気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生命の連続は自然なこと

2008-07-06 18:47:54 | 宇宙的気付き

●肉体は意識の創造物

 我々の肉体は精妙精緻に出来ていますね。何億という細胞で構成され、更にその細部の原子は途方もない数になっています。その1つ1つには「意識」なるものがあると言われています。本当でしょうか。これが本当であるからこそ今のわたし達の肉体がある、と言うのがその回答です。頭、手足、胴体、目、口、耳などの色々な器官はどうしてこのようにしっかりとその形態を保ち、機能しているのでしょうか。なぜ今あるのでしょうか。

 例えば、人間の行なう「設計」という行為を考えてみれば、このような人体を創り上げている原因に思いが行き当たりますね。原因があって結果があるというのは、下手な因果論を持ち出すまでも無く、普遍的な現象なのです。我々が工作などで竹を切って、削ってつくる竹とんぼ等も設計して作り出す行為なのですが、この我々の人体構成が創造、維持されていることから考えれば、あたかも宇宙そのものとその宇宙のチリの違いがあります。我々がいつも何気に扱っている肉体に、とんでもない英知を現した設計意図を感じないわけにはいきません。肉体は深遠なる設計意図のもとで、無限なる意識作用によって創造されている、いや創造され続けているといえるでしょう。それらを構成する素粒子、原子、分子、細胞はその設計意図に忠実に己を現しているわけであり、意識をもっている、あるいは意識の現れであるというのが真実です。DNAなどは太古の時代に、何処かの誰かがちょっとイジッタりしたかも知れませんが、もともとの悠久の生命進化の流れにそった微々たる行為といえます。

●意識とは

意識という言葉は深遠な「法則」を表しています。意識とは常に無限の可能性に思いを馳せ、その証拠である現象を存在化し、表現する「意識法則」とでも言えるでしょうか。我々人間レベルでは「意識する」などという場合には、何かに思いを集中するという場合が多いわけです。時間を意識する、ある人を意識する、ある時代を意識する、ある考えかたに意識的になる・・などです。同じように宇宙の創造原因は、全てを意識しているわけですね。

●五感感覚は意識作用の一部分

 意識とは、あらゆる存在に1つ1つ気付く行為とも言えるでしょう。たとえば、目で見る行為は意識作用が無ければ、ただ目を向けているだけの事であり、それに気付いていなければ決して見ているとはいえませんね。その気がないものは、事実見えていないのです。聞くことも同じように、それに気付いている状態、すなわち意識的な状態でないならば、決して聞こえていませんね。耳の鼓膜は空気の振動を伝えていても、それは当人には聞こえていないのです。考えにふけっている最中に、誰かに呼ばれても気がつかない経験などは誰しもしているでしょう。

 別の例では、修験者が裸足で真っ赤に燃えた石の上を歩こうと、決してやけどをしないことも同じです。この場合は火を決して感じないという「積極的な意識作用」があるため、身体細胞ですら、そのとおりの現象を現します。普通ならば火傷をするはずなのですが、火傷をしない不思議は、この「積極的な意識作用」によるそのとおりの現象化なのです。

 五感感覚は人体細胞のセンサーによって起こるものですが、その細胞自体が根源的な意識作用を現していながら、人間の心という、指揮者的な意識作用に従っているわけです。当人の気付きや信念に応じて、健康や豊かさ、人格の進歩などとして現れてきます。そのような細胞意識は原子レベルでの根源意識を統合した意識であり、さらにそれらを統合しているのが人間の個体意識なのです。その個体意識を統合するのが、他生にわたる自分を認識出来る段階の、本来の統合された「わたし」という意識なのでしょう。

●あなたの肉体の指揮者であるあなたの心

 人間の指揮者的意識作用という言葉が出てきましたが、これが我々の「心」を表しています。心という概念から受けるイメージは様々ありますが、あえて明確に分けて考えれば、「思考、感情」などと言えるでしょう。確かに我々はいつも何かを考えており、否応無く何かの感情をもっています。何も考えない、なにも感じないような無念無想が相当に困難な技であることはすでにお分かりと思います。自分自身の心の観察を少しでも行なっている人ならばこのことが理解出来るはずです。

 心などは眼に見えない働きであり、従って、取るに足らないものであるという愚かな考え方は一体どこから来たのでしょうか。TV電波も目には見えないけれど、明らかに映像や音声、振動などとして具象化しています。あなたの心の働きは、実は別レベルの現実において最も強力な創造力になっています。あらゆるものに見透かされているし、それがあらゆるものの「肥やし」にもなっているようです。実はどんなことも必要以上に尊大になることもなければ、卑下する事などもないのがこの世界の仕組みなのです。いづれにしても、こころは自分の世界の指揮者です。

●「私は在る」という根源的気づき

 物質に意識があるということは、物質自体が今、ここに現前していることで良く分かるはずです。鉛筆、ガラス、テーブル、パソコン、お皿、そして我々の身体までも、物質としてそれこそリアルに感じているのであれば、そのリアリティーを生じせしめている根本原因を考えなくてはならないでしょう。存在をしていると言うこと自体が、意識の現象化であることが理解出来れば、物質もその意識を現しているのが自然に思えます。すごく当たり前の現実の中に宇宙開闢の意図が常に現れているものです。

 森羅万象の根源には間違いなくその原因があります。その原因に直接繋がっているのが人間という存在と考えられないでしょうか。全ては意識の活動による自己表現なのであり、個別生命の最高表現と言われる人間存在が、それを多方面で確認・認識しているのではないでしょうか。人間はあらゆる仕組み、生命、物質の意識的表現に気付くことができる存在です。それらを統合する「意識」が人間存在の根本の意識です。個人意識、集合意識、宇宙意識まで繋がる意識の根本には、「わたしは在る」という根源意識の気付きがあるからです。

●全ての個別生命は気付いている状態を示す

 普段の想像、思い、感情などが生じるまでに、どれほどのプロセスが必要なのでしょうか。あなたやわたしが普通にしか想わないことが、考え、感じ、行動でも表現することが、どれほど素晴らしいものであることか。どうか普通にあることの奇跡に気付いてほしいものです。ペットの犬やネコの動物、雑草と言われる植物たち、天空を飛翔する鳥や、海に生きているすさまじい活動最中の魚達、これらの動きを一体どうして造れるのでしょうか。あなたは出来ますか?

人間は、その生命存在に「意識的に気付く」事が出来る存在です。自分が個体として生きていると意識できる存在、それに気付いている存在・・それが人間といってもいいでしょう。

●個体と全体

 我々が個人として、今は生きており、いつか必ず寿命が来ればいなくなること、その切実なる不可思議な現象に、どうしていつまでも無意識でいられるのでしょうか。実は、個体としての人間、限られた生命を持つと思っているその人間死生観は、実はその探求心の脱落を現しています。有限の生命観は架空であり、個別に切り裂かれた現代の多くの人間の心模様でしかありません。好きで自分で自分を縛っているだけの事であり、そう信じているがゆえの単なる現象化なのです。

 一見制限された個体人間という観念は、制限され得ない「無限」に気づく為のものでしかありません。有限を体験せずして無限などわかるはずもありません。我々が肉体存在であるという観念は、無限の存在形態を理解する為のものでしかありません。また個体を経験しなければ、それらを含む全体など理解できないではありませんか。

 宇宙というのは、無限に個性化された自己を、全て自分自身と観じている、唯一の多次元自己であるということが出来ます。

●意識は消え去らない

 我々の生命は、あらゆる存在諸相を貫く法則そのものであり、物質を有らしめ、その表現を為さしめる根源意識でもあります。我々はその諸相の内の、先端層である物質的なこの次元世界に意識を集中しています。その意識するレベルが肉体及びその感覚器官にあるため、我々は肉体であると思っているのです。「顕在意識」は意識のそのごく一部であり、現実の物質世界に集中している部分の意識のことです。我々の存在は「法則」そのものであるがゆえに、不滅であることが当たり前なのです。

●顕在意識は転生として移り変る

人が死んだというのは、肉体という乗り物が変質し、その働きを失う瞬間のことです。身近な人達がそのようなことになるのを多くの人々が経験しています。そこで終るのは、我々が見ている表層の存在形態なのです。即ち、自分であると思っている顕在意識がその表現をやめるという瞬間が、いわゆる個体の死というものです。どこどこで生まれ育った、何の何兵衛さんが、その個人としての生涯を終える瞬間です。それを生命の終わりなどと勘違いしているのですね。個性は沢山演じなければ意味がありません、また面白くもないものです。あなたは、AでありBでありXであり、どこどこの誰それなのです。目の前の五感感覚が全てであるという信念に固まった、かわいそう・・・を演じている・・あなたなのです。

 意識作用というのは普遍な作用であり、あらゆる個体現象や個性というバラエティーに富んだ表現として、それそのものを現象化してゆきます。例えば水面に小石を投げるように、その水面に与える発端がなければ波紋が広がるのことはありません。その1つ1つの波紋が我々という個人と言ってもいいでしょう。波紋は現れ、広がり、減衰して、また現れます。これら波紋のような連続して現れては消えるものが我々の生命と言えるでしょう。1つ1つの波紋は次々に現れるものであり、1つ1つが我々のその時々の個性、人生ということであります。

 しかしながら、本当の自分というのは、その波紋の1つではなく、その波紋を生み出す小石のようなものと捉えるべきなのです。一生一生はそれぞれの個性の生涯であり、それらを統合する「原因としての自分」というものを抜きに出来るわけがありません。それら各々の転生を経てきた体験、経験を総合したものが統合意識と言われるものでしょう。統合されれば自分が消えてゆくのではないかという考え自体が、個別の刹那の、そのときだけの意識のなせる技です。統合意識であるからには、自分という意識存在が消えるはずも無いわけです。あの生涯も自分、この一生も自分、それらを全て経験してきたという者も自分なのです。味噌くそ一緒に消え去るなどという考えはそれ自身矛盾を呈していることに気付けるでしょうか。常に「私は在る」ということが意識の根本原則なのです。

●意識体という霊的個性

 現実の肉体がその存続を終えると、いわゆる魂という根本生存原理は、その表現の仕方を変えます。具体的な存続形態としては、3次元世界での肉体に代わる、別次元の身体をまとうことになるわけです。幽体、エーテル体・・などと言われているような身体・ボディーのことです。わたし達はその都度「我あり」という意識が、集中している存在次元に相応しい身体をもっています。根本生命である我々は、全ての多次元世界に生きているのです。どのような存在にも、色々な次元での身体ボディが備わっているわけですが、ただ「知らない」だけなのです。そのときになって始めてわかるようです。また肉体しかないという局限された観念も、経験すべき価値あることでもあるのですが、多生に渡る無知なる状態の経験、輪廻に囚われた経験も、ことさら繰り返すべきことでもないような気がします。

 わたしという存在は、死といわれる時に至って、霊的ボディーをまとうという感覚は、幽体離脱、体脱体験者、夢見でのリアルな体験をした人間には自明のことです。幽とか霊というのは、誤解を招く言葉ですが、決してフワフワした、あるようでないような存在形態ではありません。物質世界の観念からいえばそういう表現になりがちですが、実際のところは「知らない」から不透明に思えるのです。信じられないが本当だ・・というのが実際のところです。意識が経験するものは細部までリアルなものであると思いませんか。

●刹那の個人は統合意識の投影

 実際にはこの地球上の何億の人存在は、統合意識の中ではあらゆることを知っているようです。ここにこうして生まれていると言うこと自体が、その生命進化の舞台への登場の仕方を知っているということなのですね。あなたもそうです。ただ忘れたものを思い出すというドラマを演じる為に、その統合意識の中からごく1部を、あえてこの3次元世界に投影しているのです。好きなだけの投影の回数が、多生に渡る輪廻転生ということでしょう。

我々は、無限の意識形態から今その一部をこのドラマに集中している、唯一であり無限に多様な意識存在であるとも言えるでしょう。そのドラマの中で、自分以外の多くの存在達に対して、出来る事もないと思っているかもしれませんが、そんなことはありません。もしそう思うことがあっても、せめて、自分の死に方、生き方だけは自分自身で決める事になっているようです。その自分を捨てた生き様の潔さは、人間独自の特筆すべきものでしょう。

・・・あなたはそう思えるでしょうか。

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   次回は、意識存在が具えている個性:、霊的身体、普遍的ボディーのことについて、見解を述べたいと思います。