人は・・大まかにいえば・・肉体、こころ、魂の複合である。
メカニズム的に表現すれば、構造体・ボディー、プログラム、設計者。
あるいは、肉体・精神・霊の複合体だ。
それら3つは、次元が異なるが故に、
また、人は多次元的・存在複合体とも言える。
当然ながら、あらゆる存在形は、”波動”と解釈しても良い。
これは現代科学でもなじみになってきた観念だが、
波動には振動率、周波数という属性があるため、
その周波数の帯域というカテゴライズが出来るのだ。
もちろん便宜上、観念上の区分けに過ぎないが、
そういう振動率の異なる帯域のことを、多次元世界と言っていいだろう。
空(くう)が”在る”・・
誰も思いもつかない・・ことから原初の気付きが生まれた。
”気付くことで、波動で表す・・対象世界が現れた。
初めに・・言葉ありき・・想いの波・・である。
初めは今である・・・終わりも今である。
だから全てが変化する。
アルファであり、オメガである・・と言う意味だ。
今が・・それだ。
様々な波動の組み合わせの、多次元世界は、
それはどこにあるのか?と言えば、今ここに在る。
空(くう)の中に在る。
「え、どこどこ?」
今見えなくて当たり前だ、それは無限の充満であるからだ。
何でも描ける・・無限の包容・受容・愛・至福でありながら、
思い描かなければ何も現れない・・・それ、
われわれの周囲、内部、すべてを貫き、
またそれ自体は観ることが出来ない・・空(くう)。
そこに様々な物語を描き出すのがマインド、想念だ。
空(くう)とも、根源とも、神、真我ともなずけられる・・それ、
絶対に知覚不可能、想像不可能なそれ、
しかしそれが無ければ、光もエネルギー場も生じない。
例えるならば、いや全くの例えではないのだが・・、
いまあなたは、空(くう)の中のある周波数帯域のなかの、
ある動画のなかに入っていると言えようか。
その中でも、
なかなか・・不自由でゆがんだ動画世界を、苦々しくマトリクスと呼んでいる。
見る聞く感じるという、実にリアルで、
無限に細かい感覚解像度を伴う、バーチャルなリアリティ世界だ。
さらに、今この世界には、
それに気づいている少数と、全く気付かない多数がいると言えよう。
あなたは多数派が好きだろうか?笑)
外側からの探求者、多分まっとうな科学者は、少数派であろう。
また内側からの真理探求者も、つねに少数派であった。
物語の中の肉体に自己同一化している・・ことに
大なり小なり・・”気づいている”魂と、
あらぬ想念に仕込まれて、
自己を肉体そのものであると”信じ込んでいる”魂があるということだ。
あなたは世間に、今それを見ているかもしれない。
そう、この世界も信念体系世界なのだが、
つねに信念体系は、観察と気づきで破られるのだ。
気づきが深くなるにしたがって、つまり意識進化するにしたがって、
さまざまな階層の幻想マトリクスが破られてゆく。
そういう魂のゲームだ、・・ともいえよう。
この世界は、かなり濃密なマトリクスであったわけだ。
私たちは、まだ少しもがいているかもしれないが(笑)。
動画、活動写真、これは古い言葉だが、
動画を活動空間、時空間といえば身近に感じられるかもしれない。
あなたのまわりにある様々な動き、物質形、人々、
そして宇宙もその活動空間のなかの動きである。
あなたの身体も、その中の動く物である。
そう、動物というのはあながち間違いではない(笑)
肉体は確かに、時空間内で動く物である。
普通の映画は2次元平面での活動時空間であり、
例えその物語に感情移入し、思わず涙しても、マジに恐れても、
すぐにも<わたし>と<その世界>を区別できるのだが、
われわれの世界は3次元空間であり、そこで活動する肉体は、
3次元空間内の活動物そのものであるがゆえに、逃げも隠れも出来ない。
あなたは、その中にいる「動物」だと”信じ込んでいる”からだ。
その中に”魂”が”自己同一化”をしているとうこと。
魂であるわたし・・、本来は・・あらゆるものを観察すべき者、
いや、本来全てに気づいている普遍なる<わたし>に、
ある種の興味、想念が起き、
その想いの流れと共鳴する場へと、
物語が流れているその時空内へと、
”自己を投入”するのだ。
わたしは、それ・・、である、自己実現。
何かになりたい、成ろう、と言う強烈な欲望。
怖れも、利得期待もない、好奇心とも言える。
神の、自己を知ろうとする行為でもある。
この世界に来た魂たちは、
地球の生態系、人間の生命形態のなかの深いところから入って来た。
赤子の肉体として、生命の核から成長するプロセスを通り、
そうしてやがて母体から、この次元世界に生まれ出てくる。
「おぎゃー!」
まるで映画、物語への感情移入をするように、
「わたしは・・それである!」という想念によって、
様々な物語世界に入ってゆく。
I am that・・I am.
神の自己創造である。
創造者であるがゆえにこそ、味わい多きこの世界の、
人間という存在へと自己同一化出来るのだ。
それが、不変の気づき、無限の意識のなせる業、自己同一化・・、
人である物語への参入、この世での生誕でもある。
あなたもわたしたちも、実にはるか遠くにきたものなのだ。
心底、気づいただろうか?
もし放蕩を旨とする・・マインドがそれを理解すれば、
いまはもう、少なくとも、
放浪の旅に出た放蕩息子が、
ようやく帰還する道にたどり着いたということだ。
空(くう)が”在る”・・
誰も思いもつかない・・ことから原初の気付きが生まれた。
”気付くことで、波動で表す・・対象世界が現れた。
初めに・・言葉ありき・・想いの波・・である。
初めは今である・・・終わりも今である。
だから全てが変化する。
アルファであり、オメガである・・と言う意味だ。
今が・・それだ。
メカニズム的に表現すれば、構造体・ボディー、プログラム、設計者。
あるいは、肉体・精神・霊の複合体だ。
それら3つは、次元が異なるが故に、
また、人は多次元的・存在複合体とも言える。
当然ながら、あらゆる存在形は、”波動”と解釈しても良い。
これは現代科学でもなじみになってきた観念だが、
波動には振動率、周波数という属性があるため、
その周波数の帯域というカテゴライズが出来るのだ。
もちろん便宜上、観念上の区分けに過ぎないが、
そういう振動率の異なる帯域のことを、多次元世界と言っていいだろう。
空(くう)が”在る”・・
誰も思いもつかない・・ことから原初の気付きが生まれた。
”気付くことで、波動で表す・・対象世界が現れた。
初めに・・言葉ありき・・想いの波・・である。
初めは今である・・・終わりも今である。
だから全てが変化する。
アルファであり、オメガである・・と言う意味だ。
今が・・それだ。
様々な波動の組み合わせの、多次元世界は、
それはどこにあるのか?と言えば、今ここに在る。
空(くう)の中に在る。
「え、どこどこ?」
今見えなくて当たり前だ、それは無限の充満であるからだ。
何でも描ける・・無限の包容・受容・愛・至福でありながら、
思い描かなければ何も現れない・・・それ、
われわれの周囲、内部、すべてを貫き、
またそれ自体は観ることが出来ない・・空(くう)。
そこに様々な物語を描き出すのがマインド、想念だ。
空(くう)とも、根源とも、神、真我ともなずけられる・・それ、
絶対に知覚不可能、想像不可能なそれ、
しかしそれが無ければ、光もエネルギー場も生じない。
例えるならば、いや全くの例えではないのだが・・、
いまあなたは、空(くう)の中のある周波数帯域のなかの、
ある動画のなかに入っていると言えようか。
その中でも、
なかなか・・不自由でゆがんだ動画世界を、苦々しくマトリクスと呼んでいる。
見る聞く感じるという、実にリアルで、
無限に細かい感覚解像度を伴う、バーチャルなリアリティ世界だ。
さらに、今この世界には、
それに気づいている少数と、全く気付かない多数がいると言えよう。
あなたは多数派が好きだろうか?笑)
外側からの探求者、多分まっとうな科学者は、少数派であろう。
また内側からの真理探求者も、つねに少数派であった。
物語の中の肉体に自己同一化している・・ことに
大なり小なり・・”気づいている”魂と、
あらぬ想念に仕込まれて、
自己を肉体そのものであると”信じ込んでいる”魂があるということだ。
あなたは世間に、今それを見ているかもしれない。
そう、この世界も信念体系世界なのだが、
つねに信念体系は、観察と気づきで破られるのだ。
気づきが深くなるにしたがって、つまり意識進化するにしたがって、
さまざまな階層の幻想マトリクスが破られてゆく。
そういう魂のゲームだ、・・ともいえよう。
この世界は、かなり濃密なマトリクスであったわけだ。
私たちは、まだ少しもがいているかもしれないが(笑)。
動画、活動写真、これは古い言葉だが、
動画を活動空間、時空間といえば身近に感じられるかもしれない。
あなたのまわりにある様々な動き、物質形、人々、
そして宇宙もその活動空間のなかの動きである。
あなたの身体も、その中の動く物である。
そう、動物というのはあながち間違いではない(笑)
肉体は確かに、時空間内で動く物である。
普通の映画は2次元平面での活動時空間であり、
例えその物語に感情移入し、思わず涙しても、マジに恐れても、
すぐにも<わたし>と<その世界>を区別できるのだが、
われわれの世界は3次元空間であり、そこで活動する肉体は、
3次元空間内の活動物そのものであるがゆえに、逃げも隠れも出来ない。
あなたは、その中にいる「動物」だと”信じ込んでいる”からだ。
その中に”魂”が”自己同一化”をしているとうこと。
魂であるわたし・・、本来は・・あらゆるものを観察すべき者、
いや、本来全てに気づいている普遍なる<わたし>に、
ある種の興味、想念が起き、
その想いの流れと共鳴する場へと、
物語が流れているその時空内へと、
”自己を投入”するのだ。
わたしは、それ・・、である、自己実現。
何かになりたい、成ろう、と言う強烈な欲望。
怖れも、利得期待もない、好奇心とも言える。
神の、自己を知ろうとする行為でもある。
この世界に来た魂たちは、
地球の生態系、人間の生命形態のなかの深いところから入って来た。
赤子の肉体として、生命の核から成長するプロセスを通り、
そうしてやがて母体から、この次元世界に生まれ出てくる。
「おぎゃー!」
まるで映画、物語への感情移入をするように、
「わたしは・・それである!」という想念によって、
様々な物語世界に入ってゆく。
I am that・・I am.
神の自己創造である。
創造者であるがゆえにこそ、味わい多きこの世界の、
人間という存在へと自己同一化出来るのだ。
それが、不変の気づき、無限の意識のなせる業、自己同一化・・、
人である物語への参入、この世での生誕でもある。
あなたもわたしたちも、実にはるか遠くにきたものなのだ。
心底、気づいただろうか?
もし放蕩を旨とする・・マインドがそれを理解すれば、
いまはもう、少なくとも、
放浪の旅に出た放蕩息子が、
ようやく帰還する道にたどり着いたということだ。
空(くう)が”在る”・・
誰も思いもつかない・・ことから原初の気付きが生まれた。
”気付くことで、波動で表す・・対象世界が現れた。
初めに・・言葉ありき・・想いの波・・である。
初めは今である・・・終わりも今である。
だから全てが変化する。
アルファであり、オメガである・・と言う意味だ。
今が・・それだ。