気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識次元を上げる ①ベータ波を解消しよう

2013-12-11 08:32:14 | 意識の拡大

人の意識にはレベルがある。

 

レベルとは、高い低いという範疇の感覚もあるが、その意識レベルを上げるとは、

 

より高い見識から物事を観察、経験することが出来る状態への移行とも言えるだろう。

 

それが最も受け入れやすい、言わば常識的な観点からの表現であるとも言えるかもしれない。

 

しかしながら、意識のレベルが上がる、あるいは高い見地から物事を見るという事は、単なる考え方や観点の違いだけではなく、

 

体験そのものの本質的な味わいの増大というか、得られる経験知というか、言わばそういうものが深く大きくなることを言うのである。 

 

「あなたはそういう考えね。私はそうは思わない」・・・とか、そういうレベルの話ではない。

 

また、競争社会に適応した、自称「頭の良い」人とか、自称「頭の悪い人」とかのレベルの違いではない。

 

それに自称・知力の優れた人というのは、意味のない複雑なものばかりを作り上げてしまい、霊的成長にはあまり役には立たず、逆に往々にして障りとなる場合が多いのである。 

 

今の世の中を見ればよくわかるだろう。 言わば政治・経済なども昨今はベータ波だらけだ。 

 

笑いごとではないのだが、そのうちβ崩壊?を起こすのが見えているではないか。(笑)

 

・・・・・

 

意識レベルとは、魂としての表現、体験、知覚レベルの深さ、広さのことであり、 

 

思想や信条の違いなどという単なる観念カテゴリーのレベルではないのだ。 

 

魂としての表現、体験、知覚レベル、意識レベルが深化、拡大することは、『宇宙意識』というレベルへの大道を勇気凛々と進むということに他ならない。

 

意識レベル、 

 

それを現代人が比較的容易に理解する1つの切り口は、人間の脳波であろう 

 

頭脳周辺の電気的微振動を検知すれば、色々な「意識状態」によってその波形や振動数が変わることはずいぶん前から知られている。 

 

脳波には、主にベータ波アルファ波シータ波デルタ波という、記録される電気振動の違いがあることが分っている。

 

日常の乱雑で忙しげな活動で生じる脳波は、「ベータ波」で分類され、

 

創造活動中や、安心してリラックスした意識状態での脳波が「アルファ波」とされている。

 

また半覚醒、瞑想での拡大された意識状態では、「シータ波」という脳波が支配的になり、

 

人の完全な睡眠中は脳波は「デルタ波」となる。 

 

レム睡眠(浅い眠り)、ノンレム睡眠(深い眠り)での交互に起きる睡眠中の脳波は、シータ波~デルタ波の間であり、夢見は主にシータ波である。  

 

 

要は、 

 

 

 

あなたもわたし達も、毎日こういう脳波でも表現される、異なった「意識状態」を通過しているのだ。  

 

人は皆、気付く気づかないにかかわらず、毎日異なった意識レベルを体験しているということ。

 

 

灯台元暗し・・ではないか。 

 

 

自己観察、黙想、瞑想などの内面的な・・・、意識レベルの遷移を行う者は、この微妙で確実な「意識レベル」の違いを内部感覚的に理解することが出来る。 

 

 

そう、自己感想、内観、瞑想などは、脳波が異なるフェーズに、意識的に自らを遷移させる古代からの「技術」なのである。 

 

知っていただろうか。

 

 

瞑想、黙想、こころの静謐、内観というものは人の成長にとって必須な意識的行為なのである。 

 

 

これに気付かない人々は、黙想や瞑想のように、眼を瞑るか半眼で端坐している姿を見て、 

 

 

「あやつは、何をしているのか?」  

 

「いや、何もしないで・・・、何をやっているのか?・・え・・」  

 

「あんな非生産的なことで何が得られるのか?」  

 

・・・・等と訝(いぶか)しむものだが、そういう人は、常に緊張や、五感刺激、肉体感覚、知的概念の組み合わせに奔走するだけの世界、言わばベータ波的世界に埋没しているということが出来るだろう。   

 

こまごまと、忙しくしていること、あーだこーだ・・・という喧噪のなかで自らの正当化に終始しているようである。  

  

それこそは、カゴメの中の鳥のようなものだ。  

 

ニワトリのような飛べない鳥、あるいは海の中に沈潜したままで洋上の明るさを知らない魚、あるいは現象のマトリクス平面に自らを織り込んで、身動きの取れない人型アップリケのようなものかもしれない。   

 

嗚呼、でも、それはもうやめようか。 

 

・・・・

 

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五感の刺激や、特殊な思考や問題意識から注意を外し、

 

ただ黙って静かに黙想することだけで、まず人の脳波はアルファ波に移行するのである。 

 

無心の境地とかにこだわらなくても良く、いや出来るだけ何にもこだわりなく、そこに在ることが出来れば良いのだ。 

 

アルファ波では、リラックス、静穏、インスピレーション、発想等を体験しやすくなるのである。

 

これに馴れれば、普段の生活もベータ波的なものから、自然アルファ波的なものに次第に移行することになる。

 

 

この大きなシフトに関しては、すでにお分かりのことだろう。 

 

・・・・

脳波で言えばベータ波は現実生活の最中に発生する脳波であるとされているが、

 

これは意識活動、思索、感情、という精神活動が、極めてランダムで、乱雑この上ないことを意味している。

 

神経質、恐怖や怒り、騙しや嘘なども、こういう落ち着きのない意識状態で起きていることに気付かなばならない。 

 

例えば人間関係に緊張やコダワリがある場合には、脳波はこういうベータ波である。 

 

慌てていたり、争いやバトル、怖れや極端な感情の噴出なども、このベータ波の時のものなのだ。  

 

また、こういう意識状態は脳波以外にも、身体感覚での知覚、モニターが可能である。 

 

例えば、何かに特に悩んでいる時には胃が重くなったり、恋焦がれている時には胸が熱くなったり、何かのショックで驚くときには背中あたりがぞ~っとする感覚が生じたりするのは誰でも知っているはずである。 

 

これは、人間の精神活動が身体全体に影響を与えていることを示している。 

 

全くの無意識ではあっても、身体全体は人間の意識活動に伴う様々な信号を発生させているのである。 

 

そのモニターの1つが脳波ということになる。 

 

すなわち、粗いベータ波的な精神状態が続けば、その緊張やストレスでいわゆる病気にもなるということである。 

 

 

身体は意識的な働きによって生じる電気化学的な反応によって影響を受け続けるがゆえに、健康であるか、あるいは病気や疾患にもなるわけだ。

 

そういう、こころの働きによって、直接的な病にもなるし、ウイルスや細菌のような外来的な要因による生体化学的な擾乱を呼び寄せるような、体験形態パターンを創るのである。

 

病は気からとは、けだし至言ではないか。

 

 

体は体であると同時に、意識活動の元にある「魂」の乗り物であるということ。 

 

体は魂の意図によって、どんな車種にもなるし、どこにでも進んでゆく車のようなものである。

 

でこぼこ道を進んで気分が悪くなるのも、快適な道を進んで爽快さを経験するのも、エンストして補給、修理不能状態で立ち往生するのも、  

 

ドライバーの整備と運転技量次第であるのと同じようなものなのだ。  

 

 

またさらに大きく言えば、どんな車種や機能を有する車体を選択するかも、意識レベルの進化拡大の大道を歩くところの、魂の選択によるものである。

 

 

そうやって、今・・我々は・・・ここに在るのである。

 

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惟神(かんながら)の道

2013-12-08 09:33:04 | 意識の拡大

宗教的な表現とも言える「神」とは、どこかにある、いつか顕れるようなものではない。

 

ましてや天の住まいのどこかに微笑んでいる高貴な存在というのでもない。

 

人を罰したり、評価したり、選別したり、あるいは褒めあげてくれるようなものでもない。 

 

「神」・・・それを言うならば、法則のようなものである。

 

 

法則とはあらゆるもの、あらゆるところ、あらゆる時点で、そこに在る仕組み、あるいは例外のない実在とでも言うしかないものである。

 

将来のいつか、ではなく、過去にあった・・でもなく、常に<今>在るものである。

 

いつでも、どこでも、そこらへん全て、こちらにも、向こうにも・・在るものである。

 

 

それは常在の事実とも真理とでも言うべきものであり、

 

それに気づくか気づかないか・・・その違いだけのことである。

 

その気付きの進化、深化、と拡大のプロセスのことを「魂の進化」・「意識の進化」と呼んでいるのである。 

 

いつでも、どこでも、そこらへん全て、こちらにも、向こうにも・・在るもの・・・それを創造主、神というならば、

 

全ての被造物は・・・間違いなく・・惟神(かんながら)の道にいるということになるだろう。 

 

 

我々はもう、小難しい観念の組み合わされた藪の中から這い出す時期である。

 

さまざまな観念、概念という積み木をこねまわし、知的水準が高いとか低いとか、そういう頭脳の上滑り遊びから抜け出さなければならないのである。

 

 

人生、生きてあるということは、どんどん獲得してゆくということではなく、

 

 

 

すなわち・・・余計なものをどんどん外してゆくプロセスにいるということでもある。 

 

 

 

人の作る観念世界での価値観や判断など、それこそ無数に生じるものを、

 

 

 

どれかが正しいとか優れているとか、当たっているとか外れているとか、騒いで荒れて憤るような遊び、

 

そういう上滑りの頭脳遊びは卒業しなければならない時期なのである。

 

・・・

 

常在する法則、

 

そう、

 

常に<今>あるのは、何であろうか。

 

・・・・

 

常に<今>あるのは何だろう?

 

・・・

 

人にとって確実に言えることは、それを普通に言うならば、

 

それぞれのあなたの<今>のことである。

 

今・・・わたし・・と自覚している意識とでも言おうか、

 

あなたの世界の常に中心にあるもの、

 

常に視界の元にあるもの、

 

身体感覚の元にあるもの、

 

想いを発する元にあるもの、

 

感情の生じる・・そのもとにあるもの、・・・・

 

それは<あなた>という自意識、わたしは生きてある・・・という、

 

自己への根源的気付きということが出来る。

 

 

「われ・・在り」

 

それなくして、あなたの世界はない・・それ・・である。

 

そういう<あなた>自体に、人はどれほど気付いていることだろう。

 

なるほど当たり前すぎて観えやしない・・、見えるのは外の世界の様々なざわめきではなかろうか。

 

常時気にすること、意識することは、自我存続の鎧であるエゴから見える世界かも知れない。 

 

 

どれが儲けになるか、どれが自己存続に有利なのか、何が危なくて、何が安全なのか・・?

 

どうしてあの人は解らないのか? どうして私に親切ではないのか? どうして好いてくれないのか?

 

なぜ政治家はおバカなことばかりをやるのだろうか?

 

そういう外にある対象物ではなく、・・・それを観ている、

 

そのすべての想いや感情、あるいは行為の可能な・・・・元にある<わたし>自身、

 

意識の中心点たる<わたし>に・・どれだけ気付いて・・観ていることだろうか。

 

 

 

そんな原点よりも、よくよく見えるのは外の世界のざわめきではないだろうか。

 

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円を描けるのは、中心点があるからだということは誰でも知っているだろう。

 

周囲、外の世界があると感じているのは、内なる起点、中心点たる自己があるからだ。

 

そう、単純すぎて見逃してきた点・・・それぞれにある<わたし意識>・・

 

それこそは神の顕現、表現としての宇宙創造の中心という事もできる。

 

 

 

無限大の円、無限宇宙には・・・・・中心は無数にあるのである。

 

あなたという意識・・・もその1つの・・宇宙の中心なのだ! 

 

また人間の、自己に気付いている意識・・・自意識の深さ大きさこそが、鉱物、植物、動物との違いである。 

 

そう、存在しているものはすべからく「意識」がある。

 

「意識」があるからこそ存在形態としての創造表現が出てくるのだ。

 

 

物質形態、そしてあらゆる存在形態は、その「意識」の顕現変化の結果であり、

 

あらゆる被造物は、意識の波動、端的に表現すれば、光の多次元的に投影される影でとも言えるだろう。 

 

 

山 川 草 木、 国 土 悉 皆 成 仏   とはそういう意味である。 

 

被造物、存在諸形態が投影された影とは言えども、その投影は白黒の影絵のようなものではなく、

 

様々な色、波長、振動率によって、まるで万華鏡のごとく多彩に投影されている。 

 

宇宙とは、そういう様々な波動によって生成され、表現され、常に変化しながら、

 

その変化によって必然的に生じるところの、

 

意識の進化、拡大を行なっているのである。

 

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熱力学では、物質的なものは全てエントロピーの増大に帰す、すなわち無秩序化の方向にあるとされている。

 

現れ出たもの、顕現された事物は、次第に風化し、その存在を無に帰してゆくという意味もあるのだが、

 

それは当たり前のことであり、しかしながら、なにも全てが結局は崩壊してゆく定めにあるという事ではない。

 

外の世界に多次元的に表現されるもの・・すなわち創造は、

 

常に変化しつづけ、それ、顕れ出でた創造物、個体、固体、形態、フィールドなども、

 

常に生成・崩壊の変容のプロセスにあるということである。

 

意識の介在する割合が低くなった単なる物質は、放っておけばその存在形態は崩壊し、空に還元するのも当たり前のことである。

 

例えば、あなたの興味が失せた事象はどんどん遠ざかってゆくだろう。

 

空(くう)より現れた諸物、諸現象は、その表現を全うすれば再び空(くう)に帰すのだ。

 

色即是空、空即是色、盛者必滅、会者定離である。

 

 

出ては消え、消えては出てくるのが現象世界の常であり、

 

その生成、消滅は偶然にハプニング的に起きているわけではなく、

 

その背後にある、その因にある「意識」こそが、そのプロセスを制御しているのである。

自らを物質的自己観から見ている限り、結局は全てが無に帰すものだという観念に閉じ込められることになり、

 

せめて少しだけでもその物質的自己崩壊を先延ばしすべく、取りあえずの刹那的な行為、物・銭・金・地位などを追いまわすことになるのである。

 

 

 

そういう人生を送る段階の者は、一時の栄華に有頂天となり、ある時は失意のどん底に落ち込むことになることを未だ知らない若い魂たちであろうか。

 

 

 

確かにこの世界は、そういう魂の学びが可能な世界であったのだ。

 

 

 

しかしながら、その世界自体も進化・拡大の道にあるからには、いつまでたっても同じ繰り返しは出来ない相談なのである。

 

 

 

そして、そうちょうど<今>がその時なのだ。

 

  

 

人間社会の様々な急激な動き、葛藤やバトル、自己正当化、秘密主義などは、一気にそれを経験するための駆け込み需要のようなものである。

 

 

 

しかしながら、

 

 

 

どうしても・・・というけれど、どうあっても・・という想いがあるけれども、あともう少しだけ・・・というけれども、

 

 

 

それは「執着」というものではなかろうか。

 

 

 

この世界での最後に外すべきものは、何あろう・・その執着なのである。

 

 

 

物的執着、肉体への執着、肉親への執着、民族、国家形態への執着、地位や価値観への執着、それらは一見「愛」に見えるけれども「愛」ではなく、

 

 

 

どこか形を変えたエゴ、肉体自己への執着の派生観念でしかないのである。

 

執着だらけで組んず解れつ、固まり合って葛藤とせめぎ合いの中で生きる人類の在り方はすでに終わりを告げているのである。

 

 

 

そう、

 

執着を外して生きる・・・そういう新たな時代が既に来ているのである。 

 

自我の殻というか、肉体自我への執着というか、そういう重い観念の鎧では本質たる魂の身動きが取れにくいことを悟る時期にあるということだ。 

 

 

いわゆる物質的世界、3次元的世界とは、

 

 

 

宇宙創造の背後にある「意識」と「意図」、あるいは想念という因に気付かないレベルでの表現世界と言って良いだろう。

 

 

 

精神より物が大事であり、こころより肉体が大切であり、信頼より金が重要な世界でもある。 

 

 

 

同朋たる他人など関係なく自分だけが、自分の周囲だけが大切な世界である。

 

 

 

これが今までのこの世界、そしてそれが行き着くところまで行った、今までの物質レベルの世界ということだ。

 

逆に、

 

 

 

それぞれの宇宙の中心点から観える世界、その中心たる創造の原点から観える世界は、

 

 

 

全てが<わたし>の投影であると知っている世界である。

 

 

 

とはいえ、

 

どれが良いとか、悪いとか、あれは自分の考えとは、責任とは違う・・・そんな判断や評価を含めてしまうと、何が何だかわからなくなるだろう。 

 

 

 

価値観や判断を介さずに、世界を観ていること、 

 

 

 

ただ在るがまま・・・なのである。 

 

 

 

在るがまま・・とは、自堕落で何もしない、いい加減なことでは毛頭なく、 

 

 

 

最も困難で最も狭い、意識の進化の道の先に広大に開けるもの。 

 

 

 

全ての全ては、・・ひとつの・・・言わば、神の無数の自己表現であること。 

 

 

 

そう、 

 

 

 

我々が歩いているのは、いつもどこでも、惟神(かんながら)の道なのだ。

 

 

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現在・過去・未来

2013-12-01 11:39:17 | 地球の一大変容

「過去」とは<今>という瞬間の変化の「記憶」でしかない。 

 

それ以外の何物でもない。

 

誰にも、皆、常に<今>が実在するのみである。 

 

過去は「記憶」であり、未来は「記憶となり得る・・無限の可能性」なのだ。 

 

これは誰も皆、十分実感すべき、当たり前の事実である。

 

 

 

数分前のことも、数日前のことも、数十年前のことも、 

 

そして生まれる前のことも、また他の時代、他の世界、あるいは他の次元宇宙世界のことも、 

 

今、ここ・・この今・・・記憶にあるとも言えるだろう。 

 

例え狭い表面意識が、常に何かにカカズラワって注意を外されていたとしても、

 

それはそれ、いわゆる潜在意識が記憶しているのだ。  

 

あなたやわたし達の意識は、無限に拡大しつつあるということ。 

 

それを池に落ちる水しぶきで判然と悟る者もいるだろう。

 

 

 

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過去も、現在もそして未来も・・・、 

 

それらは全て・・・今在る・・・ものである。

 

これは誰も皆、十分実感すべき、当たり前の事実である。

 

 

 

これに気付くと、当然ながらそういう過去:記憶も、<現在>に少しづつ蘇ってくるようになる。 

 

あの時代に<われ在り>、あの世界に<われ在り>、あの宇宙に<われ在り>は、 

 

変な話、当たり前の記憶として少しづつ浮上してくるのである。 

 

ただその可能性の追求、魂・意識の自然な方向、ベクトルを感知しなければならず、 

 

 

 

すなわち、小さく局限された観念を打ち破り、無限の景色を見上げる意図が必要なのである。 

 

自らの意識に起動を駆ける、すなわち自らで目覚める必要があり、そうでなければ、

 

この今は・・・あなたという自由な鳥を幽閉するカゴメの籠に終始するかも知れない。 

 

これは良し悪し、結果オーライや失敗、喜びや嘆きなどという範疇のものでもない。

  

なぜなら、 

 

そしてそれに・・・籠の中の鳥は、自らの幽閉、それ自体にすら、気付かないからなのである。

 

 

 

・・・ 

 

ちょっと思考実験をやってみよう。  

 

頭が痛くなるかもしれないが、

 

何か直観が生じればしめたものである。

 

 

・・・ 

今  生きてあるこの瞬間 

 

ふと気付けばだれでも分るように、それを敢えて言葉で言えば、 

 

今の「瞬間」とは、無限に続く瞬間・・・零(ぜろ)点の連続のことであると言えようか。 

 

この ”無限の零点” 、瞬間・・という意味が、現象世界に浸っている、騒がしく忙しいだけの「意識」には理解が出来ない。 

 

 

 

その、有るようで無いような・・・瞬間の時「点」とはなにか? 

 

頭では、わかった様でわからないもので、要は最期までビジュアル化できないわけだ。 

 

ちがうだろうか。

 

 

 

例えば、有るようで無いような・・瞬間の「点」を簡単な数式で表わせば、 

 

零(0) ≒ 1/∞(無限大)  

 

ということにでもなるだろうか。 ∞は誰でも級数で習ったことがあるだろう。 

 

 

 

これを変化させれば 零(0) × ∞(無限) ≒ 1 ということになる。 

 

無 × 無限 ≒ 1 ということ? ・・・なんだこれ、といっても実際の数学である。  

 

限りなく 1 とは、 零(0)の無限数で出来ている、という意味になる。 

 

 

 

一体全体どういうことかわからなくなるかもしれない。 

 

0が無限にあったら1になる? 一体なに? どうして?  であるが、 

 

また、 ∞(無限)・・・って言うけど無限といえば、

 

「どこまで行ったら果てがあるの?」 みたいな感覚もあるはずである。 

 

ゼロも無限も・・・扱ってはいるが、正直、「よくわかんね~~!」 という事なのだ。

 

 

 

 

「ゼロ」は、箱の中に1個もない空っぽ状態等というイメージで、なんとなくわかる気がするが・・・・  

 

「無限」って・・・どこまで無限なのか、・・・?また、そういう問い自体も変である。

 

マジ、意味不明・・・・でしかない。 

 

要は、人はそれをビジュアル化できないのだ。 

 

また、最終イメージに到達できないともいえるだろう。

 

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これは宇宙の向こうに、何処まで行ったら果てがあるのか?という、孫悟空や天文学者の問いと同義である。 

 

しかしながら、 

 

だから、「無限」なのである。  お分かりだろうか? 

 

つまり・・・・わからないのである!(大笑) 

 

 

 

またこれは、 

 

我々のありきたりの、現在・・・今は、 普通にこまごまとしている生活、泣いたり笑ったり、怒ったり、批判したりしているこの今の時点は、

 

極みない・・・・局限されない、無限が・・・ベースにあるということである。 

 

そして、その無限は最終的にビジュアル化、イメージ化が出来ないということだ。 

 

だから無限(かぎりなし)なのだ・・・。

 

 

  

 

要は、頭では、論理では、思考ではいつも常に「限度」があるということである。 

 

 

 

無 × 無限 ≒ 1 

 

 

 

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これを直観的に解釈すれば、「色即是空、空即是色」を意味しているだろう。  

 

色(しき)とは、現れ出たもの、事象現象を意味し、  

 

空(くう)とはなんでも生まれる無限の意識という母体である。  

 

 

無×無限 ≒ 1 

 

空即是色、色即是空、

 

 空(くう)は すなわち 色(いろ)なり、色(いろ)は すなわち 空(くう)なり

 

 

 

一即多、多即一

  ひとつはすなわち無量なり、無量はすなわちひとつなり

 

 

このわかった様でわからない言葉にはまた、

 

  

< 何も無いところに次々と光を持ち来たらせよ! >  

 

< 自らを無限に生み出し、極み無き創造に参加せよ! >

 

 

そういう原初の意図が・・・聞こえないだろうか。

 

 

 

今のこの瞬間、今のあなたやわたし、全てのものは、常に、  

 

今、この・・・瞬間・・・に創造されているということだ。 

 

今までも、これからも、そうである。

 

 

そう、生と死も単なる変化でしかない。

 

 

140億年前の過去、宇宙が創造された・・・わけではなく、 

 

また50億年前に地球が創造された・・・わけではなく、 

 

進化、変化を生み出しつつ、今、この瞬間に創造され・・・ているのである。 

 

 

得難い数々の記憶は、体験、経験の学びの成果であり、決して不変の過去の時間のことではない。 

 

そう・・・、宇宙創造は過去でなく、いま、常にこの瞬間に・・・行われているのである。  

 

人間のイメージする過去とは、気付く、気づかないにかかわらず、ぞの創造の実りたわわな、毎瞬毎瞬の魂・意識の収穫のことなのだ。 

 

 

 

言わば、過去時間など、何処にも存在しない、影法師なのである。  

 

過去にこだわる者は、苦悩や誤解を懐かしみ、 

 

未来にこだわる者は、今を嫌っているのかもしれない。 

 

 

未来も、過去も、今この瞬間に在る!  

 

従って多くの人々が、今この瞬間というリアリティーに気付ける意識レベルに到達するならば、   

 

過去も、未来も・・・今現在・・・観ることが出来るようにもなるのだ。 

 

 

これは抽象的でわかったような観念論ではなく、より広い意味での科学的な体系なのである。 

 

自らを解き放つ・・鍵は・・・今・・この時、この瞬間にある。

 

 

嗚呼、朋よ・・・そうではないか?

 

 

  

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