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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

どうやって解脱するのか(3) 自分に最も近いもの

2014-12-21 06:31:35 | 意識の拡大
あなたとは何か知らずして、あなたの幸福も何もあったものではないだろう。

それぞれが、わたしとは何か?を知らずして、

解脱も、悟りも、こころの平安も、何もあったものではない。

それぞれの<わたし>のことを知るために、わたしの最も身近なものを探究することも必要であろう。


我々の最も身近なものは何であろうか?

そう、あなたにとって、最も身近な・・近しいというか、そういうものは何だろうか?

あなたにもっとも近いものが、あなたという存在を説明しているかもしれない。

・・・

近いと言えば、そう・・家族か、子供か、・・・あるいは目の前のパソコンか、タブレットか、いやいや、さらに近いのは、自分の顔の鼻か?いや目であろうか?

いや、そういうものを含んだあなたの『身体』だろうか、ああ、多分そういう感じだろうか。

自分の体が自分に最も近いというか、そういうものだという感覚があるはずだ。

だから自分を肉体だ・・・と当たり前のように、思っているということ。

そう何十年もそういう基本感覚で生きてきたというわけだ。

そうではないか?

・・・

ところで、・・

我々にとって一番身近なものは、身体そのもの・・ではない・・・ことに気付けるだろうか。

ではなんだろうか。


身体、肉体は、60兆もの細胞で出来ていると言われている。

また細胞は様々な分子で作られており、分子はさらに細かな原子で作られていることを知っているだろう。

その数を言うならば、数えきれない原子で構成されている。

頑張って何億兆とか、カウントする、数えるような・・・そういうものでないことは、

その仕組みが、宇宙を見た時と同じであることに気付けるだろう。






そう、我々の肉体は、それこそ無数の原子というエネルギー要素ともいえるもので構成されているのだ。

手のひらを太陽に透かしてみれば・・という歌があるが、よく見ると、あなたの手も無数のクオーク、原子・分子で作られているのである。

さらに、それら無数の細胞、分子、原子は<完全なる協調、全き調和で>維持管理されているのだ。

そうでなければ、わたしやあなた達という存在は一刻たりとも維持出来ようもない。

想いをはせるべきは、

ゴミ箱をつつくかのような3次元世界の喧噪や、政治や支配の嘘だらけの観念放送ではなく、

かような、あなたの最も身近なあり方なのである。





あなたの身体は、それこそ無数のエネルギー要素、分子、原子で構成され、

それが全きの調和をもって維持されている。

それはまた、無限の先が見えないところの『宇宙』の構成と何ら本質的な違いがないということである。
 
あなたの肉体は、実際それなのである。

・・・・

あなたの身近な<身体>、それを維持するためのことに関して言うならば、

例えば、衣食住を維持するための、個人の働きによる金銭の稼ぎなど、

それが何億円あろうとも、本当に微々たるもの。

 
この世界を体験するために・・あなたの身体を維持している無限数にも及ぶ分子、原子、

完全なる調和で在りつづける様々な細胞、内臓、肺臓、血液など、

そういう生きた組織によって生かされていることに気付かなければならない。

 
これを『無償の愛』と言わずして何というのであろうか?


そういう意味では、保身に明け暮れ、競争に勝ち残ろうとあくせくしている人間達の努力、

あれを頑張れ、これをすべきだ、税を払え、経済を上げよ等としている現代社会の動き等は、

まるで目くそ、鼻くそのようなものではないか。


生きていることにおいて、肝心なところはそんなものではないということである。

・・・

そう、あなたの最も大切だとしている<身体>も、

それを自分として、当たり前のように思っているその<肉体>も、

自我でなんとか維持しているというのは虚妄の観念であり、

無条件に生かされている事実、与えられている事実、

身体の出現維持の、その・・・下には<膨大な>無償の「愛」があることに、気付けるだろう。


・・・・

そして、さらに身体以外に、さらに貴方にもっとも近いものがある。

それは何だろうか?



 


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どうやって解脱するのか (2)肉体の呪縛を解放すべし

2014-12-14 05:37:48 | 意識の拡大
肉体への呪縛等というと、さもおどろしい表現ではあるが、それはこの世界の多くの存在が自分を肉体だと信じこんでいるということを意味している。
いや、そんなことすらも自問自答することもないかもしれない。

自己とは何か?・・・という、本質的な問いかけを、ことさら自らで起こす事さえもないかもしれないということだ。
・・・
自己とは何かだって?・・・と、真面目に問いかけることがあったとしたら、
それは「この体だろう、それ以外何がある?」・・・ということになるだろう。

何故なら、目に見え、いつも感触を得ているのが最も身近な身体感覚であるからである。
あそこが痛い、ここが冷たい、暖かい、腹が減った、気持ちが良い・悪いというような身体感覚である。

そしてその身体には、出来れば不快感を避け、安楽に維持しようとする機能が自己保存機能として備えられているし、それ自体は何ら問題のない、非常に良くできた自己制御機能であるといえる。


人間がいつも感じているのは、まずこの身体感覚なのであるがゆえにこそ、自分がその肉体であると漠然と「想っている」のである。ちがうだろうか?

・・・
想っているのではなく、それが「事実」だろう?何を言っているのだ・・・と言うかもしれないが、
そういう”認識をしている”という事実のほうに気付かなければならない。
・・・



そう、多くの意識ある存在達が、その意識を使って・・・自分を肉体であると意識しているのである。
それが漠然とした世間常識であろうと、それをそれとして「認識している」ということだ。

また、この世界では、多くの魂達が与えられた身体のその感覚だけを頼りにし、その身体を何とか安楽に、安寧に維持しようと思いつつ人生を送っているはずである。

経済が大事というのも、教育が大切というのも、銭金、地位等が効く等という処世論も、それらがそうした自己の身体を維持するための有効な手段であると信じ込んでいるからである。
突き詰めるとそういうことになるはずである。

・・・
自分が肉体でしかなく、死んだら終わりの存在、そんなものであれば、とりあえずそれを維持することだけが眼中にしかないという事にもなる。

また、その身体環境の維持と向上のための競争で煽られて、それに勝ち抜くことが重要だと言われれば、何をおいても自己保身だけに走ることにもなるだろう。

更に度が過ぎれば、自分だけは取りあえず生き残る・・などと言う話になって、他の存在を押しのけ、あるいは殺してもしかたがないという事にもなるだろう。
・・だろうではなく、既に幾度となく後でいつも後悔をするような、結局は意味不明の戦争を行なってきたのは、どこかの誰か、あるいはあなたやわたしが流れ流され、それも致し方ないと思っている部分があったからではないのか。

それもこれも、自分の肉体だけは、取りあえず保持したいという観念が底にあるからである!

・・・
論語で諭されている、「衣食足りて、礼節を知る」・・・は、
<衣食足りざれば、礼節を知らず>という逆説をも含んでいる。

それは人間の自己認識が、物質肉体レベルに呪縛されていることを示しているのだ。

はっきり言えば、これからそういう自己認識レベルと、そうでない1段と広い認識レベルの間のふるい分けが行われることになる。
それは、肉体の存在の振い分けではなく、認識レベル、意識レベルの振い分けである。


自分さえ良ければ、自分の組織さえ良ければ、自分の国さえよければ・・・、

もっとはっきり言えば、

自分達の肉体保持のための物質、銭金が獲得できれば、地位や名誉が維持できれば、

取りあえずそれでよい・・・という者たちが、一気に世界に炙り出されて来る。

いやいや、既に、目に見えるようになって来ているのだ。

気付けないだろうか・・・?


衣食足りざれば・・・、礼節など知らず

そういう流れが明確に解るのが、銭金を中心としている、今の世界の政治・経済の動向である。

・・・



・・・・


今までの世界は、そういう自己保身に走るだけの忙しい人間達が増えていたということだ。

様々な情報や価値観、物質装置、便利な機械が次から次へと現れるおかげで、何か良き方向に行くのではないかという潜在的な希望を抱きつつ、とりあえず皆で人生を走っていたということである。

常に・・・それで・・何が得られるのか?・・どういう利益があるのか?

そういう呪縛観念でまみれていたのは、自分が単なる死すべき肉体存在でしかない・・という、漠然ながらもそれが当たり前であるという「観念」が故である。

でもそれは「観念」でしかない。
その観念の呪縛こそが、これから、そして今から、解き放されるものである。

・・・

人間がいつも感じているのは、まずこの身体感覚なのであるがゆえにこそ、自分がその肉体であると漠然と「想っている」のである。

想っているのではなく、それが「事実」だろう?何を言っているのだ・・・と言うかもしれないが、
そういう”認識をしている”という事実のほうに気付かなければならないのだ。

ある意味で今までの平均的な人類意識では、自己認識が肉体レベルに固定されていたということである。
 
その固定された観念の呪縛こそが、これから解き放されるものである。

そういう観念にあくまでも執着しているのであれば、

おもちゃを手離すことを嫌々する幼児のように、

無理やり引きはがされると感じるような、文字通り・・苦痛を経験することになるかも知れない。

 
自己は、まず、その表現としての肉体を有す・・・・が、

しかしながら、肉体その物ではない・・・

ことに・・・気付いている・・存在である

・・・



 
・・・
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どうやって「解脱」するのか(1)世界はつまり幻想

2014-12-05 08:00:09 | 意識の拡大
人が偶然にこういう社会で生きて、そして死んでゆくだけと思っている人も多いだろう。

取りあえず、生きるために毎日を「生きている」だけ、

そのために人生がある・・と漠然と思っているならば、全然分っていないかも知れない。


しかしながら、そういう御仁はこういう記事など目にはしないのも分っている。

これをご覧の方々は、すでに、ぼちぼち「解脱」が出来るまで来ていると言えるかもしれない。


解脱というのは・・文字通り「解かれて・・脱する」という意味だが。

それでは・・何から・・解かれて・・脱するのだろうか?

解かれる・・ということは何かに束縛されている・・・ということなのだが、

何に「束縛」されているのだろうか?


それは、あれダメこれダメを規定した社会ルールだろうか。

いつも残高がある借金ローンだろうか。

なんだかんだで病気がちの身体だろうか。

何とかこなしている、実は重たい人間関係だろうか。


騒ぐだけでで、国をどんどん悪くしている政治家だろうか。

庶民の血が流れていようと、是が非でも収奪するための増税だろうか。

本当はどうして良いかわからない子育て、教育だろうか。

危険を安全と言われて、いつも騙され、ひどい目に合う愚かな大衆だろうか。

あるいは、それらすべてを仕組んでいる得体の知れない影の支配者だろうか。

・・・
 
解かれる・・ということは何かに束縛されている・・・ということなのだが、

そういう何か、あるいは人間関係に、あるいは生活のストレスに、

または収奪する社会システムに、あるいは、あなたをいつも騙している誰かに、

・・・「束縛」されているのだろうか?


そういう事だとするならば、外の世界が・・あなたを束縛しているという事になる。
 
また、周りの世界が悪いから、あなたは不自由だと信じているということになる。

それこそが、支配の原型というべきものであり、それこそが原因であることに気付けるだろうか。


では、そういう外の世界の誰かに聞いてみると良いのだが、

「え?あんた、一体何を言っているの」がせいぜいではなかろうか。

そう、世界の誰も、誰もだが・・・、あなたに責任など持っていないし、また関心などないことが分るだろう。

誰も何もしてくれわけもないし、悪いとも何とも思っていないことがすぐに理解できるはずだ。
 
その為の人生経験がある。

そうだろう?

・・・
外の世界、大勢がひしめき合っている世界の・・・何処にも、貴方に対する責任者はいない。


例え親兄弟であろうと、身体の生育や介護等が出来るだけであり、


あなた・・以外に、あなたの責任者、つまりそれを「そのせいだ」という筋の者はいないのである。


どこにもだ。


政治や政府や、尤もらしい宣伝に、眠ったようにして騙されている間は、

次こそは外が良くなるだろうという・・・餌に食いつく「魚さん」のままである。

 
外の世界には、あなたの責任者はいないのである。

誰も何もしてくれわけもないし、悪いとも何とも思っていないことがすぐに理解できるはずだ。
 
その為の人生経験がある。
・・


・・

真実は、

あなたの世界を、より良くしてくれる為の外の存在は・・どこにもいない。
 
政治家だろうが、ボランティアだろうが、何処かの大統領だろうが、親切な宇宙人だろうが、
 
そんなものはどこにもいないのである。
 
居るというならば、それは真っ赤なウソであることくらいはわかろうもん。

そういうことである。

しかし実際、政治家もいるし、ボランティアもいるし、大統領もあちこちいるし、宇宙的存在も五万といるが、

あなたの責任者は「あなた」以外にいないという事である。

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何事であろうと、

それがそうだと認識する・・・全ての認識主体は・・・完全に・・・<わたし>である。

わたしという・・・意識の中心、それがなくて「あーだこーだ」もないし、

間違いだらけの他人の見解を採用する必要ももない。

そうだろう?
 
世界の中心、3次元的に投影している体験世界の・・・真中心は・・・
 
それぞれの<わたし>なのである。

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目の前の時空間や生活空間、社会や国家、そして地球の自然環境さえも、

実は投影されている映像の様なものだからだ。

あなたやわたし達は、例えて言えば3次元空間映画のただ中にいるのである。

そう、あなたは実に立体的に見える、またリアルに感じられるところの、時空間映像を観て感じているのだ。





空(くう)のスクリーンに映し出された立体映画、それを世界と言っている。

言葉を変えれば、全くの「幻想」という意味でもある。

・・・そう誤解ない意味での「幻想」なのだ。

それ以上でもそれ以下でもない。


何十回も経験しているはずだが、

映画館に入った場合、目の先のスクリーンは「空白」だろう。

そして、おもむろに、映像が映し出されるだろう。

そうして、段々とそれに慣れてくるだろう。

展開する映像に、その内意識が入り込んでゆき、感情移入し、ハラハラドキドキ。

そして、その映画もいつか終わって、観客は皆、家路に急ぐことになる。

人生もそれと同じだ。


映画と人生の違いは、ただ2次元スクリーンか、3次元・五感感覚付きのスクリーンかの違いだ。

映画のように座って観ている感覚ではなく、人生という映像のなかに「入り込んでいる」感覚にも違いがあるが、実際は次元の違いだけである。

これは単なる比喩のレベルではなく、我々がそれがリアリティそのものだとしている時空環境は、

即ち・・・空(くう)に映しだされている波動映像、つまり「幻想」なのである。


例えて言えば、地球が映画館で、太陽が光源であるとも言えるだろうか。

実に良くできているではないか。

変幻自在、所業無常を旨とする「幻想世界」なのである。

しかしながら、

それを観ている・・本質である<わたし>は、その中には「実はいない」のである。

何故なら、それを観ている・・・からだ。
 
それを、「それとして観て」いるか、完全にはまり込んで「忘我」でいるか・・

単純に、2つに1つなのである。


 
映画を観て、大抵はマジに、むきになって、映画に向かって叫んだりはしないが、それは結局は楽しい映画だと知っているからだ。
 
実際の人生で、むきになって、叫んだりするのは、それがどうしようもない、嫌な「現実」だと思っているからだ。

そうだろう?

皆が皆、「そうだ、そうだ」と必死になっているからこそ・・、

そういう、嫌々をするような、必死になるような、不都合な仮想現実を観ることになる。


目の前の様々な事柄は「幻想」でしかない・・のに!


多くの人々がそういう「迷いの観念」にはまり込んでいた・・ことに、

今でもそこから抜けていない人々もいることに、

あなたは既に、気付けるかもしれない。

他の人々が、幻想に顔をしかめ、こころを歪ませ、騒ぎに騒ぎ、泣け叫ぶ在り様を見ても、

またそれを悲しむべきでもない。


それは、まだ嫌々の映画経験が十分ではないという存在達なのだし、
 
スリラーや恐怖映画に引かれているだけという事なのである。

・・・・

空(くう)のスクリーンに映し出された立体映画、それを世界と言っている。

言葉を変えれば、全くの「幻想」という意味でもある。

・・・そう「幻想」なのだ。
 
バーチャルなリアリティーのほうがシンプルだろうか。

それは、それ以上でもそれ以下でもない。


映画を観ていながら、そしてそこに自己投入、感情移入しながらも、


それを観ている・・・<わたし>・・に気付いていることが肝心である。


普通、どんな映画も楽しめるし、また飽きたならば、別の映画を観るのも<自分で>決めることが出来るのだ。

また、本来は、楽しくなければ・・・世界は現れていないのである。





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地球は魂の教室のようなもの

2014-11-21 07:39:12 | 意識の拡大
地球は宇宙で生命を有するただ1つの惑星だとかいう話が、どこか普通になっているのかもしれない。

今まで何十年にも渡り、これだけUFOだとか未確認飛行物体だとか、他の宇宙文明に遭遇、体験した人の話だとかは、相当数あるわけであるが、未だに未確認であるという事の不思議さに気付けるだろうか。

いつも乍らハリウッド映画の横槍によって、それらが何かのエンターテインメントの話、可能性としてのSF的噂話とでもしているようであるし、

直観真知の意識力がある人であっても、宇宙人がいるとかいないとか、それも良い人だとか悪い人だとか、優しいだとか怖いだとか、好意的な人であれば、夢があって良いではないか・・と言う具合に、とかく感情論的なものに終始することが多いだろう。

結局は何事も「この身の保身」からの思考であるがゆえに、そういう話に流されてゆく。

だから、いつまでたっても未確認なのだ。(笑)
 

・・・・

ところが、そういう保身の立場にいる当の存在、自分達以外の宇宙的存在頑として認めない者が、

実は魂の転生レベルでは・・・その自分の魂が、宇宙由来の者であるなどとは露とも思っていないだろう。


「え、マジ?」と感じる人は薄々気づいていることを意味するし、こういう話すら目や耳に聞こえない、

つまり自分の世界に情報として顕れることがない場合は、未だそういう気付きの意識レベルにないこと、より大きな自己に気付ける段階では無いことを意味しているのかも知れない。


多くの人が、オギャ~と生れてからの記憶しかないという事実は・・・、

実は当たり前などではなく、この世界の低次元的なルールというか意識密度というか、周りの人の意識レベルというか、

そういう長きにわたった「唯物的自己観念」によって生じる、魂レベルの記憶の喪失である。
低い振動レベル、波動レベルでは高い波動帯域の情報はサンプル出来ない、つまり知ることが出来ないというのは何にしろ普遍的な法則のようなものである。
 
例えば、地上波TVの3chの周波数帯域では、より高い26chの周波数域の映像は見えないだろう。それと同じである。
 
それと同様に、人が地上の常識観念という意識波動レベルに固定されていれば、それ以外の意識波動レベルがあるなどとは、露にも思わないということである。


確かに、

そういう小さい意識レベルというか、狭い自己認識レベルというか、そういう集合意識世界であるからこそ、

自らの魂の由来を忘れてしまった状態で、何十、何百という繰り返し転生が出来るのも事実なのである。

つまり霊的に無知な世界で生まれる形でなければ、

自己が何たるかを・・忘れる・・ことが出来ず

かつ、また様々な経験も出来ないという・・・パラドクスがあるわけである。


例えば自分が王様だということをすっぱりと「忘れ」なければ、

巷を徘徊する乞食という極端な事も経験できない相談というわけだ。

そうではないか?


あるいは、世界を色々と経験するためには、あちらこちらを流離(さまよう)事が出来るような、何もわからない何を言っても聞く耳もたないような「頑固な」放蕩息子になりきる必要があるだろう。

そう、どこか幼い段階の魂にとって、それが何不自由ない身であるならば、なかなかその安住を抜け出せないことにもなるはずである。

何不自由のない安楽な身であっては、真摯な体験や経験も出来ず、魂の進化、意識の拡大が実際難しいのであれば、それを打破するにはどうするだろうか。


そう、自己を忘れるのである。


「あれ、?わたしは誰? ここはどこ・・だっけ?」

そうやって敢えて自らを喜々としてリセットするのだ。

実に「お~い!マジかよ・・」なのだ。


そうなれば、いやも応もなく、

進化・開花という強烈なベクトルを無意識に秘めた魂は

何が何だかわからないことから、始めることになる。


それが遠因で、今・・あなたはこの世界にいるのである。


そんな話、気付いてよ・・と言ってもそんなに簡単でもないだろう?

なぜなら、より大きな次元の<自己>を忘れているからだ!!

・・・



転生とは、例えば地球上だけで、時系列に沿って、あちらこちらと個々人の単体の「魂の塊」が転移するわけではなく、もっと全宇宙的、さらに多次元的なものなのである。

だから、今ここにポツネンと存在している「あなた」にあっても、いわゆる地球外での記憶が、膨大な潜在意識の中にあると言えるのである。

さらにあなたという表面意識、自意識は、多次元宇宙という、広大無辺の海に無数に浮かぶ氷山の一角の1つであるということに気付くべきである。

・・・

物的証拠では確認しようもないのだが、足立郁郎著の「真・地球の歴史」という書の中には、何億年も前からの他星からのこの地球への移住や、その後の文化変遷や、当然ながら肉体を地球製に変えて魂が経験を続けるところの、転生の記録等が描かれている。

今の人類の8割の魂は、実は地球という生命場から生じた魂・意識ではなく、いわゆる地球以外の惑星生命場から転生しているとも言われている。
 
ある方面での言い方では、多分にあなたも元は宇宙人であった、あるいは今も当然そうだという事なのだ。

聖書の中でのイエスの話「天には住まいがたくさんある」(マルコによる福音書)というのは文字通りの意味である。変な比喩でもなんでもない。

天のたくさんの住まい、つまり星、あるいは多次元的生命場があるわけで、様々な意識的、エネルギー的、物質的な存在形態があるということなのだ。

・・・

魂という、根源要素たる「普遍的自己の概念」に気付いていないならば、こういう大きな話は全く持って受け入れがたいものであろう。

最先端とされる科学プロパガンダによる「宇宙観測」に期待しつつ、いつも生命も何もない・・かも・・という報告を真に受けている間は、

宇宙での生命は地球だけだという、「猛烈な」エゴ的見解、嘘とも真実とも何とも言えない宙ぶらりんの状況に置かれることになるわけだ。

それは確かに、物的証拠がなければ何も信じないという唯物観念の支配の賜物である。


地球上にだけ人類や生命があるなどという尤もらしい嘘の言明は、どこから来ているのであろうかといえば、

真実が分れば、それが都合が悪いと感じている者たちがいるからであるとも言われている。

そして、

なぜ都合が悪いのかといえば、先ほど言ったように、

無知から既知への経験が損なわれるだろうという、

今まだ「幼き魂達」の不安や恐れから来ているのである。
 
自分が何をしているか・・よくわからない者たちのことである。

・・・

人類の歴史を通して未確認飛行体の記録は実に沢山ある。

最近は特に1930年台頃から始まり、今まで何十年も経って、未だにその確認も、解決も出来ないテーマがある等ということは、誠に奇異なことだと感じなければならない。

UFOだとか地球以外の生命体だとかは、その真相をどの程度まで知っているかは別として、ある意識段階の人々はそれをすでに当たり前の事実として認識しているわけなのだが、

ところが未だ大勢の人々は、そういう言葉を知ってはいても、実際にあるなどと言う認識まで行かないのが現状であろう。

つまり大勢の人々は公式なアナウンスがあるまではそういう認識をしないという風に餌付けされているということである。大勢の他者がそうだと言えば「ああ、そうだ」とする風に仕込まれているという寸法である。

事は政治だろうが、経済だろうが、世界の支配の仕組みだろうが、そして宇宙人の問題だろうが、常に未確認なのは、全ては人類のそういう狭い意識レベルへの固定が故なのである。そういう固定観念からの少しづつの解放が、つまり文明の進歩としていたわけだが、

事ここに及んで、政治や経済の寡占化や、国際的な動乱等で示されるよにな、
全てを再び覆い隠そうとする意図が現れてきているようで、そのような文明の大いなる進歩どころか、逆にブラックホール化しようとする流れが出てきているが、こういう流れの先に流れていく方向は、再び今までと同じような低位レベルの経験世界であろう。
 
空気さえも売り買いするような汚れた都会で必死に生きる経験か、あるいは狩猟採集の中で自然の有り難さを経験するのかもしれない。

いずれにしても、意識生命体は、全ては自己の意識と意図で決める存在なのである。

それ気付ける・・・こと、が喫緊のテーマなのだ。
 
・・・

今まで地球人類全般、その眼の見える先、認識視界が、えらく狭いものに仕向けられていたとも言えるだろうし、またそういう経験もまた必要であったとも言える。


特に最期の時代、末法の世である現代は、肉体自我の存続目的、目先の成績、成果、経済的利益の獲得、主にそういうものだけを取りあえず追究するように社会が仕組まれていたのである。実は物質繁栄主義をモットーとする欧米文明は、この次元で経験可能な最後の低位レベルの文明だったのだ。

 
わたしとは何か?何のための人生か?

そういう根本的な問いかけが、さも幼稚なことのように教えられ、やんわりと確実に、銭・金・物・威力を獲得する方向ばかりに仕向けれれてきたのである。

世界の中心である自己、広大たる英知の一端であるところの自己を省みることなく、意識の投影する幻影たる、物質形態ばかりを真実とする観念で支配されていたとも言えるだろう。
・・・

また、先生の話、権威筋の話でなければ信憑性を感じない、そういう「こころのパターン」を何十年にも渡って記録されるわけである。
 
そういう情けない状態すらも気づかず知らずの意識体達を、天はみかねたのか、昨今はそういう権威筋からも、まともな情報を流すことも増えてきたようである。

かつての福島大の飯田史彦氏や、東大の緊急医療等の先生などが、魂の生まれ変わりや不滅性の話をするようになったのは最近である。とにかく何かの先生の話ならば子供達も聞く耳をもつだろうというような対策だ。

多くの意識体達は、この世界でのそういう十重二十重(とえはたえ)の観念的鎖で身動きが取れない状態である・・ことに気付いていないのである。

また、人がこの世を離れた後に、つまり死んだ後に、肉体で無い自己を発見した時の混乱で、魂の通過する周囲の次元世界が、これまた<身>動き取れないようなことにもなっているわけだ。
 
大勢の魂がこの世界に下生して<我を忘れ>、様々な得難い経験を経ることもさることながら、合わせて低悪な観念でやられてしまい、その霊的ケアが増大していることもあり、そろそろこの低位世界の次元上昇の時節となったと言ってもいいかもしれない。
 
今はもう、そういう時節のただ中にある。
スピリチュアル系統で、アセンションだとか言う噂話もあるが、
実際にそういう時に来ていることに、本当に気付いているだろうか。

・・・

自らの置かれている人間としての現状そのものを、自らではたと見回しつつ、本質である魂からこみ上げてきているものに、真剣に・・意識を傾けることが重要なことなのだ。

自己内面の意識、実は膨大な情報につながっている自己自身に、自らがアクセスする意識的努力のことを、昔から修行やら修養やらといっている。
・・・・
こころの汚れでよく見えなくなった自己の意識、いわば魔法の鏡を磨くことである。

その中に、決して世俗的な誤解のない類の・・「愛」を自分に感じることが出来ればいい。

そして他者も全く同様の、別の<わたし>であることを垣間見るだけでもいい。
・・・

そうやって、汚水が清まって行く様に、汚泥の中に蓮の花が咲く様に、確実に意識進化を遂げることが目的であることを忘れた魂の群れが、今までの地球人類であったと言えば、それは言い過ぎでもなかろう。
 
そしてそれはもうすぐ過ぎ去ることになる。

常に、光陰は矢の如し・・・なのである。


 


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時間も空間も非実在である

2014-10-24 07:37:28 | 意識の拡大
過去や未来・・それはまったく実在ではなく
それは何かといえば、そういう考え「観念」でしかない。
そうだろう?
昨日というものが、一体どこにあるかと言えば、
あなたの記憶の中にしかない。
 
和ダンスの中にあるわけではないし、古い写真の中にあるわけではない。
過去は「記憶」の中にしかない。
違うだろうか?

「過去」とは、そう、人間の観念の中にしかないわけで、多分動物たちにはもともと無いだろう。
彼らには、「今」しかないわけだ。
だから悩むことも嘆くこともあるわけもない。
知能が高いとか、頭が良いとか悪いとかのレベルでなく、彼らは常に「今」しかないことを、
どうしようもなく知っているということだ。

・・・
アー、あの時はこうだったな~と、自分や家族の古い写真を眺めたりするだろうが、
そこに「過去」があるわけではなく、
今・・・その記憶を再現しつつ、感慨に浸っているということだ。

そう、「過去」というものはどこにも無いのだ。
本当にそれを、知っていただろうか。

 
同じく「未来」は想像の域であることは、更に簡単に理解可能だ。
未来は、未だ来てない「現在」の延長という「観念」であるし、
予測思考以外の何ものでもない。
未来も・・・今・・想像している「思考」だということだ。
 
実在するのは、常に<今>の瞬間である。

それらしく言うならば、<今>とは「ゼロポイント」であるとも言えるだろうか。

そうなのだ、過去も未来も全くの実在ではない・・今・・その真の意味を理解すべき<時>にある。

在るのは、たった今・・・永遠に<今>のこの瞬間しかないのだ。
 
あなたにあるのは  「今」 。 言わば・・ゼロポイント。
在るのは今という、決して無限小の時間などと量子化されない・・存在の「瞬間」である。
我々にあるのは、今という、魔訶不思議な、存在の瞬間~瞬間だ。
 
誰にも、どこにもあるのが、<今の瞬間>、それを創造の瞬間といっている。
全ての存在達に・・・在るのがそれである。
常にそうだ。
 
多分人々は、存在しない過去や未来にずいぶんと悩んでいるだろうか。
それが先を憂える人、賢い人などと思っているのかもしれない。
 
起きた出来事、過ぎ去った現象をさも意味ありそうに解説する偉い先生がた、評論家たちの
批判や解説という、今ここに非ざる観念の仇花をぼんやりと眺めているのだろうか。
 
あるいは、世界で騒ぎまくる、<鼻高々>な霊的幼子たちの、
哀れで健気な乱暴狼藉に、今もなお、
ハラハラドキドキしている、どこか愛深き者たちもいるものである。

しかしながら、そう、それらはいつもいつも、過ぎ去った過去なのであることを理解できるだろう。
過去とは記憶、観念の中にしか存在していない。
 
時間とは、それ、そこに在るように見えて、すぐに過ぎ去るものであるからには、
それぞれの繰り返し、繰り返す、癖になった思考や観念の中にしかないのである。

過去に苦しんでいるということはなく、その観念に引っかかっていることを示しているだけのこと。
それが、そんなに楽しいのだろうか。
 
常にリセットされているというのに、わざわざ、いつまでも古い汚れた毛布を引きずっていることが、
そんなに楽しいのだろうか。

しかしながら、
それがどんなにバカバカしいことか分るだろう。
意識を向ける先は、過去でも未来でもなく、
そうだ、今の瞬間なのである!
  

常にある、当たり前の<今>を味わいを持って感じて生きていること、
 
それこそは、相当に深く広い味わいを感じることになるのだが、
いつでも、どこでもすぐに可能であるし、お金や物資は殊更かからないだろうし、
誰かにサービスしてもらう必要もあるわけもなく、
またその時が来なければできないものでもない。
そこには無条件しかないのだ。
  
何がどうあるのが嬉しい事なのか、何が楽しい事なのか、
今この瞬間の、<わたし>のその観方、捉え方以外にないのである。


時間と空間、距離と経過という、量で扱うところの「時間・空間」は相互に入れ替わる。
それらは物理的概念で言えば、最小単位というものに量子化されるだろうが、
今の・・・瞬間・・・は、そういう物理的な次元で計れない。
それこそ、有るのか?、無いのか?、そういう不可思議な無限小の点というのも変な言い方になる。

しかしそこから全てが生まれ、変化し、生成・崩壊をしているのだ。
 
日が昇り、また日が沈み・・・、
月が顔を出し、微笑んで向うへ消えてゆく・・。
風が起こり、空を巻き上げ去ってゆく・・、
花が咲き、胞子が空を飛び、様々な土地で色を添える。
雨が天空から落ち来たり、命の流れになって緑を育む。
 
それは、天地の永遠の「今」の瞬間の、その動きなのだ。

それを観ている者たちは、
浅いところから深いところまでの創造の観察者たちであり、
植物や動物やそして人間という、意識の無限の参加者たちである。
 
しかし、わたしは・・今・・・在る・・・ことを知っている、意識している。
実に、なんということだ!
  
それぞれの世界にたった、ひとりしかいない、わたし。
わたし・・・の見る世界とは、それらの集合でありながら、
集合そのものが・・・唯一のわたし、それぞれのわたし達を決めることは出来ないのだ。
 
その創造の中心たる・・・「わたし」の存在奇跡に気付けるだろうか?
 
あなたの意識する世界には、外側にその他大勢の仲間がいたとしても、
主体たる意識の中心は・・・あなたしかいない。
 
ご近所のうるさ方だろうが、爺さんだろうが、子供だろうが、そこに居たとしても、
彼らも、彼らの中心の<意識の窓>から覗いているだけの話だ。
 
<わたし>は完全に今の瞬間に奇跡的に在る・・・。
それらに気付くために、身体があり五感があり、周囲の時間空間があるのである。

釈迦の言葉とされる「天上天下・・唯我独尊」
それは、あなたやわたしの・・・真実を説明している言葉である。

決して、慰めや単なる比喩であろうはずもなく、
それこそが真実であり・・・現実である!
 
嘆くような過去も、憂いの未来も、
実際のところ・・<今ここ>には存在していない。
 
何がどう在るのかという人生の最大のテーマとは、

それぞれの今の瞬間の意識・そして選択なのである。

  
 

 
 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。