宗教的な表現とも言える「神」とは、どこかにある、いつか顕れるようなものではない。
ましてや天の住まいのどこかに微笑んでいる高貴な存在というのでもない。
人を罰したり、評価したり、選別したり、あるいは褒めあげてくれるようなものでもない。
「神」・・・それを言うならば、法則のようなものである。
法則とはあらゆるもの、あらゆるところ、あらゆる時点で、そこに在る仕組み、あるいは例外のない実在とでも言うしかないものである。
将来のいつか、ではなく、過去にあった・・でもなく、常に<今>在るものである。
いつでも、どこでも、そこらへん全て、こちらにも、向こうにも・・在るものである。
それは常在の事実とも真理とでも言うべきものであり、
それに気づくか気づかないか・・・その違いだけのことである。
その気付きの進化、深化、と拡大のプロセスのことを「魂の進化」・「意識の進化」と呼んでいるのである。
いつでも、どこでも、そこらへん全て、こちらにも、向こうにも・・在るもの・・・それを創造主、神というならば、
全ての被造物は・・・間違いなく・・惟神(かんながら)の道にいるということになるだろう。
我々はもう、小難しい観念の組み合わされた藪の中から這い出す時期である。
さまざまな観念、概念という積み木をこねまわし、知的水準が高いとか低いとか、そういう頭脳の上滑り遊びから抜け出さなければならないのである。
人生、生きてあるということは、どんどん獲得してゆくということではなく、
すなわち・・・余計なものをどんどん外してゆくプロセスにいるということでもある。
人の作る観念世界での価値観や判断など、それこそ無数に生じるものを、
どれかが正しいとか優れているとか、当たっているとか外れているとか、騒いで荒れて憤るような遊び、
そういう上滑りの頭脳遊びは卒業しなければならない時期なのである。
・・・
常在する法則、
そう、
常に<今>あるのは、何であろうか。
・・・・
常に<今>あるのは何だろう?
・・・
人にとって確実に言えることは、それを普通に言うならば、
それぞれのあなたの<今>のことである。
今・・・わたし・・と自覚している意識とでも言おうか、
あなたの世界の常に中心にあるもの、
常に視界の元にあるもの、
身体感覚の元にあるもの、
想いを発する元にあるもの、
感情の生じる・・そのもとにあるもの、・・・・
それは<あなた>という自意識、わたしは生きてある・・・という、
自己への根源的気付きということが出来る。
「われ・・在り」
それなくして、あなたの世界はない・・それ・・である。
そういう<あなた>自体に、人はどれほど気付いていることだろう。
なるほど当たり前すぎて観えやしない・・、見えるのは外の世界の様々なざわめきではなかろうか。
常時気にすること、意識することは、自我存続の鎧であるエゴから見える世界かも知れない。
どれが儲けになるか、どれが自己存続に有利なのか、何が危なくて、何が安全なのか・・?
どうしてあの人は解らないのか? どうして私に親切ではないのか? どうして好いてくれないのか?
なぜ政治家はおバカなことばかりをやるのだろうか?
そういう外にある対象物ではなく、・・・それを観ている、
そのすべての想いや感情、あるいは行為の可能な・・・・元にある<わたし>自身、
意識の中心点たる<わたし>に・・どれだけ気付いて・・観ていることだろうか。
そんな原点よりも、よくよく見えるのは外の世界のざわめきではないだろうか。
円を描けるのは、中心点があるからだということは誰でも知っているだろう。
周囲、外の世界があると感じているのは、内なる起点、中心点たる自己があるからだ。
そう、単純すぎて見逃してきた点・・・それぞれにある<わたし意識>・・
それこそは神の顕現、表現としての宇宙創造の中心という事もできる。
無限大の円、無限宇宙には・・・・・中心は無数にあるのである。
あなたという意識・・・もその1つの・・宇宙の中心なのだ!
また人間の、自己に気付いている意識・・・自意識の深さ大きさこそが、鉱物、植物、動物との違いである。
そう、存在しているものはすべからく「意識」がある。
「意識」があるからこそ存在形態としての創造表現が出てくるのだ。
物質形態、そしてあらゆる存在形態は、その「意識」の顕現変化の結果であり、
あらゆる被造物は、意識の波動、端的に表現すれば、光の多次元的に投影される影でとも言えるだろう。
山 川 草 木、 国 土 悉 皆 成 仏 とはそういう意味である。
被造物、存在諸形態が投影された影とは言えども、その投影は白黒の影絵のようなものではなく、
様々な色、波長、振動率によって、まるで万華鏡のごとく多彩に投影されている。
宇宙とは、そういう様々な波動によって生成され、表現され、常に変化しながら、
その変化によって必然的に生じるところの、
意識の進化、拡大を行なっているのである。
熱力学では、物質的なものは全てエントロピーの増大に帰す、すなわち無秩序化の方向にあるとされている。
現れ出たもの、顕現された事物は、次第に風化し、その存在を無に帰してゆくという意味もあるのだが、
それは当たり前のことであり、しかしながら、なにも全てが結局は崩壊してゆく定めにあるという事ではない。
外の世界に多次元的に表現されるもの・・すなわち創造は、
常に変化しつづけ、それ、顕れ出でた創造物、個体、固体、形態、フィールドなども、
常に生成・崩壊の変容のプロセスにあるということである。
意識の介在する割合が低くなった単なる物質は、放っておけばその存在形態は崩壊し、空に還元するのも当たり前のことである。
例えば、あなたの興味が失せた事象はどんどん遠ざかってゆくだろう。
空(くう)より現れた諸物、諸現象は、その表現を全うすれば再び空(くう)に帰すのだ。
色即是空、空即是色、盛者必滅、会者定離である。
出ては消え、消えては出てくるのが現象世界の常であり、
その生成、消滅は偶然にハプニング的に起きているわけではなく、
その背後にある、その因にある「意識」こそが、そのプロセスを制御しているのである。
自らを物質的自己観から見ている限り、結局は全てが無に帰すものだという観念に閉じ込められることになり、
せめて少しだけでもその物質的自己崩壊を先延ばしすべく、取りあえずの刹那的な行為、物・銭・金・地位などを追いまわすことになるのである。
そういう人生を送る段階の者は、一時の栄華に有頂天となり、ある時は失意のどん底に落ち込むことになることを未だ知らない若い魂たちであろうか。
確かにこの世界は、そういう魂の学びが可能な世界であったのだ。
しかしながら、その世界自体も進化・拡大の道にあるからには、いつまでたっても同じ繰り返しは出来ない相談なのである。
そして、そうちょうど<今>がその時なのだ。
人間社会の様々な急激な動き、葛藤やバトル、自己正当化、秘密主義などは、一気にそれを経験するための駆け込み需要のようなものである。
しかしながら、
どうしても・・・というけれど、どうあっても・・という想いがあるけれども、あともう少しだけ・・・というけれども、
それは「執着」というものではなかろうか。
この世界での最後に外すべきものは、何あろう・・その執着なのである。
物的執着、肉体への執着、肉親への執着、民族、国家形態への執着、地位や価値観への執着、それらは一見「愛」に見えるけれども「愛」ではなく、
どこか形を変えたエゴ、肉体自己への執着の派生観念でしかないのである。
執着だらけで組んず解れつ、固まり合って葛藤とせめぎ合いの中で生きる人類の在り方はすでに終わりを告げているのである。
そう、
執着を外して生きる・・・そういう新たな時代が既に来ているのである。
自我の殻というか、肉体自我への執着というか、そういう重い観念の鎧では本質たる魂の身動きが取れにくいことを悟る時期にあるということだ。
いわゆる物質的世界、3次元的世界とは、
宇宙創造の背後にある「意識」と「意図」、あるいは想念という因に気付かないレベルでの表現世界と言って良いだろう。
精神より物が大事であり、こころより肉体が大切であり、信頼より金が重要な世界でもある。
同朋たる他人など関係なく自分だけが、自分の周囲だけが大切な世界である。
これが今までのこの世界、そしてそれが行き着くところまで行った、今までの物質レベルの世界ということだ。
逆に、
それぞれの宇宙の中心点から観える世界、その中心たる創造の原点から観える世界は、
全てが<わたし>の投影であると知っている世界である。
とはいえ、
どれが良いとか、悪いとか、あれは自分の考えとは、責任とは違う・・・そんな判断や評価を含めてしまうと、何が何だかわからなくなるだろう。
価値観や判断を介さずに、世界を観ていること、
ただ在るがまま・・・なのである。
在るがまま・・とは、自堕落で何もしない、いい加減なことでは毛頭なく、
最も困難で最も狭い、意識の進化の道の先に広大に開けるもの。
全ての全ては、・・ひとつの・・・言わば、神の無数の自己表現であること。
そう、
我々が歩いているのは、いつもどこでも、惟神(かんながら)の道なのだ。