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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界はすべて、それぞれの中にあり

2014-10-15 07:34:07 | 意識の拡大
我々のいる世界は、そのまま客観的に<自己>の外側にあるわけではないというのが本当のところである。
・・・・と言えば、そんなことはない、バカなことを言うなとなること請け合いだが、
本当は・・・・<自己>の外も内もないのである。

言うなれば、肉体の外と内とに、「存在原因の違いを想像し、それらを勝手に区切る」からこそ、
<自分>と<それ以外>という認識になるのだ。

それを分離とか言っている。

人々は、その<分離>同士のことであり、押し合いへし合いしていたわけである。
当然ながら、摩擦、苦痛や苦悩がそこらじゅうに出てくるわけだ。
その為に法律やら決め事やら、人生訓やらが必要とされ、なんとか曲がりなりにも社会が続いてきた。
この世界の人々は今までそういうことをしていて、それがしかたのない人間関係だと思っていた。

大体、人間関係には苦悩がつきもので、無条件にバラ色の関係など、ほとんど無かったはずである。
身近な者たち、親子、親類と言えども、尚更そうである。

そうだろう。

それは自己のことを「肉体」単体であると想いこみ、
その「肉体自我」を維持するために、必死になっていたという笑えない歴史と言って良いかもしれない。

そうやって単体自我で生まれ、そしていつの間にか死んでゆく、・・・
そんな人生を何百、何千億という魂が経験してきたわけである。

真実の<自己>、それを真我というならば、
真我とは全てを含んでいる<われ・わたし>のことであると言えようか。
あるいは「すべてはひとつ」という象徴的な表現のほうがピンとくるかもしれない。

ひとつ・・というのは、1個・2個でなく、「ひとつ」、つまりオール イン ワンである。

例えば、あなたが下ばかり見ていないで、その目を上げて、
更に夜空のさらに向うの、見えない無限の方向を見たとしたら、それは、

すべてがひとつ・・という驚愕の事実を見ている・・・ということだ。

こういう観方を、どこか「詩的」な捉え方だという場合もあるが、
世界のあらゆるものを、個別別箇の分離した物質の集まりとみなし、
1個2個3個と数えるような、分離した世界認識を・・・越えた「観点」を示している。

 
私がそこに見ている物も・・・、聞いている音も・・・、見上げる空の雲も、
<わたし>の意識する世界の・・・中に・・在るのであって、
どこか違うところにありはしないだろう?
 
わたしの知覚する世界の、あらゆる事物、事象は・・・要は、わたしの意識の中にあるわけだ。
 

自己の知覚する、感じる世界は、自己とは関係のない「別物」と捉え、
あまつさえ、それを自己の生存にどこか抵触するものであるとしていたのだ。

<わたし>が単に「肉体でしかない」・・と言うならば、
<わたし>の知覚する世界のあらゆる事物、事象は・・・要は、<わたし>の外にあるわけだ。
それを根底から覆す事象が、1つ臨死体験や体脱体験というものである。

実際に<わたし>意識が、肉体の外にもある・・そういう経験だ。
それは意識体験というべきものであり、現状で可能な物的実証の範疇外にある。
言わば次元が違うのである。

それが事実ならば、肉体そのものが<わたし>という、漠然とした信念は崩れ去ることになる。
古い固定観念に、がんじがらめになって身をすくませている人には、ちと困難かもしれないが、
これが事実認識されるならば、古い観念、信念体系はあっという間に崩れ去るのだ。

「おーい・おい、わたしは一体全体、身体以外の何者なのか?」それが自然な問いかけとなる。
人類に今起きているのはそういうことである。

「えー?、そんな馬鹿な?、そんなの頭脳の妄想に過ぎない」という反応は、
実際には、古い分離観念の滲みついた者たちの意見に過ぎず、
現象そのものを探究し、あるいは経験していくような、
<本来の科学的姿勢ではない>ということを知らねばならない。


空(くう)の中に・・・全てを含んでいるのが<わたし>・・・・
従って、身体の中に安住するわたしの意識としても、
あるいはそれから自由なわたし・意識としても存在することが出来るわけだ。

なぜなら、個別と見える人間の<意識>も、全包容的な<全体意識>の個別表出に過ぎないからである。

全包容的意識・・それを言うなら、いわゆるそれは<神>じゃないか・・という風にとらえられるかも知れない。
確かに神には外も内もない・・・つまり<全て>だということが理解できるだろう。

そう、全包容的意識がすなわち真我と言えるだろうし、また真我とは、
自己の世界の中心原因、根源とも言うべきものであり、
なるほど、そもそも根源には、内も外もあるわけはない。

例えば<あなた>も、<あなた>の世界の根源であるならば、実際のところ、
あなたは・・・・あなたの世界の全てであることが直覚でわかるかもしれない。

あなたの世界において、あなたはひとりであり、全てであり、
決して時空の1片としての塊、あるいはローカルな「肉体自我」のことではないことが解るはずだ。
・・・・
 
あなたの知覚する世界には、意識主体としてのあなたは、たったひとりしかいないとも言えようか。
それはそうだろう。
多くの人が、この共通世界にひしめき合っていたとしても、
それを<自己から観ている者>は、それぞれの、<わたし>だけなのである。
 
あまり良い比喩でもないのだが、それを言うならば、あなたの世界において、
泣いても笑っても、あなたが王国の「王」だということである。

だから、他人がどうしたとか、悪漢がどうしたとか、外の支配者がなんだとか、
そんなの全く関係ないのである。

乞食が実は自己を忘れた王様であったという、物語は本当のことなのだ。
それぞれのわたしの世界、無限にも拡大している世界とは、

わたしの手足でこね回して造っているわけではなく、
物質的革命や改革で作っているわけではなく、

主体たる意識、我ありという意識の光によって、投影されているものである。

こころが曇れば、日が差さずに、何が何だかよく解らず、
こころが晴れれば、世界は明るくなって、遠く深く見通すことが出来るだろう。

そしてこの世界、今までの世界がどこか見通し良くなれば、
さらに拡大された世界が観えてくることになっている。
 
ところで、それでいったい何が問題なのだろうか。
大笑いに笑える話ではないか。

どこか残された、それぞれの<わたし>の古い世界の残照を見ながら、
普通に生きつつ、そして朗らかに笑っていることだ。

わたしの映し出す立体映像を観ながら、自分で苦しむのは、それこそ相当に可笑しいだろう。






この世はリアルな幻想世界

2013-12-17 08:29:58 | 意識の拡大

 

 

この世は幻想である。

 

なにをバカな・・・・という人が多いかもしれない。

 

幻想と言っても、何かぼんやりと霞んで見えることではなく、しっかりした感のある虚構の世界である。

 

しっかりした感を作り上げるものが物質と呼ばれている、いわゆる「固い物」である。

 

固い物があるからこそ、現状を維持できるわけである。

 

しかし、我々の常識レベル、通常観念で固く感じる物は、どんどんミクロに分解してゆくと、何もなくなってしまう。

 

そこに在るのは目に見えない・・・もの、それをエネルギーと呼んでいる。

 

エネルギー自体は数字に換算することが出来る・・と科学では想定しているが、

 

しかしながら、誰もそれを見た者はいないのだ。

 

物質はエネルギーで出来ており、そのエネルギーは見えないものであれば、

 

物質も本質的には見えないものから出来ている、⇒ 見えないものである。

 

そうだろう?

 

でも見えている・・・ように感じている・・・。

 

見えないものなのにも関わらず、ある観点からは・・・あなたはそれを、見えるように感じているわけである。

 

 

「そうだ、俺も見えるぞ、見える、・・・

 

そうそう、わたしもそうだわ、世界は物だらけだよ、ねーあなたも見えるでしょう?

 

あなたもそれに従いなさいよ!」  というわけである。

 

 

そういう観点が集合して、常識観念が出来上がっているのである。

 

国や地域や、村や、世界組織、法体系にしてもその類の「観念体系」なのである。

 

多くの人々が、その幻想世界で、あーだこうだと騒いでいるのだ。

 

その波動的物質幻想世界を壊すことが出来るもの、核兵器等を持ちだしてまで、

 

あーだ、こうだと言い張っている極めて幼い霊的幼児たちを見よ。

 

ある一定レベルで、その幻想世界の仕組みを理解できない者たちが往々にして、核で滅んでしまうのは、問題を理解できなかったということを示している。

 

物資レベルを越えなかった者たちの拙い演技とはいえ、とんでもない幕引きでもあるのだ。

 

 

でも今回はそれが出来ないだろう。

 

物質はエネルギーで出来ており、そのエネルギーは見えないものであれば、

 

 

物質も本質的には見えないものから出来ているところの、・・・・見えないものである。 

 

 

また、エネルギーは波であり、有ると無いとの境を振動しているもの。

 

 

世界は、・・・有る~無いの間を振動している「波」が創り上げるものであるため、

 

森羅万象は変幻自在、万有変化しており、有るように見えて、実は無いのである。

 

 

また、無いように見えて実は有るのであるから、人間の小さな思考にとっては実に、ややこしいことになる。

 

どうして無いのか?、ずっと有ってほしい?・・・そうやって、銭・金・物を集めることになる。

 

地位や名誉、権勢、権力・・・それを集めることになる。

 

しかしながら、諸行無常、それらは続くはずもないわけだ。

 

物質はエネルギーで出来ており、そのエネルギーは見えないものであれば、

 

物質も本質的には見えないものから出来ているところの、・・・・見えないものである。

 

また、エネルギーは波であり、有ると無いとの境を振動しているもの。

 

 

世界は、・・・有る~無いの間を振動している「波」が創り上げるものであるため、

 

森羅万象は変幻自在、万有変化しており、有るように見えて、実は無いのである。れこそ、思考、選択次第で、気づけばあっという間に消え去るものである。

 

人生も権力も地位も名誉も同じことである。

 

違うだろうか?

 

あなたもわたし達も、そういうことを何十回と経験してきたのではなかったか。

 

 

・・・・

電磁波、光の磁場と電場の交互伝搬のように、

 

世界は、・・・有る~無いの間を振動している「波」が創り上げるものであるため、

 

森羅万象は変幻自在、万有変化しており、有るように見えて、実は無いのである。

 

 

 

それが、この世界はリアルな幻想という面白い仕組みの話である。

 

せっかく頭の固い西洋の科学者たちが、律儀に突き止めた真実、全ては量子でありかつ波動であるという発見を無駄にしてはならないだろうう。

 

 

この世はマーヤ(幻想)の遊びであるという東洋の英知と、その正反対の方向から1つ1つ肉薄してきた物質的精神追究のコラボレーションが既に成ったのである。

 

 

 

そういう思想のレベルでなく、これが事実である、また幻想である。 

 

 

 

そう、この世、この惑星も、リアルに見える、1つまとまりの幻想世界である。

 

 

夢を楽しくするのも、そうでなくするのも、それぞれの「わたし」次第ということが、

  

もう、解(わか)って・・・しまったのだ。

  

だから、くよくよしたり、マジになって苦しんだり、そんなくだらない遊びはもういらないのだ。

 

どんなときにも、朗らかに在ること、

  

 

そして時々でもいい、毎日でもいい、

  

こころの底から、大笑いに笑うことが、いわゆるこれからの・・正しい行為なのである。

 

 

 

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あなたは何か?という問いかけは誰がしている?

2013-12-16 07:34:20 | 意識の拡大

この地球上には今は70億人以上の人間がいる。 

 

言い換えるならば、70億以上の<わたし>達がいると言えようか。  

 

魂の体験のための駆け込み需要としても、実にすごい数だ。 

 

 

その、それぞれが皆、自分を自分と・・・認識しているわけである。 

 

それぞれが皆、自分は自分であり、他人は他人であると無条件に思っているということである。 

 

「バ~カ、そんなこと当たり前だろう」・・ということかも知れない。 

 

至極当たり前すぎて、話題にするのもはばかられることかもしれない。 

 

しかしいつも灯台元暗し、あるいは放蕩息子状態が多いもので、

 

肝心な点を度外視して、外の世界の中で動き回り、考えまくり、実際のところ何が何だか分ったような、わからないような、そんな経験知で終わらせてしまうことも多いのではなかろうか。 

 

外が忙しいからといっては、貴重な人生を少しづつ「経済消費」?してしまうことは、誰が誰にも、また何の言い訳にもなりはしないことになる。 

 

誰かが悪いからと言って、社会が良くないからといって、その証拠集めに奔走するだけに終わるのも、本質的には面白くもなんともないことだと思わないだろうか。 

 

他人のことは非常によく観えるが、自分のことはサッパリ、からっきしということは良くある話ではないか。

 

 

ところで、あなたはいったい何なのか? 

 

それぞれの・・・わたしとは何か? 

 

それって、もっとも追究すべきテーマではないのだろうか。 

 

それとも、そんなことは既に「知っている」のだろうか? 

 

 

思想、信条、男女、年齢、履歴、身長、体重・・・・そんなものは、本当の<わたし>ではない。

  

 

それらはテンポラリな私の属性ということが出来るが、言わば一過性なものである。 

 

・・・・

  

人は皆、俺が俺が、私が私が・・・ということで、他とは違う独自の<自分>を認識している。 

 

それが嵩じて、その独自の<自分>同士がいがみ合い、闘い合うこともある。 

 

大概において西洋的な文明・文化では、生き残るためには、俺が!、俺が!・・・・である。 

 

確かにこの地上で、人間だけがこういう<自我認識>を強く持っているわけで、それが知能のせいだというのがデカルト以降の考え方であろうか。 

 

要は、人間と、植物や動物との違いは、そのとびぬけた「知的能力」にあるとしているわけだ。 

 

確かに「私は、我が家の犬さんよりは頭が良いし、ネコさんよりも知恵がある」ということが言えるのだが、 

 

しかしながら、その知的能力、思考力、記憶力だけでは、例えば進歩したコンピュータの比ではないのも事実であろう。 それではコンピュータにかないっこない。 

 

だがしかし、コンピュータは人間たりえない。 

 

単なる情報処理だけでは、自己が自己であると、主体的に認識することは出来ないのである。  

 

機械に「魂」は吹き込めない・・そういう話である。 

 

右から左に情報が流されてゆくだけで、いったい何がそこに生まれるというのだろうか。 

 

分子や原子が集合・離散を繰り返すだけで、いったい何がそこに生まれるのだろうか。 

 

 

人間の着目すべき点は、演算処理、記憶能力のような、情報、記号や概念をいかに早くこなすかという知的能力のことではなく、 

 

自分が自分である・・・我あり・・・という『自己認識』なのである。 

 

つまり、わたしが⇒わたしであるということを知っている、 

 

 

あなたが⇒あなたであるということを「知っている」という意識的な働きのことである。

 

つまり自分を知る・・という意識である。

 

 

自己認識は知的能力によって生じるとされる所以は、この「知る」、「認識する」ことにあるわけだ。 

 

要は、自分が自分であることを・・・知る・・・という働きである。 

 

 

その「知る」とは、単に情報がインプットされる・・・量が増えるということではなく、それらの働き、動き自体を「観察している」あるいは「知っている」という総合的な認識のことである。  

 

 

それを例えるならば、映画を見ているということではなく、映画を見ている・・・こと自体を・・・観ていることである。 

 

 

夢を見ているだけではなく、その夢を見ている自分自身・・・に気付いている・・ということである。 

 

これを言うならば、わたしを観ているところの・・・高次の<わたし>という視座があるという事も出来るだろう。 

 

 

 

それは、もう1人の客観視が得意な自分がいるなどという平面的な意味ではなく、

 

今の自我、自己を・・・含むところのより大きな自己・・・の視座があるということだ。

 

端的に言えば、そういう視座とは、自分をも観察対象にするところの・・・より大きな自分・・とでも言えるだろう。 

 

 

よく言われるハイアーセルフとは、そういう視座にある自己とも言えるだろう。 

 

 

それは前世等、あなたのことを、あなたより知っているより拡大した<あなた>である。 

 

 

さらに言えば、今の人生に自己投入しているわたしを含む、より大きな<わたし>という意味でもある。 

 

 

 

だからなんでもアドバイスできるし、過去生や前世のことも知っているわけなのだ。

 

それはあなたの本質、魂と言ってもいいだろうか。 

 

あなたが今気づかない方向、後ろの正面、だーれ・・・なのだ。 

 

そう、

 

あっと驚く!為五郎(ちと古い)ではないのだが、

 

 

あなたを観ている者とは・・・・<あなた>以外にないだろう。  

 

 

より大きな<わたし>を簡単にイメージするならば、個々のクライアントPC(私)に接続している大型サーバー(ハイアーセルフ)のようなものだ。

 

それがさらに大きなシステムの中に含まれるところの拡大されたシステム、そんな感じだろうか。   

 

瞬時にデータのやり取り可能な大型システムのようなものであり、データから言えば、どれが自分でどれが自分ではないとは言えない。  

 

 

それを言うならば、全ては、さらにより大きな<わたし>というシステム内にある、無数の「私」のネットワークのようなものである。

 

 

もっとも、世間相場で言えば、自分とは個々のコンピュータであるぐらいにしか感じていないわけである。 

 

それをスタンド・アローンという。   

 

何処とも切り離されて、自分ひとりで立っていると<仮に>認識しているわけだ。 

 

・・・・ 

 

森羅万象のなかで、自己が自己であることを認識していることは、とてつもなく神秘的な事であると思わないだろうか。 

 

 

そう、神・・・秘・・・である。  

 

 

それは言わば神にとっての楽しい秘密遊び、かくれんぼ遊びかもしれない。  

 

 

自分が隠れて、自分で発見して行くようなそんな遊びである。  

 

 

わたしは・・・嗚呼、なんだ・・・それも、わたしであったのだ、 

 

どこにでも、・・・我在り・・・・・、 

 

 

自己認識を有するまでに拡大した意識、それぞれの<わたし>は、その途方もない遊びを理解することが出来る存在なのである。  

 

 

今、この地の人々は・・・、俺だ、俺だの自我に固まっている殻を破り、エゴの古巣から抜け出して、  

 

 

より大きな<わたし>を発見してゆく、意識の進化ベクトルへと大きな転換をしている最中なのだ。   

 

 

あなたを観ているところの、あなたであるハイアーセルフは、そう言っている気がしないか。

 

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意識次元を上げる ②アルファ波に乗ろう

2013-12-15 04:02:11 | 意識の拡大

人の精神状態がゆったりしてリラックスしているならば、こころにストレスがないことを意味している。

 

それは脳波で言えばアルファ波の状態とされている。

 

またストレスや精神的な緊張は主にベータ波で生じるものである。

 

とはいえ、ベータ波が悪ということではなく、それが乱雑でとりとめのない、緊張の多い精神状態ということなのだ。 

 

なるほど、ストレスこそが現代社会での万病の元であることは、今は常識となっている。

 

そしてそのストレスとは物質的なことではなく、ある精神状態のことを意味しているはずだ。

 

 

 

例えば、ある人の前にいて、どこか不快感を感じているとか、こころ穏やかでない状況にあるとか、そういうことが続くとストレスが蓄積し、へとへとに疲れてしまうことにもなる。

 

つまりストレスとは、「こころ」の中で何かが重く引っ掛かっている、あるいは精神的な葛藤があるということと言ってもいいだろう。

 

 

嫌だな~・・という「こころ」のパターンを無意識のうちに強く維持することで、例えば胃のあたりが重くなり、それが形態化に進んで胃潰瘍や慢性胃炎になる人もいる。

 

かなり真面目な人である。

 

多分、誰しもどこか似たような経験があるはずだ。

 

 

ところが、それらがどうして出てきたのか、当初はトンと気づかないのだ。

 

えー? トラブル? 病気? なにこれ? やだね~、

 

それは自分の事ではなく、誰か他の人か、学校の先生か、お医者さんの解決することだと考えている人が多いかもしれない。

 

そう、

 

その根本にあるのは、自分に起きることは、自分のせいではなく、不特定他者のせいだというような無責任な観念なのである。

 

誰か!・・・何とかして・・!

 

ある意味では、精神的に乳離れしていないとも言えようか。

 

 

 

世間全般見渡せば、世間という無意識集団に沈んでいるか、

 

 

 

あるいは自己主張と同じ根っ子の他者批判のオンパレードのいずれかであるかもしれない。

 

 

 

一体誰が、自己批判やら、反省やら、自己観想やらをアピールしているのか。

 

 

 

なるほどそういうものは大衆受けしない、つまり人気がないということだ。 

 

 

ところで、外の世界をいじくって、あの人が、あの組織が・・・きっと良くなるはずだとというような、どこかお花畑観念の人が多すぎないだろうか。  

 

 

 

変えるべきは、自分以外にない。  

 

 

それが真実である。

 

 

 

 

今回、それに気づけるかどうか、ただ、それだけだとも言えようか。

 

 

・・・・ 

 

 

 

 

自分のこころの状態と、自分のの状態との強い「相関性」は明確である。

 

 

 

同じく、

 

 

 

自分の意識の波動レベルと、経験する周囲世界との強い「相関性」は明確である。

 

 

 

 

 

それを真に理解することが魂レベルでの自立というものである。

 

 

・・・・

 

いわゆる「物質」や時空環境は、こころの表現の為の「素材」や舞台のようなもの。

 

こころはプログラムであり、それが現象として現れるのだ。

 

そのプログラムは、それぞれの「わたし」が、精神という変幻自在の用紙に書き上げるのである。

 

毎瞬毎瞬、思うこと、感じることがそのプログラムである。 

 

逆に、物質素材がこころを決める等ということは、天地裂けてもあり得ないわけだが、

 

形、物質そのものが「心」を作り上げるなどという、地球上でもっとも愚かで根拠のない、植えつけられた漠然たる大衆信念は、さっさと捨てなければならない。

 

 

宇宙は、森羅万象は、あらゆる時、所を通じ、内側から外側へと展開しているのだ。 

 

これが本当に理解が出来るならば、人は外の世界ではなく、自己の意識状態、こころ模様の方を重視することになるのは火を見るより明らかではなかろうか。 

 

 

全くもって余計なお世話なのだが、・・・・

 

全ては、そしてあなたの世界は、あなた自身のこころのパターンが展開しているだけであることに、 

 

あなたは本当に気付いているだろうか。

 

・・・・

 

そしてここで云わんとしているのは、 

 

そのこころの在り方が妥当かどうか、調和があるかどうか、その1つのバロメータになるのが脳波ということなのだ。

 

人類は今、ベータ波が主流な状態から、アルファ波的状態に移行しなければならない時期にあるとも言えよう。

 

 

重く粗い意識から、軽く精妙な意識への移行の事である。

 

複雑怪奇でわけのわからない緊張と混乱の意識状態を卒業し、

 

それらを肥やしにしたうえで、

 

おおらかで心地よい意識状態へと開花する時に来たという事である。

 

種が土の中でうずくまり、エネルギーと力を蓄え、

 

光の少ない土塊の次元を打ち破り、勇躍天地へとその姿を伸ばす時期なのである。

 

・・・・

 

人が、大自然の中に在ることは、それだけで脳波がアルファ波に移行することになる。

 

自然の美しさや壮大さ、調和と変化の中にいる自分をそのまま感じているだけでそのようになるのだ。

 

これは極めてシンプルな、ある一定レベルまでの意識の拡大・上昇方法とも言えるだろう。

 

ただし、その中にあっても「頭」が何やかやという問題で占拠されていたり、心配事で悩んでいる限りは、大自然の中にあっても、心ここに在らず・・・という事になって脳波ベータ波のままで終始することになる。

 

さらに、人が何かに、例えば絵画や芸術、音楽に感動している意識状態でも脳波はアルファ波になっている。

 

あるいは、人に対する、無条件の思いやりや、小さな親切をした場合にも、こころはどこか晴れやかにリラックス出来るはずである。そういう場合は脳波も一瞬アルファ波になっている。

 

つまり、脳波で云うアルファ波の意識状態では、こころが安心や快活さ、感動や晴れやかさを感じているのである。

 

 

また特別な分野での達人、名人と言われる人達や、匠(たくみ)といわれる人達の脳波はアルファ波が主流になるのである。

 

そういう人たちが創意・創作作業にある時には、緊張のない集中と、慣れ親しんだ行為による安心感と、常に何か新しい創作ヒントを求め続けている真剣さがある。

 

そこにはオドロな感情の絡み合いや、複合された悩み事等は寄せ付けることが出来ない。

 

すなわち、それがたとえ一時であろうとも、いわゆる「無心の境地」にあるということである。

 

別に芸術に限ることもなく、人間のこころが、妙な緊張感なく、快活でかつ研ぎ澄まされている状態にあれば、気付く気づかないにかかわらず、その意識レベルは拡大している。

 

こころの中にノイズや異物のない場合、こころが晴れやかで、穏やかであることは誰でも分るはずだ。

 

快活であり、晴れやかであり、穏やかで、かつ研ぎ澄まされた感覚、

 

嘘や隠しも見通せる意識の状態、

 

そういうこころの状態を称して、意識が拡大しているという表現をするのだ。

 

 

散歩をしていても、登山をしていても、何もせず座っていても、

 

人間のこころが、妙な緊張感なく、快活でかつ研ぎ澄まされている状態にあれば、意識レベルは拡大しているのである。

 

意識の拡大というもの、それを科学的に推し量るバロメータの1つが脳波であり、脳波がアルファ波に移行することでそれを観測できるということである。

 

だからと言って、神経質になって脳波測定器を頭につける必要はない。

 

それでは元も子もない。(笑)

 

 

何かにこだわらず、何かをやりつつ、自然体でそこに在ること、

 

それが出来るようになれば、

 

あなたは「幸せ」というフィールドにあるという事である。 

 

それはまた今、今、この瞬間に選べるものである。

 

 

そう、

 

幸せであることに・・・・・どんな条件も無い、

 

 

嗚呼・・・朋よ・・そうではないだろうか。 

 

 

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意識次元を上げる ①ベータ波を解消しよう

2013-12-11 08:32:14 | 意識の拡大

人の意識にはレベルがある。

 

レベルとは、高い低いという範疇の感覚もあるが、その意識レベルを上げるとは、

 

より高い見識から物事を観察、経験することが出来る状態への移行とも言えるだろう。

 

それが最も受け入れやすい、言わば常識的な観点からの表現であるとも言えるかもしれない。

 

しかしながら、意識のレベルが上がる、あるいは高い見地から物事を見るという事は、単なる考え方や観点の違いだけではなく、

 

体験そのものの本質的な味わいの増大というか、得られる経験知というか、言わばそういうものが深く大きくなることを言うのである。 

 

「あなたはそういう考えね。私はそうは思わない」・・・とか、そういうレベルの話ではない。

 

また、競争社会に適応した、自称「頭の良い」人とか、自称「頭の悪い人」とかのレベルの違いではない。

 

それに自称・知力の優れた人というのは、意味のない複雑なものばかりを作り上げてしまい、霊的成長にはあまり役には立たず、逆に往々にして障りとなる場合が多いのである。 

 

今の世の中を見ればよくわかるだろう。 言わば政治・経済なども昨今はベータ波だらけだ。 

 

笑いごとではないのだが、そのうちβ崩壊?を起こすのが見えているではないか。(笑)

 

・・・・・

 

意識レベルとは、魂としての表現、体験、知覚レベルの深さ、広さのことであり、 

 

思想や信条の違いなどという単なる観念カテゴリーのレベルではないのだ。 

 

魂としての表現、体験、知覚レベル、意識レベルが深化、拡大することは、『宇宙意識』というレベルへの大道を勇気凛々と進むということに他ならない。

 

意識レベル、 

 

それを現代人が比較的容易に理解する1つの切り口は、人間の脳波であろう 

 

頭脳周辺の電気的微振動を検知すれば、色々な「意識状態」によってその波形や振動数が変わることはずいぶん前から知られている。 

 

脳波には、主にベータ波アルファ波シータ波デルタ波という、記録される電気振動の違いがあることが分っている。

 

日常の乱雑で忙しげな活動で生じる脳波は、「ベータ波」で分類され、

 

創造活動中や、安心してリラックスした意識状態での脳波が「アルファ波」とされている。

 

また半覚醒、瞑想での拡大された意識状態では、「シータ波」という脳波が支配的になり、

 

人の完全な睡眠中は脳波は「デルタ波」となる。 

 

レム睡眠(浅い眠り)、ノンレム睡眠(深い眠り)での交互に起きる睡眠中の脳波は、シータ波~デルタ波の間であり、夢見は主にシータ波である。  

 

 

要は、 

 

 

 

あなたもわたし達も、毎日こういう脳波でも表現される、異なった「意識状態」を通過しているのだ。  

 

人は皆、気付く気づかないにかかわらず、毎日異なった意識レベルを体験しているということ。

 

 

灯台元暗し・・ではないか。 

 

 

自己観察、黙想、瞑想などの内面的な・・・、意識レベルの遷移を行う者は、この微妙で確実な「意識レベル」の違いを内部感覚的に理解することが出来る。 

 

 

そう、自己感想、内観、瞑想などは、脳波が異なるフェーズに、意識的に自らを遷移させる古代からの「技術」なのである。 

 

知っていただろうか。

 

 

瞑想、黙想、こころの静謐、内観というものは人の成長にとって必須な意識的行為なのである。 

 

 

これに気付かない人々は、黙想や瞑想のように、眼を瞑るか半眼で端坐している姿を見て、 

 

 

「あやつは、何をしているのか?」  

 

「いや、何もしないで・・・、何をやっているのか?・・え・・」  

 

「あんな非生産的なことで何が得られるのか?」  

 

・・・・等と訝(いぶか)しむものだが、そういう人は、常に緊張や、五感刺激、肉体感覚、知的概念の組み合わせに奔走するだけの世界、言わばベータ波的世界に埋没しているということが出来るだろう。   

 

こまごまと、忙しくしていること、あーだこーだ・・・という喧噪のなかで自らの正当化に終始しているようである。  

  

それこそは、カゴメの中の鳥のようなものだ。  

 

ニワトリのような飛べない鳥、あるいは海の中に沈潜したままで洋上の明るさを知らない魚、あるいは現象のマトリクス平面に自らを織り込んで、身動きの取れない人型アップリケのようなものかもしれない。   

 

嗚呼、でも、それはもうやめようか。 

 

・・・・

 

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五感の刺激や、特殊な思考や問題意識から注意を外し、

 

ただ黙って静かに黙想することだけで、まず人の脳波はアルファ波に移行するのである。 

 

無心の境地とかにこだわらなくても良く、いや出来るだけ何にもこだわりなく、そこに在ることが出来れば良いのだ。 

 

アルファ波では、リラックス、静穏、インスピレーション、発想等を体験しやすくなるのである。

 

これに馴れれば、普段の生活もベータ波的なものから、自然アルファ波的なものに次第に移行することになる。

 

 

この大きなシフトに関しては、すでにお分かりのことだろう。 

 

・・・・

脳波で言えばベータ波は現実生活の最中に発生する脳波であるとされているが、

 

これは意識活動、思索、感情、という精神活動が、極めてランダムで、乱雑この上ないことを意味している。

 

神経質、恐怖や怒り、騙しや嘘なども、こういう落ち着きのない意識状態で起きていることに気付かなばならない。 

 

例えば人間関係に緊張やコダワリがある場合には、脳波はこういうベータ波である。 

 

慌てていたり、争いやバトル、怖れや極端な感情の噴出なども、このベータ波の時のものなのだ。  

 

また、こういう意識状態は脳波以外にも、身体感覚での知覚、モニターが可能である。 

 

例えば、何かに特に悩んでいる時には胃が重くなったり、恋焦がれている時には胸が熱くなったり、何かのショックで驚くときには背中あたりがぞ~っとする感覚が生じたりするのは誰でも知っているはずである。 

 

これは、人間の精神活動が身体全体に影響を与えていることを示している。 

 

全くの無意識ではあっても、身体全体は人間の意識活動に伴う様々な信号を発生させているのである。 

 

そのモニターの1つが脳波ということになる。 

 

すなわち、粗いベータ波的な精神状態が続けば、その緊張やストレスでいわゆる病気にもなるということである。 

 

 

身体は意識的な働きによって生じる電気化学的な反応によって影響を受け続けるがゆえに、健康であるか、あるいは病気や疾患にもなるわけだ。

 

そういう、こころの働きによって、直接的な病にもなるし、ウイルスや細菌のような外来的な要因による生体化学的な擾乱を呼び寄せるような、体験形態パターンを創るのである。

 

病は気からとは、けだし至言ではないか。

 

 

体は体であると同時に、意識活動の元にある「魂」の乗り物であるということ。 

 

体は魂の意図によって、どんな車種にもなるし、どこにでも進んでゆく車のようなものである。

 

でこぼこ道を進んで気分が悪くなるのも、快適な道を進んで爽快さを経験するのも、エンストして補給、修理不能状態で立ち往生するのも、  

 

ドライバーの整備と運転技量次第であるのと同じようなものなのだ。  

 

 

またさらに大きく言えば、どんな車種や機能を有する車体を選択するかも、意識レベルの進化拡大の大道を歩くところの、魂の選択によるものである。

 

 

そうやって、今・・我々は・・・ここに在るのである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。