気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あなたは何か?という問いかけは誰がしている?

2013-12-16 07:34:20 | 意識の拡大

この地球上には今は70億人以上の人間がいる。 

 

言い換えるならば、70億以上の<わたし>達がいると言えようか。  

 

魂の体験のための駆け込み需要としても、実にすごい数だ。 

 

 

その、それぞれが皆、自分を自分と・・・認識しているわけである。 

 

それぞれが皆、自分は自分であり、他人は他人であると無条件に思っているということである。 

 

「バ~カ、そんなこと当たり前だろう」・・ということかも知れない。 

 

至極当たり前すぎて、話題にするのもはばかられることかもしれない。 

 

しかしいつも灯台元暗し、あるいは放蕩息子状態が多いもので、

 

肝心な点を度外視して、外の世界の中で動き回り、考えまくり、実際のところ何が何だか分ったような、わからないような、そんな経験知で終わらせてしまうことも多いのではなかろうか。 

 

外が忙しいからといっては、貴重な人生を少しづつ「経済消費」?してしまうことは、誰が誰にも、また何の言い訳にもなりはしないことになる。 

 

誰かが悪いからと言って、社会が良くないからといって、その証拠集めに奔走するだけに終わるのも、本質的には面白くもなんともないことだと思わないだろうか。 

 

他人のことは非常によく観えるが、自分のことはサッパリ、からっきしということは良くある話ではないか。

 

 

ところで、あなたはいったい何なのか? 

 

それぞれの・・・わたしとは何か? 

 

それって、もっとも追究すべきテーマではないのだろうか。 

 

それとも、そんなことは既に「知っている」のだろうか? 

 

 

思想、信条、男女、年齢、履歴、身長、体重・・・・そんなものは、本当の<わたし>ではない。

  

 

それらはテンポラリな私の属性ということが出来るが、言わば一過性なものである。 

 

・・・・

  

人は皆、俺が俺が、私が私が・・・ということで、他とは違う独自の<自分>を認識している。 

 

それが嵩じて、その独自の<自分>同士がいがみ合い、闘い合うこともある。 

 

大概において西洋的な文明・文化では、生き残るためには、俺が!、俺が!・・・・である。 

 

確かにこの地上で、人間だけがこういう<自我認識>を強く持っているわけで、それが知能のせいだというのがデカルト以降の考え方であろうか。 

 

要は、人間と、植物や動物との違いは、そのとびぬけた「知的能力」にあるとしているわけだ。 

 

確かに「私は、我が家の犬さんよりは頭が良いし、ネコさんよりも知恵がある」ということが言えるのだが、 

 

しかしながら、その知的能力、思考力、記憶力だけでは、例えば進歩したコンピュータの比ではないのも事実であろう。 それではコンピュータにかないっこない。 

 

だがしかし、コンピュータは人間たりえない。 

 

単なる情報処理だけでは、自己が自己であると、主体的に認識することは出来ないのである。  

 

機械に「魂」は吹き込めない・・そういう話である。 

 

右から左に情報が流されてゆくだけで、いったい何がそこに生まれるというのだろうか。 

 

分子や原子が集合・離散を繰り返すだけで、いったい何がそこに生まれるのだろうか。 

 

 

人間の着目すべき点は、演算処理、記憶能力のような、情報、記号や概念をいかに早くこなすかという知的能力のことではなく、 

 

自分が自分である・・・我あり・・・という『自己認識』なのである。 

 

つまり、わたしが⇒わたしであるということを知っている、 

 

 

あなたが⇒あなたであるということを「知っている」という意識的な働きのことである。

 

つまり自分を知る・・という意識である。

 

 

自己認識は知的能力によって生じるとされる所以は、この「知る」、「認識する」ことにあるわけだ。 

 

要は、自分が自分であることを・・・知る・・・という働きである。 

 

 

その「知る」とは、単に情報がインプットされる・・・量が増えるということではなく、それらの働き、動き自体を「観察している」あるいは「知っている」という総合的な認識のことである。  

 

 

それを例えるならば、映画を見ているということではなく、映画を見ている・・・こと自体を・・・観ていることである。 

 

 

夢を見ているだけではなく、その夢を見ている自分自身・・・に気付いている・・ということである。 

 

これを言うならば、わたしを観ているところの・・・高次の<わたし>という視座があるという事も出来るだろう。 

 

 

 

それは、もう1人の客観視が得意な自分がいるなどという平面的な意味ではなく、

 

今の自我、自己を・・・含むところのより大きな自己・・・の視座があるということだ。

 

端的に言えば、そういう視座とは、自分をも観察対象にするところの・・・より大きな自分・・とでも言えるだろう。 

 

 

よく言われるハイアーセルフとは、そういう視座にある自己とも言えるだろう。 

 

 

それは前世等、あなたのことを、あなたより知っているより拡大した<あなた>である。 

 

 

さらに言えば、今の人生に自己投入しているわたしを含む、より大きな<わたし>という意味でもある。 

 

 

 

だからなんでもアドバイスできるし、過去生や前世のことも知っているわけなのだ。

 

それはあなたの本質、魂と言ってもいいだろうか。 

 

あなたが今気づかない方向、後ろの正面、だーれ・・・なのだ。 

 

そう、

 

あっと驚く!為五郎(ちと古い)ではないのだが、

 

 

あなたを観ている者とは・・・・<あなた>以外にないだろう。  

 

 

より大きな<わたし>を簡単にイメージするならば、個々のクライアントPC(私)に接続している大型サーバー(ハイアーセルフ)のようなものだ。

 

それがさらに大きなシステムの中に含まれるところの拡大されたシステム、そんな感じだろうか。   

 

瞬時にデータのやり取り可能な大型システムのようなものであり、データから言えば、どれが自分でどれが自分ではないとは言えない。  

 

 

それを言うならば、全ては、さらにより大きな<わたし>というシステム内にある、無数の「私」のネットワークのようなものである。

 

 

もっとも、世間相場で言えば、自分とは個々のコンピュータであるぐらいにしか感じていないわけである。 

 

それをスタンド・アローンという。   

 

何処とも切り離されて、自分ひとりで立っていると<仮に>認識しているわけだ。 

 

・・・・ 

 

森羅万象のなかで、自己が自己であることを認識していることは、とてつもなく神秘的な事であると思わないだろうか。 

 

 

そう、神・・・秘・・・である。  

 

 

それは言わば神にとっての楽しい秘密遊び、かくれんぼ遊びかもしれない。  

 

 

自分が隠れて、自分で発見して行くようなそんな遊びである。  

 

 

わたしは・・・嗚呼、なんだ・・・それも、わたしであったのだ、 

 

どこにでも、・・・我在り・・・・・、 

 

 

自己認識を有するまでに拡大した意識、それぞれの<わたし>は、その途方もない遊びを理解することが出来る存在なのである。  

 

 

今、この地の人々は・・・、俺だ、俺だの自我に固まっている殻を破り、エゴの古巣から抜け出して、  

 

 

より大きな<わたし>を発見してゆく、意識の進化ベクトルへと大きな転換をしている最中なのだ。   

 

 

あなたを観ているところの、あなたであるハイアーセルフは、そう言っている気がしないか。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


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