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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

在る・・こと だけがある

2016-10-31 06:05:49 | 意識の拡大
寝ても覚めてもあるのは何だろうか?
毎日あなたと一緒にある、といえば変な話だが、
あなたという存在というか、今ここに「在る」・・というか、

そういう感覚というか、「自らに気付いている」ということ。
それを自意識と言おうか。
あるいは「わたし意識」と言おうか。

人の根本に常にあるのは、その「わたし意識」なのだ。
それがなくて五感の情報も、思考さえも生じない。
わたし・・意識がすべてを感じて、また自らを生じている。
あなたはそれ・神だ、・・という意味だ。
・・
われ在り・・、
別にどうってことなくて、真剣に気づくこともなく、
当たり前のように過ごしてきた、わたし感覚。
人の成長の過程でも、物心つくといわれるような、
小さいころから次第に明確になってきたのが「わたし意識」

わたしは在るという・・自意識、自覚意識である。
そうだろう?

これは、自らに気付いている・・こと、奇跡的なことなのだが、
生来それが在るためにことさら気づけないのだ。
あなたは気づいたか?

神の創造の起源は、自らに気づき、自らが何者か?という
楽しい問いかけを始めたところにある。
もちろん時間も空間も実在しないため、いつ?ということではないが、
宇宙が生まれた瞬間・・というのを言えば、
あなたがここに生まれて、未分化であっても、
その根源意識が生じた瞬間と同じことなのである。

当然ながら、
神はすべてのすべてを愛している、
あるいはすべてが自己、すべてはわたしであると認識しているため、
そこ・ここに、きらきらとして神の息吹が表れている。
当たり前だ・・。
いや、そこここではなく、すべてがそうなのだが、
神の共同創造者としての人の、そのひずんだ思いをも尊重し、
ある人には、神などどこにあるのか?という、
そういう不可思議な逸脱も「許されて」あるのだ。
神が自己を忘れていることも、許されてある・・

この奇跡以外に、どんな奇跡があろう?

無限である自らの姿、形、思い、感動を味わおうと、
この宇宙、あるいはあらゆる宇宙が活きている。
聖書にもある「最初に言葉ありき」・・
言葉とは言の葉、まるで思いで揺れ動く波動
単なる音声という波動ではなく、あらゆるすべてである根源の波動。

そう、創造の主の「われ・・在り・・」から、
ミクロ、マクロ宇宙すべてが生じている。



それと気づかなければ何も観えない。
見えるから気づくのではなく、気づかなければ見えないのだ。
ここは非常に重要な意識のポイント。

どこかで言われる「霊主体従」とは、
意識の働きが中心で、身体レベルの経験を生じせしめることを言い、
身体レベルの経験がマインドを造るという、
3次元的な物質依存を超えた存在の仕方である。

マインド、思考、感情というより微細な波動域から、
身体・環境というより粗い波動域に写しめることだ。

「その意識」が無ければ、何も現れない、

こういう話、日常でもすでに経験しているはず。
何か違うことに意識が集中している場合、すぐ目の前にもあることに気づけない。
レーダーを発しなければ、対象物のエコーは起きない。
そうではないか?

あらゆるすべての根本にあるのは、意識・それであり、
日常世界の様々な出来事を五感で感じているのも、その意識だ。

世界の様々なことに関する、反応としての思考や感情も、
あなたのその意識の中に浮き上がるものである。
根源の波動に・・波が生じる・・わけだ。
つまり・・創造。

ちょっと科学的に言えば、
意識は根源波動であり、その波動が様々に変調されて、
様々な思考やイメージ、感情が起きているのである。
思考も高次なレベルでの波動なのだ。

人の繰り返される思考やイメージ、それが定着作用として、
人の経験として、さまざまこの世に「現像」されてくる!

人生とは、まるで3次元写真のようではないか、

それを魂・意識で学ぶために、わざわざ荒れた世界に生まれ落ちる、
そういうことに気づけるだろうか。
余計なお世話だが、・・
あなたがここにいるのは、それに気づくためであった。

えーっ?もう十分おなか・・一杯だろうが、(笑)
そういう意味でなんと素晴らしい世界であったことだろう。

あなたがすでに、自らの思考、イメージ、マインドを、
それを子供の動きのように観ることができるならば、
もう、外の世界に振り回されることもなく、
またあなたが体験したいと思うことから、逸脱させる何かも存在しない。

例えば、生も死も相対的なものでしかない、
なぜならば、
生も死も、在ることが故の、存在の相の転換でしかないからである。
あなたもそうやってここに生まれてきたのだ。
あなたの「在る・・」は消えやしない。
なぜなら・・在るは・・根源の波動なのだから。
それに、今・・在るのだから・・。
えー、知らなかった?(笑)
とはいえ、頭の組み合わせ論理では、これは到底理解不能。
だから時間がかかるともいえよう。

在ること、さまざまに「在ること」が、生まれ変わりや転生だ。
毎日寝ては起きることの繰り返しも、それを示しているのである。
意味のないものは何もない。

実際、本当に身近なことが・・最も大切なこと。
どこか遠くの遥かあなたの空遠くには、今・重要なものは何もない。

あなたは今まで、多分・・、自らの在ること、・を差し置いて、
どこかの何か、誰かを追いかけていたのかもしれない。

われ在り・・いや、在ること、Being・・が、宇宙創成の自己存立原理である。

在るのは、時間空間など全く存在しない・・、

いま・・ここ・・、だ。

今・・在る・・・。






宇宙意識(4)天上天下唯我独尊

2015-03-13 07:38:36 | 意識の拡大
我々は常に無限性の中にいて無限を経験し続けているのだが、普段はそんなことなど何も感じないで生活をしている。

無限どころか、目先の生活・慣習のたぐいの処理に追われている状況では、とにかく忙しいのが良い事だとどこか自分に言い聞かせて、昨日(きのう)と同じことを延々としているのかもしれない。

あれをしなければ、これも急かされる、これを確保せねばなどという半強制的な感覚を受ける社会観念に流されて、小さくて有限極まりない世界の中で何とか頑張っているかも知れない。

それに、寝ても覚めても、何か心配することが、さも正当だというように一瞬一瞬を送っているのかもしれない。

「生活費どうするのよ、まだローンがあるし、子育てだってある・・あれも支払があるし、税金だって上がる一方・・・あー、」

わたしもあなたも多分そうだろうか。

いや今まではほとんどがそうだったに違いない。

しかしそれは、それとして、古い観念からおさらばしよう。、

それだけに嫌々引きずられる、お馬さんのような生き方からは卒業したほうがいいだろう。

気付いている人も多いのだが、既にこの世界のステージは変わってしまったのだ。

ところが、必死で人々を変わらせないような、相変わらずの飴と鞭のパフォーマンスをしている世界の役者が、焦りまくって演技をしている現状がわかるかもしれない。

また、そういう世界での派手で悲惨な演出劇に見入っている一般大衆からみれば、

「何言ってんの、何も変わってなんかいないじゃないか、生活や人間関係は相変わらずだし、政治も経済も愚かなことばかりじゃないか、戦争の話が大きく出てきているし。嗚呼、ローンだってあるしさ、家庭内も仕事場もハッピーばっかりじゃないし、一体どこが変わったんじゃ(怒)・・・」

そんな風に思うかもしれない。
・・・

しかしながら、ちょっと落ち着いて自己周囲を観まわしてみよう。

そして、自分自身の内面を観てみよう。

外の世界に落ちている事象、テレビやスマホ画面ばかりを観ていては、多分何も得ることはなかろう。

悪だ、善だ、悲惨だ、恐ろしい、金が足りない、もっと出せ、もっと頑張れ・・・
そんなことばかりが意図的に落とされているようなメディアの「腐った落ち葉」を拾う事、世間のチリやゴミを拾うことはもう十分すぎたのだ。

そうではないか?

人が行うべきことは、他者の騒ぎで作られ、煽られている面白・恐ろしげな外側の現象ではなくて、

そういう風に、

外の世界を見ている自分、それに関して何か感じて考えている自分、

その「自分」自身に・・・『気付いている』意識・・・になることだ。

不特定あるいは特定の『他者』にではなく、意識の中心を自己に据えるということだ。

その「自分」が在るからこそ、他人も社会も世界も在る、その事実に気付くことだ。


例えば仮に、あなた自身が死んだなら、どこにこの世界を見る者が存在するのだ?

それに・・・、この世に生れる前はそうだったろう?

毎晩眠ってから、朝次第に意識が浮かび上がり、目覚めるのは、誰か?

体は誰が動かしている?

お金や立場がどうしたという問題は、遥かに、2次3次的なことなのである!


この世界を見る聞く感じるところの、当の主体は「わたし」・・・にあるわけで、

大勢の他人が何百億ワーワー集まったとしても、この事実は変わりようがないのだ。


世界にあって、意識を通して内面から外側を観察をしている・・・中心は「わたし」以外にないのである。


「わたし」が中心といっても、私という1個人が世界の中心だという意味ではない。

そういう独裁的だとか独善的だとか、おバカ極まりない、個々別々の物を寄せ集めてなんぼというような、西欧的な枝葉思考はもうやめにしよう。

そうではなく、

世界を観ている意識・・としての「わたし」が、わたしの世界の全ての元に在るということだ。

それは創造の主体である神の自己存立原理と同質のものである。

決して大それたことでも罰当たりでもないのだ。

そういう外側の何かに尊さを求めるこころの姿勢は、これもまた時代遅れなのである。


デカルトは、「われ思う故にわれあり」と悟り、

マハラジは「わたしは・・・在る」と表現した。

それを釈迦は「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。





一人のみ尊いではなく、

<わたし>という意識・・・そのものが、

宇宙での唯一のもの、


当然ながら仏法の伝承者はそれを「尊い事」だという字をあてて伝わったということだ。

それぞれの「天上天下唯我独尊」の「わたし」が、現在この地球上だけでも70億以上存在するということだ。

道を行くすべての人が、今それに気付いていないからと言って、それに合わせることはない、その人の意識は自身でしか変えようがないからだ!

人が眠っていても、それはそれとしておくべきであろう。

どこか、今、あなたが自身の神性、それに気づくならばそれがいい。


何故なら、ある意味で、それぞれの世界には「わたし」しか・・・いないからである。

あなたの意識で生じている世界の最重要、最も尊い存在は「あなた」なのである。

「自己の本質に目覚める」とはそういうことではないのか?

多分、この世界まできて、実に長い間眠っていたからには、

それを、今、十分に、充分に自覚することが重要である。


かくあれかし。

 


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

宇宙意識(2)常に神は内に在り

2015-02-20 09:22:50 | 意識の拡大
人は皆、自分が自分である・・・という自覚意識を持つ存在である。

わたしは・・わたしである」という自己を自己で認識する存在であるともいえる。

それを 英語表現で、「I AM・・」という。

また「わたしは○○である」・・という「自己創造」する存在であるということだ。

そして、その自己創造を「意識している」存在である。

しかしながら、今迄大きな勘違い、あるいは小さく自己幽閉する観念が支配していたのがこの世界である。

その自己認識する自己とは、

表現された姿・形・機能をいうのではなく、その原因たる創造者のことである。


あなたが描いた「絵や作文」が、<あなた>自身ではない様に、

あなたの言葉、想い、身体自体も、<あなた>そのものではない。




ここで「あなた」「わたし」という人称表現を、考えられる最大、最小の範囲とすると、

それを「神」「この宇宙」とするならば、

「宇宙」とは、「神」の自己創造表現体・・・、言葉、想いや身体であるということだ。




宇宙は、様々な波動(つまり言葉)で満ちているだろう?

宇宙は、様々な想念形で満ちているだろう?あなたの(その都度の想い)はそれである。

宇宙は、様々な星系で(身体・肉体)満ちているだろう?

そうだ。

宇宙も何もかも、そうした表現形であり、それ自体に自らを投入しつつ、

その無限性を、まさに無限で在るがゆえに、常にその表現型が変化しているのだ。

そして、あらゆるものが変化しつつも、自らの自己創造のパターンを保持しているのである。



我々はそれを自然界の「法則」と呼んでいる。

人間が自然界に発見する法則、科学的、電気的、磁気的、統計的・・

我々の知っている、あらゆる分野での大小さまざまな法則は、

宇宙での神の自己表現の、自己創造のパターンを部分的に読み解いた結果なのである。


だから、ニュートン、デカルト、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク・・などの、

バリバリの唯物論者的な科学追求者たちや、その他のまっとうな科学者は、

自然界の仕組みの壮大さの一部に、否応なく触れることで、

おおいなる直観を得ざるを得ないのである。



科学の力、我欲の力を使ってどこまで遠くに行っても、

お釈迦様の手がそびえていたという、あの孫悟空の物語なのである。


宇宙は全て「法則」のもとに在ること、

それは無限性を表現するための手段であること、

その法則を作っている「何か」の意図・意識があること。

今日も明日も太陽が昇り、大気が循環し、水が流れ、

諸惑星は調和の中に周回しつつ、ハーモニーを生み出し、

それらの中心たる恒星は、無数に重合、離散、変化しつつもその位置を全うしている。




そして、

我々は、それをそれとして発見、観察しているのである。

我々は、例え部分的であっても、この宇宙を意識的に見ている存在である。

その宇宙、大から小までの事象を観察しつつ、

法という、宇宙を貫く・・・意識と意図を読み解き続けているのである。

それは、

大いなる神自身、宇宙の根源神、創造の原案、が、

そしてそれ自身が、人という意識的存在である、無数の<自己>を生み出しつつ、

様々な次元でその無限性をいちいち確認、発見し続けているということなのだ。

あなたもその無限の中にある者、

無限の発見を楽しんでいるところの意識的存在なのである。




あなたが自分のこころや肉体を「自己」と想起しているように、

神は宇宙を「自己自身」であると想起しているのである。

あなたが自己を意識しているように、宇宙も大いなる自己を意識している。

その宇宙を貫く意識が・・即ち『宇宙意識』なのだ。


「宇宙意識」は当然ながら、あなたやわたし達にも貫かれて在ることに、

十分に・・・十分に気づくべきなのである!


物量や数量、大きさや比較で判断する思考は3次元的閉塞観念だ、

それは既に十分すぎた閑念であり、破棄すべきものである。

今ある生活レベルでの閉塞感や鈍重感は、

社会的規範や規則、生活の為の3次元的な物量観念から来ているわけで、

ままよ、それはそれとして、この世界における学びやカルマとも捉え、

古い世界の消え去るまでの、残りわずか一時のおつきあいと弁(わきま)えつつ、


今現在の当たり前の生き様の中で、

自らが無限の創造根源意識、神の、その子供たちであり、

かつまた、無限から生じた、無数の神のひとり子たちであり、

そして神々であることを、願わくは、

今この瞬間にでも・・・悟るべきであろう




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

宇宙意識(1)世界にたったひとつ

2015-02-16 06:49:23 | 意識の拡大
人はその自覚の程度はあれども、皆「わたし」という自意識を有している。

あなたも、そして誰でもだ。

大変に身近すぎることなのだが、

「わたし」「われ」という自己意識は、世界を創り上げている中心だ。

中心というのは、それがなければ世界などないという「根源点」のことである。

あなたの世界で、「わたし」という自意識を有するのはあなた以外にない。

いやいや、人間はみなそうじゃないか、だから「世界で私だけって何よ」、というかもしれないが、

あなたの見る聞く感じるという世界の中で、あなたが・・・あなた自身だと感じている、
なんというか視点の中心というか、意識の自己中心点というか、そういう意識主体というか、

そう言う意味で、あなたの世界では「あなた」だけが存在している。

あなたの世界で、主体意識を有する存在は・・・「あなた」だけなのだ。

人は結局、皆そうじゃないかという直観はあるものの、
あなたがは他者にすぐさまなり替わることもあり得ないからには、
多分、あの人もそういう
「あの人の世界の中心である」・・ということが解るだけなのだ。

あなたの世界では、主体的な意識をもって、世界を見ている存在としては、
<あなた>しかいないという事である。

<わたし>の、歩く、走る、見る・聞く・感じる・考える・想像する世界の中心点は、
わたし・意識・・以外にないという事である。

これは当たり前のことであるとして無意識に見過ごしてきたことではないだろうか。

あなたの世界には、たったひとつの「意識点」としてのあなたしかいない。

宗教的に言うならば全ての意識を有する存在は「神のひとり子」ということである。

それを勘違いしつつ、何処かの誰かだけが「神の子」などという話に堕してきた。


象徴的に言うならば、

わたしの宇宙には「わたし」しかいない・・ということである。

この世界とは、それぞれの<わたし>が共同で創造している世界のことであり、

そうであるがゆえに、さも尤もらしく、客観そうに見えているだけのことで、

その中心は、その共同世界の「どこか」にあるのではなく、

あくまでもそれぞれの<わたし>であるということだ。


何言ってんの、中心が無数にあったらそれは中心じゃないではないか?

そういう観点は、全くの3次元的というか、物量的、計量的なものでしかない。

あなたが見る・聞く・感じる、考える、想像するところの「宇宙」、

その根源は・・・あなた・・なのである。

とは言え、

わたしが世界の根源である等と言っても、

そんなもの何も自覚せず、誰に言いつけられもせず、教育もされず、

目先の外の世界に目を奪われ、ローンを負い、子育てに奔走し、仕事で毎日疲れている、

表面上のわたし・・そのものという意味ではなく、

今まで、そういう意識レベルで頑張っていた・・その意識を生み出すところの、

わたしが<わたしである>という自意識、自己認識を生じせしめるところの、

本質のわたし・・のことである。

それを創造主だとか神だとか、根源意識だとか、宇宙意識だとか呼んできた。


本質のわたし・・あるいは魂・意識と言おうか、それは、

日常のどういう事もない、人としての「小さな自意識」を生じせしめているところの、

全ての背景に間違いなく存在している・・・大いなる意識・・・神なる「わたし」のことだ。

これはある意味で驚天動地とも言えることだが、単なる「事実」を述べているに過ぎない。

わたしや・・あなたがそこに在る・・事そのものを表現しているだけのこと。


本質では、あなたの意識する世界には誰もおらず、居るのは常に「あなた」である。

これはこの宇宙が生じている事実の相似形、フラクタル構造でもあって、

宇宙には、その部分と見えるものにも、

そのすべてが畳み込まれているという事を示しているのである。


この世界においてさえ、その小さいけれども「神なるわたし」・・に気付き、

さらに大いなる意識へと拡大する自覚が生じることを神は願っていることだろう。

それが普遍的な「親」の意識である。

そうではないか?






本日も拙い記事をご覧いただきまして、有難うございました。



どうやって解脱するのか (7)自らは無限性の体現である

2015-01-17 07:15:32 | 意識の拡大
人の身体は無数の細胞、分子、原子、素粒子、クオークで構成されている。

宇宙のあらゆるものが、そういう無数の段階のエネルギー波動またはエネルギー微粒子で創られている。

その数を数えることは、まるで宇宙の星の数を数えるようなもので、限りがない。

要は、・・・無限、限りが無い・・・ということだ。

はっきり言えるのは、

我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。

 ・・


「それが何か飯を喰うための役に立つのか?」という<癖になった低い観念>で誤魔化してはならない。

「それが現状の不幸に何か寄与するのか?」という<固まった思考>で打ち消してはならない。


あなたの手を見てみよ。

あなたの頭を触ってみよ。

足の感触を感じてみよ。

心臓の鼓動を手で感じて見よ。

それは偶然かつ・・当たり前のことなのか?





たとえわずかの五感感覚ではあったとしても、我々はまさに「無限」の一端を見て、感じているのだ。

ごく当たり前に、今生存していること、生きて在ること、

それは全くの奇跡の連続なのである!

かつまた、完全なる調和で生かされているのである!


それこそが本来、意識を集中すべき「事実」である。


世間を、社会を流れている、どうでもよい刹那的快楽観念、怖れをどこか増長するような観念、

ああ、体は弱いもの、病気は怖い、災害は恐怖だ、・・・・

それらを回避するために、銭・金・物を獲得して、やさしい医者に面倒みてもらい、

政治家に自分の都合のよい政策を期待し、結果いつも誰も責任者のいない社会に没落しつつ、

飯を喰うだけの為の生き方だけに・・・意識を集中していた・・・自らを返り観るべきである。


<意識を集中する>ものが自らの体験となる。

そうして、その体験を通じて、

喜怒哀楽や苦痛や快楽を体験しつつ、

そういう、あからさまな、逃げようのない感覚のおかげで、

自らの意識を調律しつつ、魂的な学習をしているのである。



70億と言われる地球表面上の人類は、そのために次元降下してここに来ている。

意識、想い、経験、結果と反省を通じて新たな境涯に移行している・・・それが人生なのだ。


それとも、一生を通じて富やお金、権力を得るのが目的なのか?

そしてそれで幸福を買えると思うことの、どこに真実がある?

死んだあともお金で何とかできると思っているのか?


セレブや富豪がどうしたのだ?

世界の支配層がどうしたのだ?

権力者が一体誰を幸福に、あるいは不幸にするというのだ?

そういう、生れること、死ぬことの本意すらも解らず知らずの姿態を攻撃し、あるいは憧れるのはなぜか?

実のところ、もっともらしい『他者批判』はすなわち『他者依存』の裏返しである。

それらをすべて投げ捨てなければ、決して本来の調和には戻れない。

何かありそうで何もない、後に出るのは懺悔と後悔、実にバカバカしいではないか。

そういうことを何世にもわたって経験学習するカリキュラムは既に飽和したものと心得るべしである。
・・・



大勢の人が我知らず、無意識レベルに沈み、世間という流れに浮き沈みしている有様を見て、

それが正しい事だなどと思い込み、自らもその中で「苦渋に満ちた安住」を求めていたにせよ、

既にそれは終わった観念体系なのだ。

今はそういう転換が、外側からも即ち地球、宇宙サイドからも行われているのである。

知らぬは仏なり・・・それに気づけるかどうか、2つに1つの分岐点である。


そう、今まで気づかず知らずに、どうでも良い世間的な情報の中にいたとしても、

あなたの身体も、その周囲のあらゆる事物も、まさに『無限』が結晶化しているということ。

それが気付くべき・・・「真実」なのである。




そうして、

身体を通じて、その無限の中の、

ほんのある一定の領域を観察しているのが我々人間という存在である。

見る・聞く・嗅ぐ・・・等の五感はその観察の一部分でしかないのであるが、

例え一部ではあっても、その無限につながっている壮大な「命の仕組み」、

あらゆる有限と見えるものが、まさに無数の・・無限の結実であることに、気付けるだろう。


ましてや、あなたという存在は、世間や世界の常識で決められるものではなく、

誰かが「こうだ」という類のものでもない。

それを言うならば、

意識的存在である人間は・・その意識及び意図によって、常に自己規定し、

その範囲の中で自己を創造、演じているのだ。



 


今までは、その他大勢の観念をその時々で採用しつつ、民主主義だとか社会調和だとかいう触れ込みを元に、

先導され、扇動されて、嫌々とし、喜々としつつ「共同で自己創造」していたのが・・・古い人類社会である。



あなたの身体は無数のエネルギーによって、極めて、極めて精巧に、かつ完全なる調和を元に創られているのである。

一体なんでこういう身体が出来上がっているのか?

自らの身体を少しゆっくり感じてみると良い。

医学や化学、科学が解明するだろうよ・・・というウソを真に受けてはならない。

細かなメカニズムを解明することで、身体のことが分るという観念は、

永遠の未来にそれが分るはずだという責任回避、現実逃避以外の何ものでもない。

・・・
今ここに在る・・事実を、

今その意識で可能な範囲で感じ取ること、

一度に全てが解らないからと言って、今耀いている事実に、

今こそ気付かなければならない。


はっきり言えるのは、

我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。

だから、あなたは無限を体現しつつ、それを観ている・・・存在、

それを昔からの概念で・・「神」というのである。

大きい小さい、重い軽いという3次元的な尺度は棄て去る必要があるのだ。

そう、全然と言っていいほど、十分に自覚せざれども、「神」なのだ。