写真①:北側の路地から見た「善福寺」境内
=福津市津屋崎出口で、2007年4月20日午後4時10分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第28回:2007.4.22
善福寺と黒田長政公
清 「おいしゃん(叔父さん)、福津市津屋崎の藤名所・出口の善福寺=写真①=のフジが咲いたと、4月12日の吉村青春さんのブログ『津屋崎センゲン』に載っとったよ」
琢二 「そうだな。例年、4月下旬が見ごろになる」
清 「ところで、善福寺って、めでたい名前のお寺やね」
琢二 「お寺を開いた人は、鎌倉時代の文永9年(1272年)に福岡県太宰府市横岳の崇福寺の住職となった圓通大応国師たい。本尊は、馬頭観世音。筑前国中33ケ所霊場第16番札所にもなっとる。言い伝えによると、昔、宮地岳西側の在自山との間の山麓にあった大力谷の海雲山善福寺というお寺が火事になり、仏像の観世音が焼けた際に、ここ出口まで飛んで来て難を避けた。そこで、お堂を建てて祀った、と言われとる」
清 「ヘー、そうね」
琢二 「善福寺境内入り口の路地の東側に、この言い伝えの説明文も刻んだ墓地改装記念の石碑=写真②=が建っとるばい」
清 「藤名所の善福寺に、そんな言い伝えの石碑があるとは知らんかったな」
写真②:「善福寺」境内入り口の路地東側に建つ言い伝えの説明文も刻んだ墓地改装記念碑
=福津市津屋崎出口で、07年4月13日午後2時26分撮影
琢二 「〈善福寺〉は〈観音堂〉とも言うが、もう一つ、〈垣の内観音堂〉とも呼ばれとる」
清 「そらまた、なして(なんで)?」
琢二 「江戸時代に発刊された地誌・『筑前国続風土記拾遺』(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)によると、元和9年(1623年)、初代福岡藩主・黒田長政公が京都で死去し、その棺を船で博多へ運ぶ途中、風雨が強くなったため、ここ津屋崎港から出口に棺を揚げ、四方に垣をめぐらせて守った。棺は翌日、陸路で博多の黒田家菩提寺・崇福寺(そうふくじ)に送られた。地元の人たちは、ここの地名を垣の内と言うようになり、のちに観音堂を建て、長政公の〈興雲院殿〉の位牌を祀ったことから、〈垣の内観音堂〉とも呼ばれるようになった。今も、善福寺の入り口には〈善福寺観音堂縁起〉の説明板=写真③=が掲げられとる」
清 「そんな歴史があったとは、知らんかったな」
写真③:善福寺の入り口柱に掲げられた〈善福寺観音堂縁起〉の説明板
=福津市津屋崎出口で、07年4月12日午前6時46分撮影
琢二 「善福寺は、正面に切妻の一棟があり、すぐ裏に六角堂の一棟がある。切妻の棟に入ると室内は六角堂まで続いており、ここに観音様と黒田長政公の位牌が祀られている」
写真④:観音様と黒田長政公の位牌が祀られている「善福寺」本堂
=福津市津屋崎出口で、07年4月13日午後2時27分撮影
清 「黒田長政公の位牌が津屋崎のお寺に祀られ、ゆかりの地名まで残っているとは面白いね。でも、ちょっと疑問がある。もともと善福寺は、言い伝えによると、大力谷の海雲山善福寺というお寺が火事になり、仏像の観世音が焼けた際に、出口まで飛んで来て難を避けたので、お堂を建てて祀った、と言われとるとやろ? そしたら、すでに観音様を祀るお堂があったはずの所に、地名を垣の内と言うようになった後にまた観音堂を建てたことにならんね」
琢二 「いい着眼だ。言い伝えは、文献史料はないし、焼けた仏像が飛んで来るというお話はともかく、観音様を祀るお堂が建てられていても古くなって朽ちていたのかもしれん。そこで、長政公の位牌を祀るため観音堂を建てたという見方もできなくはない。もっとも、善福寺縁起によると、平安時代の天暦年中(947年)、観音堂が炎上、仏像が飛び去って約百㍍東のセンダンの木に留まった。この木の下に黄金があるとの神託で、近くの漁夫が木の下から黄金を掘り出し、改めて寺を建て、善福寺と号した。その後、取り壊され、廃寺同様になったが、信徒が旧跡に小堂を再興したとの説もある。この辺の事実関係を考察するのも、郷土史研究の面白いところたい」
清 「言い伝えや伝説は、興味深い話が多いね」
琢二 「旧津屋崎町が平成10年(1998年)に発行した『津屋崎町史民俗調査報告書 津屋崎の民俗(第三集) 渡・梅津・末広・岡の二、三』には、〈今の観音堂は吉田作蔵(醤油屋)が海で遭難したとき、観音様に助けていただいたので寄進した。吉田作蔵の石碑がある。毎年八月十七日にお籠りがあった。出口の人達だけで年二~三回の出方があり、皆で観音様を世話をしている〉と書かれている。ま、今が見ごろのフジ越しに六角堂=写真④=を眺め、津屋崎の歴史に思いを寄せるといい」
写真⑤:南側から見た善福寺の「六角堂」
=福津市津屋崎出口で、07年4月20日午後4時09分撮影
善福寺(福津市津屋崎出口):◆交通アクセス=〔バスで〕西鉄バス「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。駐車場あり。
「善福寺」位置図
(ピンが立っている所)
=福津市津屋崎出口で、2007年4月20日午後4時10分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第28回:2007.4.22
善福寺と黒田長政公
清 「おいしゃん(叔父さん)、福津市津屋崎の藤名所・出口の善福寺=写真①=のフジが咲いたと、4月12日の吉村青春さんのブログ『津屋崎センゲン』に載っとったよ」
琢二 「そうだな。例年、4月下旬が見ごろになる」
清 「ところで、善福寺って、めでたい名前のお寺やね」
琢二 「お寺を開いた人は、鎌倉時代の文永9年(1272年)に福岡県太宰府市横岳の崇福寺の住職となった圓通大応国師たい。本尊は、馬頭観世音。筑前国中33ケ所霊場第16番札所にもなっとる。言い伝えによると、昔、宮地岳西側の在自山との間の山麓にあった大力谷の海雲山善福寺というお寺が火事になり、仏像の観世音が焼けた際に、ここ出口まで飛んで来て難を避けた。そこで、お堂を建てて祀った、と言われとる」
清 「ヘー、そうね」
琢二 「善福寺境内入り口の路地の東側に、この言い伝えの説明文も刻んだ墓地改装記念の石碑=写真②=が建っとるばい」
清 「藤名所の善福寺に、そんな言い伝えの石碑があるとは知らんかったな」
写真②:「善福寺」境内入り口の路地東側に建つ言い伝えの説明文も刻んだ墓地改装記念碑
=福津市津屋崎出口で、07年4月13日午後2時26分撮影
琢二 「〈善福寺〉は〈観音堂〉とも言うが、もう一つ、〈垣の内観音堂〉とも呼ばれとる」
清 「そらまた、なして(なんで)?」
琢二 「江戸時代に発刊された地誌・『筑前国続風土記拾遺』(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)によると、元和9年(1623年)、初代福岡藩主・黒田長政公が京都で死去し、その棺を船で博多へ運ぶ途中、風雨が強くなったため、ここ津屋崎港から出口に棺を揚げ、四方に垣をめぐらせて守った。棺は翌日、陸路で博多の黒田家菩提寺・崇福寺(そうふくじ)に送られた。地元の人たちは、ここの地名を垣の内と言うようになり、のちに観音堂を建て、長政公の〈興雲院殿〉の位牌を祀ったことから、〈垣の内観音堂〉とも呼ばれるようになった。今も、善福寺の入り口には〈善福寺観音堂縁起〉の説明板=写真③=が掲げられとる」
清 「そんな歴史があったとは、知らんかったな」
写真③:善福寺の入り口柱に掲げられた〈善福寺観音堂縁起〉の説明板
=福津市津屋崎出口で、07年4月12日午前6時46分撮影
琢二 「善福寺は、正面に切妻の一棟があり、すぐ裏に六角堂の一棟がある。切妻の棟に入ると室内は六角堂まで続いており、ここに観音様と黒田長政公の位牌が祀られている」
写真④:観音様と黒田長政公の位牌が祀られている「善福寺」本堂
=福津市津屋崎出口で、07年4月13日午後2時27分撮影
清 「黒田長政公の位牌が津屋崎のお寺に祀られ、ゆかりの地名まで残っているとは面白いね。でも、ちょっと疑問がある。もともと善福寺は、言い伝えによると、大力谷の海雲山善福寺というお寺が火事になり、仏像の観世音が焼けた際に、出口まで飛んで来て難を避けたので、お堂を建てて祀った、と言われとるとやろ? そしたら、すでに観音様を祀るお堂があったはずの所に、地名を垣の内と言うようになった後にまた観音堂を建てたことにならんね」
琢二 「いい着眼だ。言い伝えは、文献史料はないし、焼けた仏像が飛んで来るというお話はともかく、観音様を祀るお堂が建てられていても古くなって朽ちていたのかもしれん。そこで、長政公の位牌を祀るため観音堂を建てたという見方もできなくはない。もっとも、善福寺縁起によると、平安時代の天暦年中(947年)、観音堂が炎上、仏像が飛び去って約百㍍東のセンダンの木に留まった。この木の下に黄金があるとの神託で、近くの漁夫が木の下から黄金を掘り出し、改めて寺を建て、善福寺と号した。その後、取り壊され、廃寺同様になったが、信徒が旧跡に小堂を再興したとの説もある。この辺の事実関係を考察するのも、郷土史研究の面白いところたい」
清 「言い伝えや伝説は、興味深い話が多いね」
琢二 「旧津屋崎町が平成10年(1998年)に発行した『津屋崎町史民俗調査報告書 津屋崎の民俗(第三集) 渡・梅津・末広・岡の二、三』には、〈今の観音堂は吉田作蔵(醤油屋)が海で遭難したとき、観音様に助けていただいたので寄進した。吉田作蔵の石碑がある。毎年八月十七日にお籠りがあった。出口の人達だけで年二~三回の出方があり、皆で観音様を世話をしている〉と書かれている。ま、今が見ごろのフジ越しに六角堂=写真④=を眺め、津屋崎の歴史に思いを寄せるといい」
写真⑤:南側から見た善福寺の「六角堂」
=福津市津屋崎出口で、07年4月20日午後4時09分撮影
善福寺(福津市津屋崎出口):◆交通アクセス=〔バスで〕西鉄バス「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。駐車場あり。
「善福寺」位置図
(ピンが立っている所)