吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2012年4月2日/〈貝寄せの浜・「貝寄せ館」物語〉003・津屋崎の貝がら展

2012-04-02 10:22:14 | 「貝寄せ館」物語

  

写真①:「〝貝寄せの浜〟・津屋崎の貝がら展」を観覧する家族連れのお客様

    =福津市津屋崎3丁目の「貝寄せ館」で、2012年4月1日撮影

 貝寄せの浜・「貝寄せ館」物語 3

 「〝貝寄せの浜〟・津屋崎の貝がら展」

  「海とまちなみの会」事務所・「貝寄せ館」の3月25日の開館記念展示として、4月30日まで五つの展覧コーナーを入館者にご覧いただいています。

 五つの展示は、「〝貝寄せの浜〟・津屋崎の貝がら展」=写真①=と▽江戸時代から明治にかけての地図や、製塩風景、「津屋崎塩田」の塩田の遺構の写真、昭和初期の町並み復元地図を展示した「〈津屋崎千軒〉懐古・パネル展」▽明治41年に渡半島の曽根の鼻に「活洲場」を開設して津屋崎の活性化に協力した〝筑豊の炭鉱王〟・「伊藤伝右衛門ゆかりの写真展」▽明治41年から昭和初期まで福間ー津屋崎間を走った「津屋崎馬車鉄道の路線図と写真展」▽福津市津屋崎3丁目の梶原康弘さんが「恋の浦」の海水を汲んで行う製塩法紹介のパネル展です。

 このうち目玉の展示にしている「〝貝寄せの浜〟・津屋崎の貝がら展」は、津屋崎浜=写真②=が、〝貝寄せの浜〟とも呼ばれ、西風が玄界灘から吹く冬から春先にかけ多くの貝が寄せられることから、「海とまちなみの会」事務所名を「貝寄せ館」と名付けたのにちなんで開催。

 

 写真②:〝貝寄せの浜〟とも呼ばれる津屋崎浜

     =2007年6月4日、「津屋崎海水浴場」で撮影

 この「〝貝寄せの浜〟・津屋崎の貝がら展」開催の経緯にまつわる物語は、212年前にさかのぼります。実は、江戸時代後期の寛政12年(1800年)、津屋崎浦を訪れた当時6歳の第10代福岡藩主・黒田斉清(なりきよ)公に、貝手頭(かいてがしら)の佐治徳左衛門が21種類の貝の絵図(佐治家文書)=写真③=を昼休みに献上したというエピソードがあったのです。

 斉清公は1歳で第10代福岡藩主となり、本草学や蘭学を好んだ殿様でした。文化文政期に江戸で、富山藩主前田利保公と博物学の会・「赭鞭会(しゃべんかい)」を結成、武士や医者とも自由な交際をした博物学者のような藩主だったという。

 

 写真③:貝手頭の佐治徳左衛門が第10代福岡藩主・黒田斉清公に献上した21種類の貝の絵図(佐治家文書 献上貝の図・松崎文書館蔵)

 佐治家は、初代佐治与助(さじ・よすけ)が近江国(おうみのくに=滋賀県)甲賀郡小佐治村の生まれで、関ヶ原の戦い(1600年)の時、黒田長政に仕え、勲功(手柄)がありました。筑前入国後、3百石で召抱えられるのを断り、代わりに津屋崎で自分だけに酒造の許可をいただくよう願い出ました。すぐには許可が下りず、与助の死後約30年後の江戸時代初期・寛永21年(1644年)、2代目佐治徳左衛門に許可され、「紅粉屋(べにや)」という屋号の酒屋になります。

 実際に酒造りを始めたのは、慶安4年(1651年)からで、明治の初めまで2百年以上も続けました。酒造りのほか、精米業の経営や漁業に出資したり、明治時代の初めまで営業しました。「産子(うぶこ)養育」といった福祉の面でも、私財を提供しましたが、庄屋などの政治的な役職は一切していない典型的な近江商人。伊能忠敬が九州路宗像郡内を歩いて測量した江戸時代後期・文化9年(1812年)7月には28日、29日と「佐治徳左衛門」屋敷に2泊しました。『津屋崎町史 通史編』には、「天保6年佐治徳左衛門夫婦像」=写真④=が掲載されています。

 

 写真④:「天保6年佐治徳左衛門夫婦像」(『津屋崎町史 通史編』掲載)

  「貝寄せ館」では、福津市津屋崎4丁目の大賀孝男さん(80)・康子さん(70)夫妻が、佐治徳左衛門から斉清公への献上貝21種と同じ貝を津屋崎の浜で採集した標本=写真⑤=を展示しています。

 

写真⑤:大賀孝男さん・康子さん夫妻が津屋崎の浜で採集した21種の献上貝標本

    =「貝寄せ館」で、2012年3月23日撮影

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