●写真①:金網のフェンスに囲われた福岡県指定有形文化財〈新原の百塔板碑〉
=福津市津屋崎勝浦新原で、2006年12月1日午前10時32分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第17回:2006.12.5
福岡県指定有形文化財〈新原の百塔板碑〉
清 「11月26日に終わった〈大相撲九州場所〉で優勝した朝青龍はモンゴル出身の横綱やが、元寇で日本を攻めてきたモンゴル人を祀った墓が津屋崎にあると聞いた。本当かいな、おいしゃん(叔父さん)」
琢二 「あると言えば、ある。福津市津屋崎勝浦新原(しんばる)にある〈新原の百塔板碑(ひゃくとういたび)〉=写真①=の謂われにかかわることたい」
清 「それは、どんなもんかいな」
琢二 「板碑とは、死者供養のために、墓石の後ろに立てる細長い板の石塔のことで、板形の扁平な石で造られたから板碑と言う。〈新原の百塔板碑〉は、昭和49年に福岡県有形文化財に指定されとる。金網のフェンスに囲まれた〈新原の百塔板碑〉の前に、福津市の説明盤=写真②=が建ててある。それには、次のような説明文が書かれている。
〈5世紀前半につくられた新原・奴山21号墳の上に8基の石塔が建っています。石塔は当地から400m程離れた渡地区から切り出された玄武岩を用いています。石塔には梵字(古代インド文字)とその下の円内に観音菩薩、金剛界大日如来、文殊菩薩、薬師如来等を線彫りしたものと、梵字のみのもの、釈迦如来の図像のみのものがあります。なかでも三方向に梵字がある石塔は、正面に『願共緒衆生往生安楽国 文永十一年八月日改立 勧進僧行円』とあり文永11年(1274)に建てられたことがわかります。また国内で三例しかない珍しい重体至極梵字(いくつかの梵字を切り継いだもの)があります。これらの石塔は鎌倉幕府の五代目執権である北条時頼が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てたとも、また、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたともいわれています。いずれにしても鎌倉時代中期の津屋崎の文化レベルの高さをうかがわせる文化財です〉」
写真②:〈新原の百塔板碑〉の前に建てられた福津市の説明盤
=福津市津屋崎勝浦新原で、2006年12月1日午前10時30分撮影
清 「〈新原の百塔板碑〉は、〈新原・奴山21号墳〉の上に建てられとるっちゃね」
琢二 「〈新原・奴山21号墳〉は、直径17㍍の円墳だ。この新原・奴山地区に宗像君一族が古墳を次々と造る前に、地元の小豪族が造った古墳と考えられとる。21号墳の北側にあるのが、今も41基が残っている〈新原・奴山古墳群〉のうち、宗像君一族の墓では最も古い5世紀前半に造られたという22号墳たい。全長約80㍍の前方後円墳で、裁縫の神様を祀る〈縫殿宮(ぬいどのぐう)〉の古宮跡だ。それで、石塔は実際には14基あり、その中の8基に梵字と観音菩薩などの仏像が細い線彫りで描かれとる。『文永十一年八月 日改立』との銘文があることから、これらの板碑は鎌倉時代中頃に建てられたと見られる」
清 「それから、〈新原の百塔板碑〉の建設理由に2説あるのは、どういうこと?」
琢二 「まず北条時頼(ほうじょうときより)が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てた説から話そう。鎌倉幕府の第5代執権時頼は、北条氏の始祖である平維将を先祖とする平家の一門だ。宗教心の厚い名君だった。30歳だった康元元年(1256年)に病に倒れて執権職を辞し、出家して死去するまでの7年間、遊僧となって諸国を巡回した。時頼が、勝浦奴山にある縫殿神社に大般若経六百巻の写経を納めたとする江戸時代の古文書もあり、勝浦新原に立ち寄ったかもしれん。だが、時頼は、〈新原の百塔板碑〉銘文に彫られた〈文永十一年〉より12年前の弘長3年(1262年)に死んでいるから、年代が合わん。時頼の遺言で建てられたと主張する説もあるが、12年後では遅すぎて説得力はない。平家の落人が、隠れ住んだ勝浦奴山村に戦死者のため〈幾許(いくばく)の塔〉を建てたという文献もあり、これが〈新原の百塔板碑〉の起こりかもしれんな」
清 「そうね。では、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたという説はどうかいな」
琢二 「国学者で江戸時代後期の福岡藩士・青柳種信(あおやぎ・たねのぶ)は、文永年間にこの辺の海岸で蒙古兵が多く討ち取られたので、そのときの兵卒のために建てた供養塔であると、藩命で編纂した『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』に書いている」
清 「この説は、信用できると? 中国大陸を支配していた元が日本に侵攻してきた〈元寇〉は、1274年の〈文永の役〉と、1281年の〈弘安の役〉の2度あったよね」
琢二 「よく覚えていたな。文永の役に関する奴山地区に残る古文書には、文永11年(1274年)6月21日に〈蒙古が、筑前国在自潟に渡来。その兵三千三百余人なり。当地に上陸兵は、三千二百人。宗像大宮司長氏は、宗像、水巻(遠賀)、鞍手三郡の兵士を引率〉と書かれている。6月22日には〈在自潟にて合戦。敵兵二千二百余人を討つ。敵の負傷五百七十余人。敵の我が国に帰化する者四百三十人。我が軍戦死者三千五百余人〉とある。そして、6月23日には〈六時にわかに颱風吹き出し、賊船ことごとく海没し、賊兵の船中に居る者百人ことごとく海中に死す。この日晴天となり颱風静まる。我が軍の戦死者は奴山郷に埋葬す。『今の百塔是れなり』『賊の死体は在自遠干潟、海浜の地下六尺に埋む』〉と記録されている。
我が三郡の戦死した鎌倉武士が埋葬されたのは、この百塔だろう――とも思われたが、ここで重大な事実誤認がある。実は、〈文永の役〉は10月のことで、石塔に書かれた〈八月改立〉の時期と合わない。5月から7月にあった〈弘安の役〉なら時期が合うが、いずれにしても奴山地区に残る古文書は信用性を失う。ただ、多くの頭蓋骨が出たという百塔近くにある通称〈海浜墓地〉が蒙古兵の埋葬場所ではないかと見る余地もあるかもしれん。だから、厳密にはモンゴル人が葬られたのは〈新原の百塔板碑〉付近であるかもというべきかな。もっとも、蒙古兵の中には服属してモンゴル人に率いられた高麗人や漢人なども含まれていたようだ」
清 「昔のことは、はっきりせんね。それから、〈新原の百塔板碑〉で残っている14基のうち8基が福岡県有形文化財に指定されとるけど、今では石塔の数は〈百塔〉ないね」
琢二 「昔はもっと多くあったらしく、江戸時代に福岡藩の鷹取周成が編纂した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』には二百塔と記されとる。以前は、少なくとも〈百塔〉はあったのだろう。今は、石塔の周囲は草が生え、木立に覆われて、昔の面影はない」
写真③:木立に覆われた古墳「新原・奴山21号墳」の上にある〈新原の百塔板碑〉
=福津市津屋崎勝浦新原で、06年12月1日午前10時34分撮影
福津市の〈新原の百塔板碑〉位置図
〈新原の百塔板碑〉(福津市津屋崎勝浦新原):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線「津屋崎」駅下車、西鉄バスに乗って「津屋崎駅前」から8分の「奴山口」で下車し、徒歩10分。米・麦乾燥施設の「宗像農協カントリーエレベーター」前の国道495号線東側にある〔車で〕九州自動車道古賀インターから同国道経由で約30分。
=福津市津屋崎勝浦新原で、2006年12月1日午前10時32分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第17回:2006.12.5
福岡県指定有形文化財〈新原の百塔板碑〉
清 「11月26日に終わった〈大相撲九州場所〉で優勝した朝青龍はモンゴル出身の横綱やが、元寇で日本を攻めてきたモンゴル人を祀った墓が津屋崎にあると聞いた。本当かいな、おいしゃん(叔父さん)」
琢二 「あると言えば、ある。福津市津屋崎勝浦新原(しんばる)にある〈新原の百塔板碑(ひゃくとういたび)〉=写真①=の謂われにかかわることたい」
清 「それは、どんなもんかいな」
琢二 「板碑とは、死者供養のために、墓石の後ろに立てる細長い板の石塔のことで、板形の扁平な石で造られたから板碑と言う。〈新原の百塔板碑〉は、昭和49年に福岡県有形文化財に指定されとる。金網のフェンスに囲まれた〈新原の百塔板碑〉の前に、福津市の説明盤=写真②=が建ててある。それには、次のような説明文が書かれている。
〈5世紀前半につくられた新原・奴山21号墳の上に8基の石塔が建っています。石塔は当地から400m程離れた渡地区から切り出された玄武岩を用いています。石塔には梵字(古代インド文字)とその下の円内に観音菩薩、金剛界大日如来、文殊菩薩、薬師如来等を線彫りしたものと、梵字のみのもの、釈迦如来の図像のみのものがあります。なかでも三方向に梵字がある石塔は、正面に『願共緒衆生往生安楽国 文永十一年八月日改立 勧進僧行円』とあり文永11年(1274)に建てられたことがわかります。また国内で三例しかない珍しい重体至極梵字(いくつかの梵字を切り継いだもの)があります。これらの石塔は鎌倉幕府の五代目執権である北条時頼が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てたとも、また、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたともいわれています。いずれにしても鎌倉時代中期の津屋崎の文化レベルの高さをうかがわせる文化財です〉」
写真②:〈新原の百塔板碑〉の前に建てられた福津市の説明盤
=福津市津屋崎勝浦新原で、2006年12月1日午前10時30分撮影
清 「〈新原の百塔板碑〉は、〈新原・奴山21号墳〉の上に建てられとるっちゃね」
琢二 「〈新原・奴山21号墳〉は、直径17㍍の円墳だ。この新原・奴山地区に宗像君一族が古墳を次々と造る前に、地元の小豪族が造った古墳と考えられとる。21号墳の北側にあるのが、今も41基が残っている〈新原・奴山古墳群〉のうち、宗像君一族の墓では最も古い5世紀前半に造られたという22号墳たい。全長約80㍍の前方後円墳で、裁縫の神様を祀る〈縫殿宮(ぬいどのぐう)〉の古宮跡だ。それで、石塔は実際には14基あり、その中の8基に梵字と観音菩薩などの仏像が細い線彫りで描かれとる。『文永十一年八月 日改立』との銘文があることから、これらの板碑は鎌倉時代中頃に建てられたと見られる」
清 「それから、〈新原の百塔板碑〉の建設理由に2説あるのは、どういうこと?」
琢二 「まず北条時頼(ほうじょうときより)が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てた説から話そう。鎌倉幕府の第5代執権時頼は、北条氏の始祖である平維将を先祖とする平家の一門だ。宗教心の厚い名君だった。30歳だった康元元年(1256年)に病に倒れて執権職を辞し、出家して死去するまでの7年間、遊僧となって諸国を巡回した。時頼が、勝浦奴山にある縫殿神社に大般若経六百巻の写経を納めたとする江戸時代の古文書もあり、勝浦新原に立ち寄ったかもしれん。だが、時頼は、〈新原の百塔板碑〉銘文に彫られた〈文永十一年〉より12年前の弘長3年(1262年)に死んでいるから、年代が合わん。時頼の遺言で建てられたと主張する説もあるが、12年後では遅すぎて説得力はない。平家の落人が、隠れ住んだ勝浦奴山村に戦死者のため〈幾許(いくばく)の塔〉を建てたという文献もあり、これが〈新原の百塔板碑〉の起こりかもしれんな」
清 「そうね。では、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたという説はどうかいな」
琢二 「国学者で江戸時代後期の福岡藩士・青柳種信(あおやぎ・たねのぶ)は、文永年間にこの辺の海岸で蒙古兵が多く討ち取られたので、そのときの兵卒のために建てた供養塔であると、藩命で編纂した『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』に書いている」
清 「この説は、信用できると? 中国大陸を支配していた元が日本に侵攻してきた〈元寇〉は、1274年の〈文永の役〉と、1281年の〈弘安の役〉の2度あったよね」
琢二 「よく覚えていたな。文永の役に関する奴山地区に残る古文書には、文永11年(1274年)6月21日に〈蒙古が、筑前国在自潟に渡来。その兵三千三百余人なり。当地に上陸兵は、三千二百人。宗像大宮司長氏は、宗像、水巻(遠賀)、鞍手三郡の兵士を引率〉と書かれている。6月22日には〈在自潟にて合戦。敵兵二千二百余人を討つ。敵の負傷五百七十余人。敵の我が国に帰化する者四百三十人。我が軍戦死者三千五百余人〉とある。そして、6月23日には〈六時にわかに颱風吹き出し、賊船ことごとく海没し、賊兵の船中に居る者百人ことごとく海中に死す。この日晴天となり颱風静まる。我が軍の戦死者は奴山郷に埋葬す。『今の百塔是れなり』『賊の死体は在自遠干潟、海浜の地下六尺に埋む』〉と記録されている。
我が三郡の戦死した鎌倉武士が埋葬されたのは、この百塔だろう――とも思われたが、ここで重大な事実誤認がある。実は、〈文永の役〉は10月のことで、石塔に書かれた〈八月改立〉の時期と合わない。5月から7月にあった〈弘安の役〉なら時期が合うが、いずれにしても奴山地区に残る古文書は信用性を失う。ただ、多くの頭蓋骨が出たという百塔近くにある通称〈海浜墓地〉が蒙古兵の埋葬場所ではないかと見る余地もあるかもしれん。だから、厳密にはモンゴル人が葬られたのは〈新原の百塔板碑〉付近であるかもというべきかな。もっとも、蒙古兵の中には服属してモンゴル人に率いられた高麗人や漢人なども含まれていたようだ」
清 「昔のことは、はっきりせんね。それから、〈新原の百塔板碑〉で残っている14基のうち8基が福岡県有形文化財に指定されとるけど、今では石塔の数は〈百塔〉ないね」
琢二 「昔はもっと多くあったらしく、江戸時代に福岡藩の鷹取周成が編纂した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』には二百塔と記されとる。以前は、少なくとも〈百塔〉はあったのだろう。今は、石塔の周囲は草が生え、木立に覆われて、昔の面影はない」
写真③:木立に覆われた古墳「新原・奴山21号墳」の上にある〈新原の百塔板碑〉
=福津市津屋崎勝浦新原で、06年12月1日午前10時34分撮影
福津市の〈新原の百塔板碑〉位置図
〈新原の百塔板碑〉(福津市津屋崎勝浦新原):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線「津屋崎」駅下車、西鉄バスに乗って「津屋崎駅前」から8分の「奴山口」で下車し、徒歩10分。米・麦乾燥施設の「宗像農協カントリーエレベーター」前の国道495号線東側にある〔車で〕九州自動車道古賀インターから同国道経由で約30分。
津屋崎は渡地区に多くの石工がいて、
「宮地嶽神社」をはじめ、各地の鳥居、石垣などを造った歴史があります。
佐藤様をはじめ「史迹と美術研究同巧会」の皆様の史迹と美術研究に敬意を表します。