わしたちの世界のすべての根本にあるのは何か?
それは文字通り、それぞれ・・「わたし」・・である。
わたしがなければ、私が見る世界もない。
・・
いやいや、そんなことはないよ、何変なこと言ってんの、
世界の中に私たちは生まれてきたじゃない、
世界が先にあって、大勢の人がいて、その中に・・・
わたしはある時、ある所に生まれてきたんですよ・・!
わたしがいなくても、世界はあるんだよ、馬鹿なこと言うな!、
・・と大方はそう思うだろう。
世界があって、地球があって、日本があって、
わたしはある時、どこどこに生まれてきた。
そう・・、
これが事実だと、絶対的にそう思うものだが、それは全く違うのである。
・・・
いや、全く違うというよりも、それは観点の違いといってもいい。
観点は、一般に”考え方”の違いと言われているが、
確かに、簡単に言えば考え方の違い・・であると言っていい。
えー、どういう意味だろう?
観点の違い・・、
これならば、異次元やらなんやらという、
不明確な物差しを持ち込むことはない。
今在ることを、しかと観る事、先入観にとらわれず、
あらゆる方面から熟考することで、
今・・在る・・わたし・・の奇跡的な事実も窺い知れるだろう。
・・・
わたしが、生まれてきた・・という”私”とは、”身体”のことである。
私の”身体”が生まれてきたと、親や周囲の人が体験して、見て、言ったことだ。
たしかにそうだ、・・・しかしながら、
そのとき、当のその人・・<わたし>はいただろうか?
そう、いま、あなたが”わたしとして自覚している”その・・<わたし>だ。
その時にいたか?といえば、わたしは「まだいなかった」と言うだろう。
全く記憶がないとも言える。
・・
赤ん坊が体内から出てきて、いきなり「わたしだ!」とは言わない(笑)
あなたは、生まれてすぐ「おいらはおいらだ!」とは、・・言わなかったろう。
これは別に、大それた異見ではなく、当たり前の常識なのである。
つまり、身体はその時、その場所で生まれたが、
・・その時には、<わたし意識>の存在は・・は認められなかった。
自己認識の主体であるところの・・「わたし」はいなかった。
なので、わたしという”意識する者”は、後で生じたとなるのだ。
身体から・・・わたし意識が生じたと・・
有機生体物質や身体組織や、頭脳が成長して、
ようやくわたしが芽生えた・・と、
時間経過では、物質が先だ、意識はその後だという・・
常識的かつ先天的な観点となっているのである。
私もかつてそう思っていた。
あなたもそうではなかろうか?
西洋の偉い学者ダーウインが
人間は猿の進化したものだと提唱したとか、、
あるいはアリストテレスの、人間は社会的動物だとか、
そういう話も、まことしやかに聞こえるわけである。
・・・
身体組織、頭脳が、周囲の環境経験をしつつ、
2-4年程度の月日で、次第に自己認識をするまでに成長する、
そして、いつか<わたしという自意識>が芽生えると
いっているということである。
この観点でいえば、意識は・・後で生まれるということになる。
肉体という物質形の中に・⇒・意識が生じる・・ということだ。
常識的でかつ理知的な人は、それはそうだと思うだろう。
そして、わたしという意識、また精神は・・物質から生じるという話にもなる。
なにせ先に生命物質形態が生じて、後で精神、意識的働きが生じるからである。
これが今までの、世間一般の常識的な見解となっているのである。
世界が先にあって、わたしは・・そこに生まれた小さき身体、
知能はあるが、宇宙、世界の中の微小な生物であり、
死んだら終わりの一時的な生命である・・という話になる。
そうではないか?
(つづく)
それは文字通り、それぞれ・・「わたし」・・である。
わたしがなければ、私が見る世界もない。
・・
いやいや、そんなことはないよ、何変なこと言ってんの、
世界の中に私たちは生まれてきたじゃない、
世界が先にあって、大勢の人がいて、その中に・・・
わたしはある時、ある所に生まれてきたんですよ・・!
わたしがいなくても、世界はあるんだよ、馬鹿なこと言うな!、
・・と大方はそう思うだろう。
世界があって、地球があって、日本があって、
わたしはある時、どこどこに生まれてきた。
そう・・、
これが事実だと、絶対的にそう思うものだが、それは全く違うのである。
・・・
いや、全く違うというよりも、それは観点の違いといってもいい。
観点は、一般に”考え方”の違いと言われているが、
確かに、簡単に言えば考え方の違い・・であると言っていい。
えー、どういう意味だろう?
観点の違い・・、
これならば、異次元やらなんやらという、
不明確な物差しを持ち込むことはない。
今在ることを、しかと観る事、先入観にとらわれず、
あらゆる方面から熟考することで、
今・・在る・・わたし・・の奇跡的な事実も窺い知れるだろう。
・・・
わたしが、生まれてきた・・という”私”とは、”身体”のことである。
私の”身体”が生まれてきたと、親や周囲の人が体験して、見て、言ったことだ。
たしかにそうだ、・・・しかしながら、
そのとき、当のその人・・<わたし>はいただろうか?
そう、いま、あなたが”わたしとして自覚している”その・・<わたし>だ。
その時にいたか?といえば、わたしは「まだいなかった」と言うだろう。
全く記憶がないとも言える。
・・
赤ん坊が体内から出てきて、いきなり「わたしだ!」とは言わない(笑)
あなたは、生まれてすぐ「おいらはおいらだ!」とは、・・言わなかったろう。
これは別に、大それた異見ではなく、当たり前の常識なのである。
つまり、身体はその時、その場所で生まれたが、
・・その時には、<わたし意識>の存在は・・は認められなかった。
自己認識の主体であるところの・・「わたし」はいなかった。
なので、わたしという”意識する者”は、後で生じたとなるのだ。
身体から・・・わたし意識が生じたと・・
有機生体物質や身体組織や、頭脳が成長して、
ようやくわたしが芽生えた・・と、
時間経過では、物質が先だ、意識はその後だという・・
常識的かつ先天的な観点となっているのである。
私もかつてそう思っていた。
あなたもそうではなかろうか?
西洋の偉い学者ダーウインが
人間は猿の進化したものだと提唱したとか、、
あるいはアリストテレスの、人間は社会的動物だとか、
そういう話も、まことしやかに聞こえるわけである。
・・・
身体組織、頭脳が、周囲の環境経験をしつつ、
2-4年程度の月日で、次第に自己認識をするまでに成長する、
そして、いつか<わたしという自意識>が芽生えると
いっているということである。
この観点でいえば、意識は・・後で生まれるということになる。
肉体という物質形の中に・⇒・意識が生じる・・ということだ。
常識的でかつ理知的な人は、それはそうだと思うだろう。
そして、わたしという意識、また精神は・・物質から生じるという話にもなる。
なにせ先に生命物質形態が生じて、後で精神、意識的働きが生じるからである。
これが今までの、世間一般の常識的な見解となっているのである。
世界が先にあって、わたしは・・そこに生まれた小さき身体、
知能はあるが、宇宙、世界の中の微小な生物であり、
死んだら終わりの一時的な生命である・・という話になる。
そうではないか?
(つづく)