『教安寺』本堂
     =12月13日午前9時05分撮影

琢二 「『教安寺』は、平安時代に浄土宗を開いた法然(ほうねん)の弟子の行音自阿弥陀仏大和尚(ぎょうおんじあみだぶつだいおしょう)が、鎌倉時代中期の寛喜3年(1231年)に開山した」
清 「それで、ご本尊は?」
琢二 「平安か鎌倉時代の作といわれる阿弥陀如来=写真③=が、本堂にあるたい。計り知れない生命力・光を持つ如来である西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来から見て右側に衆生の無知を救う仏の智慧を表す『勢至菩薩』、左側に慈悲を示す『観音菩薩』の像が脇侍として建っている」
清 「ほう、いっぺん拝んでみたい」


写真③:本堂にある阿弥陀如来像(向かって左が『勢至菩薩』像、右が『観音菩薩』像)
     =「教安寺」で、12月13日午前9時36分撮影

琢二 「本堂前には、青銅製の大地蔵菩薩=写真④=もあるばい。江戸時代に幾度もあった飢饉で亡くなった子供の供養にと、江戸後期の文政8年(1825年)に建立された」
清 「確か、日本史の授業で享保の飢饉というのを習った記憶がある」
琢二 「よう覚えとったな。徳川吉宗が将軍だった江戸時代中期の享保17年(1732年)にイナゴが大発生し、享保の飢饉が起きた。筑前領内でも死者約10万人で、福岡と博多の住民の半数が犠牲となり、黒田藩に大きな打撃となったそうな」


写真④:本堂前の境内にある青銅製の大地蔵菩薩
     =「教安寺」で、12月13日午前9時47分撮影

清 「津屋崎でも、多くの子供が飢饉で亡くなったっちゃろうね」
琢二 「そうだな。境内には『義民六人士』も祀られとるのを知っとうや」
清 「『義民六人士』の名前は聞いたことがあるばってん、詳しくは……」
琢二 「『義民六人士』は、江戸時代に津屋崎の漁場拡張を黒田藩に直訴した庄屋佐兵衛と組頭ら5人のことたい。藩の浦奉行が津屋崎白石浜の俵瀬にあった三百貫(1,125㌔)の大石を6人に担がせ、力尽きた所を境界とすると裁きをした。ところが、6人は必死に勝浦浜側まで約1㌔歩き続け、浦奉行が制止した所で境界とし、約百年の漁場争いに終止符が打たれた」
清 「それで、6人が『義民六人士』と呼ばれるようになったとね」
琢二 「6人は直訴したとして断罪されたが、『教安寺』に『義民六人士』を供養する六角堂と塚が建てられ=写真⑤=、波折神社境内には六之(ろくし)神社=写真⑥=が設けられ、神として祀られた。勝浦浜には、その大石が残され、俵瀬には佐兵衛が詠んだ〈骨くだく思いもしぶきと消えさりぬ 白石浜の今日の夕映え〉という歌の石碑が建てられている」
清 「胸の底に重く響く歌だね」


写真⑤:『義民六人士』を供養する六角堂と塚
     =「教安寺」で、12月13日午前9時06分撮影


写真⑥:『義民六人士』を祀る六之神社
     =福津市津屋崎古小路の「波折神社」境内で、12月9日午後4時44分撮影


琢二 「ただ、この浦奉行の裁きで漁場を狭められた勝浦浜人の無念もまた残されたということだ。それから、境内には江戸時代中期の寛保3年(1743年)に津屋崎塩田を開発し、黒田藩から塩浜庄屋に任命された大社元七(おおこそ・もとしち)さんの墓も祀られとるばい」
清 「『教安寺』には、津屋崎の海にまつわる歴史が詰まっとうね」

『教安寺』(福岡県福津市津屋崎横町。℡0940-52-0004):◆交通アクセス=〔バスで〕西鉄バス「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。

教安寺の位置図

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2 コメント

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ありがとうございました (comomo)
2011-08-05 15:48:14
大変参考になりました
昨日いってきました

ご先祖がその6人のうちの一人と言う事・・・祖母が高齢で今となっては、どの人かは分からないそうで、残念です。

ウチから車で1時間ですが、交通機関では2時間以上かかります。
不便な土地ではあります。
可能な限り、祖母を連れて行きたいと思いました
返信する
comomoさんへ (青春)
2011-08-06 04:42:56
ご先祖が六人士のどなたか、分かるといいですね。6人の名前は、浦庄屋佐兵衛と組頭・七郎兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右衛門、孫右衛門の5人です。
「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の女性会員の一人は、六人士の子孫と聞いています。
祖母様が、来られる時に何かヒントになるといいですが。

ウチ
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