このブログを読んで頂いている多くの方々に、心より感謝申し上げます。
いつもながらの直感と下手な文章による肉付けですが、余興としてお読み頂ければこれ以上のことはありません。
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こころとはなんでしょうか?
多分、こころはわたし達の無二の親友ですかね。
自分のすぐそばにあるこころを、わたし達は見えていないのでしょうか?
物や他人、社会やお金、毎日それらに必死になって意識を込めるばかり。
自分以外を、ああだ、こうだと気遣う?のに、自分のこころはおざなりでしょうか?
生まれて以来、あるとき気付けば、自分に寄り添っていた自分のこころ、
どうでもいい、きらいな身内の奴ばらでしょうか?
こころを使って、外の世界を見ているのに、
親愛なる自分の内にある、こころを無視でしょうか?
自分がここにあるのも、こころのおかげです。
本音では、無視したい、闇のようなものでしょうか?
こころは世界の「光」と「影」を造ってくれる、現実世界の設計者ですが。
わたし達が造ってしまう影は、わたし達はやっぱり嫌いなのでしょうか?
こころがあってこそ、人間として在り得ることは、多分誰も否定はしません。
それでも、自分の心を、大切な存在として見てあげないのでしょうか?
多くの人が、それこそ沢山のペットを可愛がる世相でも、
不思議な事に、自分の心の働きには、気付かないどころか、ケアもしないようです。
こころが形として、目に見えないからでしょうか?
物事を客観対象として現象化する機能、形を表すことの出来る 「こころ」は、
どうしてケアもせず、看てあげていないのでしょうか?
あなたやわたしの無二の親友というよりも、皮膚より近い身近なこころなのですが。
それはひょっとして、いつも仕えてくれている保護者のようなものでしょうか?
おのがこころの言いなりになって、右や左にふれ続けるわたし達は、わたし達の心の本意ではありません。
こころは、自分を越えよと言っていると思えませんか?
自分の心を、自分でしっかりと見てあげることが、こころの本意であり、役目です。
しっかり見てあげるという行為が、愛であると思えるでしょうか?
愛は感情まかせに、無軌道に爆発することではありません。
しっかり認めてあげること、言葉を変えれば、観察し、理解してあげることが、
本来の、実践的な愛ということではないのでしょうか?
多くの人が求める愛の感情は、我々のこころ、マインドによるものでしょうから、
おのれの心をしっかりと認識して上げなければならないのでしょう。
自分自身を見ないで、何事も進歩などないとも思うわけです。
最も身近にある、我々のこころは、必ず越えるべき第一のハードルなのでしょう。
われわれは、いつの日にも、潔く堂々とした心であってしかるべきですね。
あの純粋な若い頃、学生時代には普通であった、
あの雄雄しい心を、いつもしっかりと掴んでいたいと思います。
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「旅立ちの日に」 作詞 小嶋 登
白い光りの中に 山なみは萌えて
懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味も無いいさかいに 泣いたあの時
心通った嬉しさに 抱き合った日よ
みんな過ぎたけれど 思いで強く抱いて
勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して
はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ 振り返ることもせず
勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して