気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

多層の身体(ボディ)

2008-07-12 11:40:43 | 宇宙的気付き

我々の親しんでいる「身体」についての1つの見解です。

身近な身体についても、出来るだけ大きい視座から見た枠組みや可能性を考慮しつつ、現れている現象の背後にある見えない未知なる意図を、既知にしてゆく事が本来の科学的思考であるとも思います。

●肉体の表面センサー

肉体・ボディほど身近なものはありません。視覚や聴覚、臭覚等の五感感覚は、全て己の身体と外界の接点である皮膚、表層面にあります。特に皮膚感覚はまさに皮膚表面上で感じると思っています。また他人の同じような身体機能を見れば、各自の存在境界は、明らかにこの身体の皮膚表面であると感じます。

これは身体の在り様を説明した常識的な見解でしょう。しかしながら、しっかりした物質感覚の中での、同じく物質的な在り様表している身体のことを言っているだけです。

●表面センサーの内側にいるのか

我々はその中にいるのでしょうか。五感のセンサーが感じるところに、わたし達は「居る」のでしょうか?このようなどこかに疑問符を伴ったような考えは、正当でないでしょうか?そんな馬鹿なこと・・と切って捨てることが出来るには、実は根拠が稀薄であるとも思われます。五感センサーが物量の表面で感じるから、本体である「わたし」はその中に居る、という考えが根拠が薄いかもしれないと言っているのです。

●肉体機械の中にいるという「観念」の中に居るわたし

「わたし」という存在を、どういう存在であるかと思いめぐらすこと、そのことが自分という境界を形作っているのではないかと思います。多くの人はそんなことまで考えた事がなく、「自分とは肉体である」と漠然と、しかも強固に感じているでしょう。しかし、地上には色々な人間がおり、体脱体験をしたり、臨死体験をしたという報告が非常に沢山出ています。今は「自分を肉体である」と漠然と信じ込んでいる観念体系に弾かれているようで、正式なアカデミックな世界では受け入れられていないようです。

それらの体脱体験は、明らかに自分の知覚作用が肉体の外に移行しているという感覚です。常識説明では、脳内の何らかの作用によるイメージ投影であると、漠然と丸め込まれているようですが、かなり論理が片手落ちのような気がします。わたしという存在が全て「脳」の中のニューロン発火作用であるという「思い込み」と考えられます。現れた現象を分析するしかない現在の科学というカテゴリーでは、それがせいぜいなのでしょう。

●出先機関たる身体

 例えば、TVカメラがある地方に設置されているとします。そのTVカメラは色々なセンサーを装備しており、そのおかげで、その設置場所の周囲のあらゆるところを見たり聞いたり出来るわけです。カメラが山に設置されていれば山の景色や動植物なども観察できるでしょう。しかしながら、それを観察しているあなたは、そのTVカメラの中にはいないのです。多分もっと遠くのスタジオ編集局などに居るのではないでしょうか。TVの画像が現れるのはその画面の表面ですが、本来の画像情報は遠く離れたTV局にあるのと同じです。そこにあるからその中に居る・という勘違いもありえるのが解るでしょうか。そこに意識を集中固定してしまっている場合は、あなたはあたかも山の中にぽつんと居るTVカメラ自体だと感じるかも知れませんが、そのカメラを通して観察している本当のあなたは別のところにいるわけです。わたしが肉体である・・と信じているのは、その先端にズームインしっ放しの意識形態を示しているに過ぎないでしょう。

●存在するもの=計量出来るもの:という観念体系

その根本には、物量として現れざるものは、計量しようもなく、またそれがゆえに実生活に価値のないものである、というプラグマティズム的論理があります。このような観念の中では、当然肉体が自分の全てであると思っていても誰にも非難などされないわけです。しかしながらそれらは「1つの観念」の中で通用するものであり、真実の追究とは似ても似つかないものでしょう。とりあえず、わかり易い「信念体系」の中で安住しているのです。誰も何も教えてくれないし、何も疑問視などしていない集合意識の大勢のなかで、しっかり埋没しているようです。

●真実のきらめきの出る時代

昨今のインターネットや書籍による情報の爆発的な拡大の中で、体脱体験や臨死体験などの報告が増えており、またモンロー研等のように誰にも可能な、再現性を持たせたシステム化による説得力の増大などが顕著になっています。実はわたしもそのような真摯なレポートや理論化に接して初めて理解が深まったわけです。まともな宗教で言われてきた事を追証する形にもなっていますが、やはり現代に生きておれば、実証のない宣言には疑問符がついて回るものです。

●睡眠中は無意識な変性意識への移行

現実の生活に意識が集中している間は、この眼に見える肉体が自分の基地・基盤に思えますが、睡眠中はその限りではありません。睡眠中は肉体には意識が集中していませんが、たまに記憶している断片を見れば、何がしかの活動をしています。現実体系との乖離があるぶんだけ、顕在意識では理解できない為、記憶として取り上げられないと考えられます。すなわち多くを忘れてしまいます。この夢の状態は無意識的な変性意識状態という事が出来るでしょう。

生身の肉体は意識されずに、活動しているわたし、という状態があるのは否定できません。どれだけ憶えているかの違いはあっても、生身の肉体のセンサーである五感を使った活動ではありません。

●体脱体験は意識的な変性意識への移行

体脱体験や幽体離脱などは、なにかのショックや病気の過渡現象中に、顕在意識が目覚めている状態で起きる場合があるようです。その場合は顕在意識が意識的な状態であるため、その体験が実にリアルなものとなるようです。睡眠という慣れた無意識的なプロセスを経ずして、あるとき否応無く、顕在意識が起きている状態での変性意識への移行とも言えるかもしれません。これらは、顕在意識と無意識、超意識との瞬間的な邂逅であるとも言えます。普段は肉体に意識を集中しているものが、急激に肉体意識から注意をそらさざるを得ない状態に追いやられたことによるイレギュラーな体験とも言えます。それは衝撃的なものになるはずです。

●体脱後の身体は周波数が異なる

多くの体脱、臨死体験では、その状態にあっても己の身体感覚があるというものです。時空に囚われずに、意識したところに瞬間に存在できる状態であるために、ことさら普段のような物量感も感じるわけもないのですが、確かに自分が存在しているという「個別感覚」があるようです。

体脱、臨死、死後体験では、意識のいわば異なる周波数帯へのジャンプ的な移行が行なわれるのですが、前の周波数帯(次元)の残照を維持している為に、慣れた生身の物質肉体と同じような形態・身体ゲシュタルトを伴っているようです。その別次元での存在生成方式では、主に記憶・思考・感情などの、総合された心的形態(ゲシュタルト)を身に着けるようです。この次元では時間空間の素量が、より意識的・軽い存在形態であるために、そのような意識→顕在化のプロセスを感じるのであろうと思います。

わたしは在る・という感覚が持続しているために、いわゆる個別存在としての「体」をもっているのは自然なことであるとも思われます。違った言葉で言えば、我々の存在することが出来る、周波数帯の違うどのような世界であっても、個別神としての在り様を維持しているといえるでしょう。

●多層の身体(世界)構成

色々な情報によれば、我々の存在界(存在周波数帯)、いわゆる地上から天界、究極存在までにはには7つの層があるとも言われています。それがどのようなものなのか、今の自分の顕在意識ではあからさまな知覚は得られないわけですが、多分そのようなものではないかと感じます。今ある3次元と言われるこの世界も、その中の1存在形態であるにすぎず、各々違った周波数帯の世界では、その世界の存在表現の在り様も格段に異なったものであることでしょう。我々の個別神としての存在形態、心・身体もそのありようが当然異なっているのは推測できます。しかしながら「わたしは在るという真実」こそは、その色々な存在形態の中で変らざるものです。

●個別のわたしから全体のわたしへの体現ルート

宗教的な言葉で言えば、我々とは、個別神として無限の中の1点から全体にまで意識を拡大することを体現しつつある「全体」であるともいえるでしょうか。あえてそのような一見不自由な存在から、より自由な存在への気付きの連続、進化というドラマを楽しんでいるわけです。われわれの肉体は、今ある世界を感じる為の大変に精巧にできた身体であり、実際は全体の自己たるものが、総合的名なプロセスを経て、しっかりと創造していることには思いが至らないかもしれません。大いなる自己の意図により創造された「身体」は、あえて小さき自己からの覚醒を演じ続ける者のためのオアシス・中継点であるとも言えないでしょうか。

  例えば曼荼羅などもそのような多層の進化の仕組みを象徴しているものでしょう。

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