わたしとは何か?
真に、自分自身に問いかけてみることが重要だ。
文字を目で追うだけでなく、言葉に出して、
そして改めて、想念の中で真剣に・・、
自分とは何だろうか?と問いかけることだ。
・・・
「わたし・・・とは何か?」
・・・
すぐにその問いかけの答えはないはずだ。
しかしながら、ここで言えるのは、
「わたしとは何か?」という問いかけの意味は、
魂にとって極めて重大であるということだ。
普段の自分と考えている自己イメージそのものに疑いをかけ、
まことの自分?という新たな自己イメージを模索していることを示すのだ。
理解可能だろうか?
即効の結果ばかりを求めて、すべてを金勘定にしてしまう、
物欲、生存欲だけに縛り付けるマトリクス思考では、
「わたしとは何か?」という問いかけそのものが、
まったく価値のないものに思われ、あなたのマインドに、かすりもしないであろう。
・・
「わたしとは何か?」
わかっているはずの・・わたし・・をあえて質問のテーマにする、
それ自体が、十重二十重に張られた唯物的マトリクスを破る原動力なのだ。
わたしとは・・・”あれ”だ、”これ”だ、
私は女だ男だ、生年月日は、年齢は、履歴は、趣味は・・・、
身長は、体重は・・・・etc、
それらは、私という個人の肉体と、思考の経歴である。
いやいやいろいろ経験しました、人生ずいぶんありました・・、
様々なそれらは・・単に「記憶」・・である。
今回魂に追加された、想念の束・・である。
生まれてからの時間軸に沿って体験した一連の知覚・思考・感情の「記憶」が、
肉体自我という”イメージ、姿”を描いているのである。
したがって、私が・・私が・・・、という<私>は
肉体の属性とその肉体を伴った諸経験と、
それに対する思考、感情の集積記憶であるということだ。
・・・
この検索プロセスは、
普通考えている<自分のイメージ>とは何か?を示すものだ。
なので、
何らかのマインド、思考、想念にはまっていない限り、
このような見地からの観察行為も、以外とはいえ、
素直なマインド上の思考過程では理解可能であろう。
「わたしとは何か?」という問い、(何それ?笑)
学校でも社会でも、TVでも国会でも、どこかの大統領でも、
どんなお偉いさんでも、どんな学者でも、宇宙開発でも・・、
全然問わない・・
この方向に、いわば・・次元の壁の扉がある。
いや、本質においては、
本来は無い次元の壁や扉、それもマインドの創造物だ。
すべてはマインド、こころの創造物ということだ。
マインドの幻想物語、
可笑しく、面白く、怖い怖い夢のような物語。
いやそれは確かに、詳細で実にリアルに見える物語である。
踊って、騒いで、騙して、掠め取って、戦って、殺して、
涙流して、喜んで、苦痛に顔をゆがめて、心痛めて、・・
延々と繰り返す、・・・いや繰り返してきた、
そう、決して投影された夢の世界、外の世界ではなく、
意識の中にこそ、
そういうこの次元世界の、いや次元体験映画の、
その退出と入場のための、自在な・・仮の<扉>があるのだ。
(ドラえもんのどこでもドアか?笑)
もともと、
普遍的な意識である<わたし>・・の中にすべての知覚対象が含まれる、
すべての知覚対象とは・・・世界、宇宙のことだ。
わたし・・が・・わたしの全宇宙の中心であり、根源である。
それは決して、探察対象である・・私個人、肉体個人ではない。
それらすべてを意識するもの、気づくものだ・・。
今すでに・・そうである・・ことに気づいていないだけだ。
ここに・・次元の層、壁があるともいえよう。
あなたが見ている世界は、宇宙は・・・
あなたの意識の対象物の総合したものであろう?
実はあなたという意識は、その知覚する宇宙を含んでいるからこそ、
いまここに世界や、宇宙が現前しているように観察されるのだ。
・・・
意識の投影像である、世界、宇宙全体を観ているにもかかわらず、
その像の中の肉体を・・わたしだと・・勝手に決め込んで、
その小さな身体を、宇宙という壮大な知覚イメージの中に畳み込み、
自分自身を大勢の集団の中の1小片部分に基準化して議論する、
お遊びを行っていたということだ。
それは自らが作り上げている像のなかへの自己投入という創造だ。
意識は・・・今すでに、
可能な範囲、あらゆる世界・宇宙・事象を知覚認識している。
肉体は・・・わたしそのものではなく、言わばその次元観察の窓なのだ。
あなたは窓の形を・・自分と思っていた。
その肉体・窓から見ているものは・・誰だろう?
もちろん肉体そのものではない・・・。
では、「わたしとは何か?」頭で情報検索ではなく、
ハートで、つまり内面を感じつつ、問うてみようか。
真に、自分自身に問いかけてみることが重要だ。
文字を目で追うだけでなく、言葉に出して、
そして改めて、想念の中で真剣に・・、
自分とは何だろうか?と問いかけることだ。
・・・
「わたし・・・とは何か?」
・・・
すぐにその問いかけの答えはないはずだ。
しかしながら、ここで言えるのは、
「わたしとは何か?」という問いかけの意味は、
魂にとって極めて重大であるということだ。
普段の自分と考えている自己イメージそのものに疑いをかけ、
まことの自分?という新たな自己イメージを模索していることを示すのだ。
理解可能だろうか?
即効の結果ばかりを求めて、すべてを金勘定にしてしまう、
物欲、生存欲だけに縛り付けるマトリクス思考では、
「わたしとは何か?」という問いかけそのものが、
まったく価値のないものに思われ、あなたのマインドに、かすりもしないであろう。
・・
「わたしとは何か?」
わかっているはずの・・わたし・・をあえて質問のテーマにする、
それ自体が、十重二十重に張られた唯物的マトリクスを破る原動力なのだ。
わたしとは・・・”あれ”だ、”これ”だ、
私は女だ男だ、生年月日は、年齢は、履歴は、趣味は・・・、
身長は、体重は・・・・etc、
それらは、私という個人の肉体と、思考の経歴である。
いやいやいろいろ経験しました、人生ずいぶんありました・・、
様々なそれらは・・単に「記憶」・・である。
今回魂に追加された、想念の束・・である。
生まれてからの時間軸に沿って体験した一連の知覚・思考・感情の「記憶」が、
肉体自我という”イメージ、姿”を描いているのである。
したがって、私が・・私が・・・、という<私>は
肉体の属性とその肉体を伴った諸経験と、
それに対する思考、感情の集積記憶であるということだ。
・・・
この検索プロセスは、
普通考えている<自分のイメージ>とは何か?を示すものだ。
なので、
何らかのマインド、思考、想念にはまっていない限り、
このような見地からの観察行為も、以外とはいえ、
素直なマインド上の思考過程では理解可能であろう。
「わたしとは何か?」という問い、(何それ?笑)
学校でも社会でも、TVでも国会でも、どこかの大統領でも、
どんなお偉いさんでも、どんな学者でも、宇宙開発でも・・、
全然問わない・・
この方向に、いわば・・次元の壁の扉がある。
いや、本質においては、
本来は無い次元の壁や扉、それもマインドの創造物だ。
すべてはマインド、こころの創造物ということだ。
マインドの幻想物語、
可笑しく、面白く、怖い怖い夢のような物語。
いやそれは確かに、詳細で実にリアルに見える物語である。
踊って、騒いで、騙して、掠め取って、戦って、殺して、
涙流して、喜んで、苦痛に顔をゆがめて、心痛めて、・・
延々と繰り返す、・・・いや繰り返してきた、
そう、決して投影された夢の世界、外の世界ではなく、
意識の中にこそ、
そういうこの次元世界の、いや次元体験映画の、
その退出と入場のための、自在な・・仮の<扉>があるのだ。
(ドラえもんのどこでもドアか?笑)
もともと、
普遍的な意識である<わたし>・・の中にすべての知覚対象が含まれる、
すべての知覚対象とは・・・世界、宇宙のことだ。
わたし・・が・・わたしの全宇宙の中心であり、根源である。
それは決して、探察対象である・・私個人、肉体個人ではない。
それらすべてを意識するもの、気づくものだ・・。
今すでに・・そうである・・ことに気づいていないだけだ。
ここに・・次元の層、壁があるともいえよう。
あなたが見ている世界は、宇宙は・・・
あなたの意識の対象物の総合したものであろう?
実はあなたという意識は、その知覚する宇宙を含んでいるからこそ、
いまここに世界や、宇宙が現前しているように観察されるのだ。
・・・
意識の投影像である、世界、宇宙全体を観ているにもかかわらず、
その像の中の肉体を・・わたしだと・・勝手に決め込んで、
その小さな身体を、宇宙という壮大な知覚イメージの中に畳み込み、
自分自身を大勢の集団の中の1小片部分に基準化して議論する、
お遊びを行っていたということだ。
それは自らが作り上げている像のなかへの自己投入という創造だ。
意識は・・・今すでに、
可能な範囲、あらゆる世界・宇宙・事象を知覚認識している。
肉体は・・・わたしそのものではなく、言わばその次元観察の窓なのだ。
あなたは窓の形を・・自分と思っていた。
その肉体・窓から見ているものは・・誰だろう?
もちろん肉体そのものではない・・・。
では、「わたしとは何か?」頭で情報検索ではなく、
ハートで、つまり内面を感じつつ、問うてみようか。