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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂は多次元構造体

2013-09-14 07:52:47 | 魂の諸相

●地球も多次元構造体

 

地球も多次元構造であり、一般に地上世界、霊的世界という次元層があるといわれている。

 

ヘミシンクでは複数の意識フォーカスレベルでその次元層が説明されている。

 

幽体離脱や魂の体脱、アストラルトリップ等と言われるものは、その次元層間の往来のことである。

 

ちなみに下記の記述は、坂本正道さんの著にあるフォーカスレベルの説明である。

 

面白いのは音階♪のオクターブ、ほぼ7ステップ毎に記述されているところである。

 

また、人間の意識のフォーカスレベルの移行に伴い、観測される脳波は、

 

β波、α波、θ(シータ)波、δ(デルタ)波へと移行することも知られている。

 

またこれは瞑想での意識遷移に伴う脳波の変化にも相当しているのだ。

 

以下坂本氏著作より抜粋

・・・・・

フォーカスレベル (とは)

   自分(意識)がどれだけ物質的な世界から離れたかを示す目安と考えていい。 

   意識状態そのものを言う場合と、その意識状態で把握される世界を言う場合とがある。

 

フォーカス1  はっきりと目覚めた状態。物質世界(この世)を把握する状態。

 

フォーカス10: 肉体は眠るが、意識のはっきりした状態。 

フォーカス12: 知覚が拡大した状態。意識が体の束縛から自由になる。 

フォーカス15: 時間の束縛から自由になった状態。過去や未来に行ける。 

フォーカス21: こちら(Here)とあちら(There)をつなぐ架け橋の領域。

 

   <フォーカス23-27: 死者のとる意識状態。死後世界。> 

フォーカス23: 囚われの世界、物質界のすぐそばにい続ける人たちのいる領域と、

         自分の想いの生み出す世界にひとりで囚われている領域がある。

         俗に言う幽霊もこの層にいる。 

フォーカス24-26: 信念体系領域。同じ信念、価値観、考え方を持った人たちが集まり、

           その共通の想いが生み出した世界、信念に応じた様々な世界がある。

フォーカス27: 輪廻の中継点。

         輪廻が潤滑に行なわれるようにサポートする色々なセンターがある。

 

(・・・↑ ここまでが地球の次元層と考えられる)

フォーカス35: 地球生命系への出入り口がある。異生命系から生命体が

         多数地球を見に来ている。

 

フォーカス42: 太陽系から出て、他の恒星を探索に行ける。 

フォーカス49: 銀河系から出て、他の銀河を探索できる。銀河系コアの探索もできる。 

         I・Thereクラスター(魂の大きな集合)の無限個と思えるほどの集団がある。

以上参照抜粋。

 

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私事ではあるが、

ちなみにこの分類で云えば、実に断片的ではあるものの、自分はフォーカス42あたりまで経験しているかもしれない。

 

ある時、寝ている状態から何か意識が変化し、どこかの恒星系に一瞬で移行したことがあり、そして周囲の雰囲気が普段と異なる環境に気付いた瞬間から、後ろ向きに必死に?なって還ってきた(意識的な)経験がある。

 

また同じように地球大気圏から出て、太陽の内部に一瞬で移行したような動的ビジョンもある。一般には信じられないだろうが、太陽には実に愛深い存在達がいるということも知った。

 

「 信じらんねえ~」かもしれないが、事実は小説よりも奇なり・・なのだ。

 

経験すれば分ることだが、そういう意識状態は、通常の夢とは異なるわけで、なるほどそれは体脱の経験、あるいは意識の旅行のようなものであるかも知れない。

 

当然それは肉体五感による直接的な知覚ではなく、肉体の上位層、多分アストラル体による経験のようである。

 

だからどうだという事ではないのだが、要は、リモートビューイングのように、『意識のチューニング』によって、遠隔地や異なるフィールド等にもアクセスが可能であることは確かなことなのである。 

・・・・

 

 

宇宙、存在諸世界、あらゆるものは、有意味なと言おうか、あるいは面白いと言おうか、

 

いわば創造主の楽しく、愛深い・・・想いが遍満しているということだ。

 

人がそれなりに自分の世界で様々な想いやその表現、行為をしているように、

 

全宇宙あるいは存在諸時空も、さらに壮大無比な神の想いが表出しているということなのだ。

・・・・・・・・・・

 

●人間の本質は多次元意識体

 

霊的世界も色々な層や特徴があるのだが、物理的肉体での経験ではない世界のことである。

 

我々は実はそういう多次元構造世界に生きている「魂」であるという事ができるのだ。

 

魂も同じく多次元構造体であるが所以である。

 

「体」と言っても肉体だけのことではなく、複数の多次元を包含する霊的ボディのことであり、肉体とはその一番外側の層、十二単の外衣のようなものである。

 

まるで転生とは、家では外衣を脱いで過ごし、表に出る時はそれを着るようなもである。

 

それも転生ごとに、毎回衣装を変えて気分を一新するようなことでもある。

  

ある意味でかなりな贅沢ではないか。

  

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(人間という意識体の階層構造の簡単な図)

     Cnt2003041

(上図はひっくるめて意識体としての人間であり、いわゆる3次元的世界とは、最外層の肉体レベルの世界のこと)

 

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●次元の違いは意識の違い 

 

その次元の違いはとなると、距離や時間でなく、例えばクオークの顕現振動の違い、あるいは位相の違いのようなものであろう。

 

位相あるいは振動数が合わないと共鳴現象が起きない、すなわち知覚されないのである。 

 

「あの人超嫌い!ぜーんぜん波長が合わないもん」 等という話も、共鳴しないから・・離れていく・・という波動現象を直観的に言った言葉である。

 

・・・

 

素粒子が観察者の意識に干渉される・・・という量子理論でうかがえるように、

 

物質の究極微粒子であるクオークは、複数の顕現位相、または振動数の違い、複数の存在周波数帯域があると考えられるのだ。

 

そして、その究極微粒子、あるいはクオークは人間の「意識波動」に沿って、その顕現相を変えるような仕組みとなっているのかもしれない。

 

簡単に言えば、窮極のクオークは・・・人の観え方、観じ方によって、いかようにもその表現形態を変えるということである。

 

もっと簡単に言えば、人間の「意識」によって表現形態を変えるということだ。

 

これは、観察すること、すなわち意識的に見る、観ることで素粒子の挙動に変化を与えるという量子論的解釈を包含する考え方である。 

 

またそうでなければ、念力現象や直接的物品引き寄せ、念写やスプーン曲げなど起きるわけもない。

 

要は、それらは全て人間の「意識」が介在しているのである。 

  

人の周囲に展開される、あるいは投影される世界は、その創造の中心である「意識体」である、あなたやわたし達の感じ方、観かた、確たる想い、信念などという「フィルター」を通して表出しているのである。

 

どんな屁理屈を言おうが、無視しようが、他者がどうだと想っていても、

  

何がどうであろうと、ちょうど・・・信じている・・・その・・・通りの自己の表出なのだということに気付けるだろうか。

  

だからまず想いや感情、信念を入れ替える、こころを入れ替えることが最重要なことなのである。

 

逆に、余計なお世話なのだが、銭・金・物、経済、強迫威力や地位や権威、そんなものを集めて・・一体全体どうするというのだろうか。

 

自らがミニ創造主であるという自覚・・・これが例えほんの少しづつではあっても、ひとりひとりで理解されてゆくことが、新しい世界への移行、あるいは新たな創造につながってゆくのである。

  

よく言われるアセンションとは・・・そういう事なのだ。 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


続) 生まれ変わり

2013-08-15 08:46:59 | 魂の諸相

 

 

●親和と同調の法則

 

様々な波動重合の結果としての世界構成、そしてシナリオ的要素である人間の想念によって作られる世界は、地上界とかその他のフォーカスレベルでも違いがない。

 

なるほど、地獄や天国はこころで創られる・・・という言葉は単なる比喩や諭しの言葉ではないのである。

地上界、幽界等となんとなく人類の感情的、感傷的、あるいはネガティブな観念のまとわりついた表現で云われる場合があるわけだが、要はそういう事なのである。 

 

要は、全ては全てに対しての同調と調和、魂たちの居る世界は、その進化レベル、意識の表現レベルに同調した結果に過ぎないということだ。

 

これは親和の法則とかあるいは共鳴同調の法則とも言えるものだ。 

・・・

 

例えば当人が行く学校は、当人が選ぶように、体験フィールドとして選択する世界は、魂・意識の自由意思にもとずくわけであり、誰かが勝手に右だ左だと指示するわけではないのである。

 

なるほど、この3次元世界ではよく試験のようなものがあるものだが、魂の経験先を選ぶのは本質的にその魂の意識レベルと、その中での自ずと抽出されるところの意図以外にはなく、赤の他人の指示・命令などというものがあるわけもないのである。 

 

つまり、本来の魂レベルでは、様々な時空間、存在諸世界の波動域そのものには何ら影響を受けることはなく、自由自在に自己の表現形態を選択できるのであるが、 

 

しかしながら人間世界で培ってしまったようなエゴ、個我的な想念による、わがままな選択はどうも出来そうにないのも確かである。

 

俺は金持っているから、社会的地位が高いから・・・・、そういう想いは逆に「重り」となってしまうのである。 これは昔から言われてきたことである。

 

えー、それでは自由意思ではないじゃないか・・という事にもなるのだが、確かに自由意思なのである。 

 

これはどういうことかと言えば、

 

進化を旨とする「魂の」自由意思のことであって、魂の演技体のほう、例えばある時空舞台に生きている、肉体個人我の歪み切った想いでの選択には依らないということである。

 

魂レベルではおのれの成長すべき事柄の何たるかが良く分かっているのである。

 

言葉に制限があるのだが・・、魂達は神の子、創造主の子達であり、転生によって未熟な部分を成長させることがその目的であるからだ。

  

子であること、成長することも・・・また楽しいことだからである。  そうではないか?

 

存在が・・・どういう境遇に、どこの世界に、・・どこから来てどこに行くのか、それは、嘘や隠しも出来ない言わば純な魂レベルの意識の発露が決めることである。 

 

・・・・

 

●自己研鑽は魂の大道に乗っていることを示すもの

 

こういう話は、

 

わたしとは何か。。どうして生きて在るのか、、世界となにか・・

 

そういうテーマにどこか真剣に取り組む人生であるならば、自ずと理解されてゆくことになるだろう。

 

何故ならば、そういう何か未知へのチャレンジを通して魂の成長する方向性、魂・意識進化のベクトルというものが、その意図によって既に生じているからだ。

 

人生とはそのためのものではなかったか。

 

これは、何も昔からある行者の生き様や、修行僧のこころ姿や、悟りを目指す高邁な精神性だけの話ではなく、 

 

人生とはある意味で「魂の修行」のようなものだと喝破し、世俗の欲はほどほどに、その与えられた人生の大道を歩く自覚に目覚めた者達の、意識の進展・開花の方向を示す方向指示器なのである。

 

・・・

 

●身体は外の経験のために与えられた衣服のようなもの

  

人間社会の1つの理想的な思想の中に「最大多数の最大幸福」なるものがあるが、

 

魂レベルではそれに似たような法則があると言っても過言ではなく、それは魂の方向性というか、あるいは歩むべき道というか、魂の進化・拡大に相応しきベクトルが間違いなく在るということなのだ。

 

何でもかんでも偶然で生起するような無意味な物事などあるわけもなく、ある時には行き当たりばったりに見える断片事象でさえも、無限に壮大な魂の遍歴の絵巻物語の一部であるようなものである。

 ・・・・

 

物理的次元において、我々が必死で護持しつつその保身に明け暮れているこの肉体は、魂のまとう階層衣服の1枚に過ぎないということに気付かなければならない。 

 

こだわるでもなく、忌避するでもなく、それはそうだと喝破することである。

 

存在形態の一番外側の身体、また物理的身体であるこの肉体は、この地球の意識によって生み出されている、物理的次元で用意される衣服のようなものであるということ。 

 

肉体とは、この世界に下生してから・・・頂いたものだと考えた方が良いはずではないか。

 

そう、ある意味で肉体とは、大自然の中で有機的な生体組織として用意される、この次元用の『観測衣服』とも言うべきものであろうか。 

 

そういう肉体生存形態は、さらに高次のレベル、個々、あるいは集合体を構成する『魂たち』の表現の為のものだということだ。

 

またそれら時空間を超えた存在形式を有する『魂たち』は、この地球次元のみならず、実に宇宙大のステージを往来する旅人のようなものである。

 

何せ魂・意識の転移する世界は、この地球のみならず見渡せる無限の星々のごとくまさに無数にあるのだ。 

 

イエスの言った言葉、「天には住まいがたくさんある」とはそういう事であり、また地球という住まいもその1つということだ。

 

天に住まいは無数にあるにも関わらず、今までの地球上の人類意識は、それを宇宙にたった1つしかない・・?としてきたのは、まさに中世のあの天動説のような頑なな自画自賛的な固定観念から来ているのである。 

 

聖書にも、土の塊に・・「命」が吹き込まれたと書いてはいなかったろうか。

 

・・・・

 

●時は既に満つ

 

この肉眼で見える範囲だけでも無数にある宇宙の星、星雲、星団、銀河、銀河団を前にして、

 

その雄大な無限の宇宙に関して、その意識を向ける範囲が、たった単なる想像的SF小説だけである等ということがあり得るわけもないだろう。 

 

木を見ても、森が見えず・・・・それは1本の木だけに意識をフォーカスしていたからだ。

 

この地上に行き交う人々の魂の経験とその昇華が否応なく行われてきたその結果、

 

そう、未だ小さいけれども、次第に木だけでなくそれを含む森の全貌が姿を現してきたのである。

 

今の時代、何がしかの気づきを促す現象は相当数に増大していること、押しつけがましくない証拠が実は増大しているといえるのだ。 

 

今は相当数の未確認飛翔体も出没している現実がある。

 

何でもかんでも嘘だとか、どこかの国の新しい兵器や航空機などと断定すべきではないはずだ。未知なるものへの恐れも期待も、どちらも全く不適当な対応でなのである。

 

要は宇宙への認識が広がってきたという事、壮大なステージでの仲間が増えた事を単に示しているのである。

 

また人間の生まれ変わりに関する学術レポートや書籍、あるいは統計なども増えている。

 

そういう中にある過去生の記憶とその時代検証の一致等も、全て偶然としてしまう頑迷さは、さすがに捨てなければ到底次には進めない。

 

臨死体験における意識の遷移や、その時空を超えた存在である「わたし」の体験記録も増えてきた。

 

その全てが脳内ビジョンの類(たぐい)だとするならば、あなたや私の実生活さえも脳内ビジョンの類となるはずだ。(笑)

 

何時までも、おもちゃ大好き、物欲大好きの、脳内オタクであるわけもなかろう。

 

●感謝すべきは常に「今」という時である

 

事実についてそれを直視する姿勢がなければ、そこに在る真実は常に、何十万年の昔か、何千年の未来にしかないだろう。

 

真実を、今この瞬間に・・・こころの眼(まなこ)で観る以外にないという事である。

 

魂にあるのは、何がどうしようが、どこがどうであろうが、

 

常に・・・ただ・・・・・・・・なのである。

 

 

思い出す・・過去も 『今』 在り、

 

想像する・・未来も 『今』 有る

  

 

今のその在り方を自己表明あるいは、顕示しているのが・・・『想い』そしてその表明であるところの『行為』なのである。

 

●こころの入れ替え時期は「今」 

 

今というのは 緊急という意味も含まれるかもしれないし、

 

今は 実はもう時がないという意味もあるかも知れない。

 

また常に今がその時だという意味もあるかも知れない。

 

この意味が分る人は、そう多くないかもしれない。

・・・・・

 

そして、まだ、今・・・・

 

いつでも、だれでも、どこでも、何もなくてもできることは・・・、

 

そして最も困難かもしれないことは、

 

わたしたち自身の本質・魂から発する想い、その想念を、

 

清く・・・

 

高く・・・

 

より広く・・・

 

健やかに・・・

 

どこか不動で・・・

 

他者には優しく・・・

 

また快活で・・

 

楽しくあるべく  努めること・・・、

 

そういう想いが種となり、シナリオとなりそして表現となり、あなたの外側という世界系に展開するのである。

 

 

それが生きるという事、そして生まれ変わりであろう。

 

これは今も昔も・そして未来も・・まさに真実なのだ。 

 

そう、

 

こころを入れ替えるという言葉は、より大きな意味、また小さな意味をも含めて、 

 

まさに 『生まれ変わり』 を意味するのである。

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 

 


生まれ変わり

2013-08-14 10:39:04 | 魂の諸相

●魂・意識はその自己表現形を変化させる

 

人間が生とか死とか仰々しく言っているのは、あるいは生まれ変わりと言っているのは、次元間の魂・意識の転移であると言える。

 

ある魂が、ある時空、ある時代の、ある人格へ生まれ変わることを「転生」「生まれ変わり」等と言っているのだが、それは生と死を通過することで魂の経験フィールドが転換するというべきものだ。 

 

これをヘミシンクでは意識のフォーカス先が変化するという風に言っている。

 

いわゆる肉体死を経た段階で魂・意識が移行する領域を「フォーカスレベル」と言っており、これは肉体という、この地球物理次元での衣服を脱いだ段階で、本質の魂・意識が移行する様々な階層的世界であると言って良いだろう。 

 

この意味でも、地球も人間も次元的階層構造になっているということである。 

 

そして、どのフォーカスレベルにおいても変わらず在り続けるのは「わたし」という意識、そして自覚する範囲で存在する意識表現体である。

 

意識の表現体の尤も表皮的な部分、それを地上では肉体と言っているのである。

・・・

 

 

ヘミシンクで云うフォーカスレベルや、心霊的な表現である霊的諸世界に関しては、霊界やら、幽界やら、煉獄界やらという風に、なんとなく善し悪しの区分けのような表現もあるのだが、

 

それは要するに、その魂・意識の進化・進展せるレベルの波動に相応しき世界に同調するという事を暗に意味しているのである。 

 

そのような地球を”周波数的に”取り巻く「諸次元世界」なるものは、地上次元をも含め、そのベースにある地球という巨大な愛深き「意識体」と、そこに存在する鉱物、植物、動物そして人間という「意識体たち」の波動のコラボレーションでできている。

 

実に、宇宙の恒星、惑星などもそういう多次元生命体と言って良い存在形態なのである。

 

星々を単なる土、岩石のかたまりと考えるのは、文字通り『皮相すぎる』認識なのである。

そして、そういう多次元生命体としての地球、その中でも最も大きな創造表現要素となるのが実に人間の『想念』なのである。

 

いわゆる霊的に気付ける人びとは、人生や人間関係や社会が『想い』で創られていることを知っているはずである。 

 

想いとは『意識の働き』であり 、その想いが潜在的エネルギーとなって、顕在化の法則にしたがって行為として、物理的あるいは時系列的な現象となって展開するのだ。 

 

例えば、念動、念力、以心伝心、未来の確率的予知、テレポーテーション等のような、普通に超常現象と言われるものも、そういう想いの顕在化の仕組みの産物なのである。 

 

ちなみに、そういう時間軸の短縮されたびっくりするような形での「想念~現象化」も、

 

それが可能であるという想いによって生じてくるわけであるが、逆に多くの人々にとってそれが無縁と感じる理由があるとすれば、まさにそういう想いによってそういう状態を創造しているのである。 

 

信じる者は救われる・・・とかいうフレーズは、どこかこっかの宗教的プロパガンダではなく、ある面の真実を、どこか意味不明で使っているだけのことである。

 

気付いて・・、認めることで・・顕れる・・・これが顕現の法則なのだ。

・・・・

●世界は意識と波動で創られる

 

未だ、世界は偶然の物質重合や離散で出来ていると思っているのだろうか。

 

いやいや・・もうそんなことは無い筈である。

 

人は皆、こころというものを知っている、そして想いを知っているのだ。

 

想いは波動であり、そして物質も波動であり、見えない波動・想いが見える波動・物に次元降下する形で世界は出来上がっていることは、量子論的見地からはかなり理解しやすいのである。

 

また話はそれるけれども、

局在化された波動、エネルギーの塊である物質原子は、電磁波という波動を放出しながら核変換を行いつつ、時間の経過とともに「空(くう」に還元されてゆく事になっている。 

 

また、そういう核の利用というものは、まさに崩壊するエネルギーの利用のことであり、まかり間違えば周辺時空を、意味なく空漠たる破壊された領域に変えてしまう傾向にあるのである。

 

従って、ある霊的見地から観るならば、こういう核の弄びとも言える行為は、生命の進化の方向から逸脱した、崩壊の方向のベクトルを有しているのであり、

 

これを推進しようとする者たちがいるならば、それは非情に悲しむべき無知である・・・という以外に・・・言葉を探すことが出来ない。

 

 

 

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自己都合よく、寝て起きて、そして何度忘れても、それはそこにある

それは、結局、人のこころの中に無知が・・・変わらにずそこに・・あるからだ。

核を進めるだけその分、崖下に沈み込んでいく者たちは、如何ともし難いものがある。
 

・・・・・・

 

世界は、そしてその雛形と言われる日本は、・・・やはり極めて峻烈な転換点に来ているのである。

  

あなたは、今、この日本も、現状の政治や外交、経済・金融等含め、 

 

実に『一大分岐点』に来ているという事を知っているだろうか。 

 

根本的な問いかけ看板の掛けられた、分岐交差点にきたのである。

  

・・・・

 

 

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生命は皆、進化の大道にある

2013-08-10 10:30:29 | 魂の諸相

人間は、 肉体、こころ、魂 の複合体であると言える。

 

この人間としての、いわば多次元的、階層的構成を意識的に気づいてゆくプロセスが、人間の進化の過程であると言えるだろう。

 

 

 

ある意味でトーラス構造のように、ある方向から全方位に力場を発しつつ、更に再び中心に帰するような、そんな自己完結でありながら、あらゆる全てを通過するような、そんな多次元的な構造の中での旅をしているとでも言えるかもしれない。 

 

 

Torus

(物理的に言えば、多分宇宙はn次元トーラス構造とも考えられる)

 

 

 

 

進化とは、意識の様々な個別表現を体現しつつ、さらに未知なる自己を発見し続けることである。

  

神なるひとつから・・無限の自己たる多へ・・別れた、それぞれの魂・意識が辿る道でもある。

 

魂の進化とは、部分意識から全体意識への拡大プロセスという事が出来るのである。

 

これはどういうことなのか。

 

・・・

 

例えば人間の意識にも踏むべき段階があるということだ。

 

「おい、おい誰が勝手に決めたんだ」・・等という批判をしても仕方がない。

 

それは民主主義や多数決というものではないし、

 

個人我の趣味趣向、好き嫌いの話でもない。

 

要は、本来楽しいばかりの「遠足」を、いじけて嫌っても仕方がないのだ。

 

進化とは、踏むべきステップ、あるいは神の宮へ至る階段があるとでも言えようか。

 

 

身体で階段を上がるには骨が折れるが、魂は逆に高揚してゆくプロセスであろう。 

・・・

 

例えば、生物にもそれぞれの自己認識レベルがある。

  

植物はものを言うわけではないが、存在しているからには意識の発現形態がそこにあるということであり、表現は極めて漠然としているのだが、植物は鉱物はより自覚意識が濃いけれども、その自覚意識は動物ほど、また人間ほどではないはずである。

 

また、あなたのペットは、人間ほどの自己意識があるわけではなく、ペラペラしゃべってその意図を明確にするわけでもないが、・・・ちゃんと個体としての自意識を有していることがわかるはずである。

 

また、お目にかかったことはないのだが、

 

原人という存在形態、あるいはビックフット等と噂される原初的な人類の存在形態では、「自己が何者であるか」という自覚意識レベルが、動物以上であるが人間以下であるということだろうか。

 

 

一般に生命体は、知能が複雑になるほど進化していると考えられているのだが、

 

この判断は本質的なことではなく、

 

その知的能力によって、その存在の自己認識が如何に拡大されたか・・・という事が重要なのである。

 

また自己認識の拡大とは・・・・自己と他者が大枠でひとつのものから生じていることの理解の深まりである。

 

それを端的に言えば「愛の深まり」という言葉になる。

・・・

また自己認識の進化程度によって、魂の表現形態、あるいはどういう生物形態に転移、または生まれ変わりをするかが決まるのである。

 

それはそうだろう、・・・役者の準備ができないのに舞台俳優はこなせないからだ。 

 

あなたや私たちが「人間」を今経験しているということは、・・・・ 

 

ここまで進んできたという事なのである。 

 

・・・・ 

自己認識とは、自己が何者であるかという『魂』からの問いかけの、その段階での『自己回答』のことである。

 

自己認識による自覚、あるいは自己像が、単なる肉体存在であるならば、その「魂」の表現レベル、花で云えば開花段階がつぼみのようなもの、未だ物質あるいは3次元的意識レベルにあると言って良いだろう。

 

 

あなたは単なる肉体であるという自覚なのか・・・、 

 

あるいは 

 

『こころ』の働きを、『肉体』以上に重要な自己認識機能であると実感しているのか、 

 

あるいは、 

 

『こころ、精神』そして『肉体』という多次元的表現型を生じせしめるところの、 

 

時空を超えた普遍的意識・・・、 

 

すなわち『魂』レベルの働きに気付いているのだろうか。 

 

 

今、観るべきことは、自己で描いているところのこういう霊的「自画像」なのである。

 

他人様、社会や国家や政治などは本来全く関係がないのだ。 

 

それぞれの魂の表現が拡大し、理解の深まった・・・より大きな自己像を・・今描いているだろうか。

 

この世界に生じ、この世界でもまれ、様々な経験を経るという・・・その理由は・・、 

 

・・・実にそういう事なのであろう。 

 

例えば幼稚園では具体的で使用簡易なオモチャや絵本などが教材であり、

 

小学校ではそういう具体的な教材から、より思推的な学びが多くなり、

 

さらにより細かく大枠な抽象概念を学ぶように、

 

それに似たようなフラクタルな形で、魂の進化プロセスがあるということ。

 

もちろん、我々の習った社会の学校、学習過程そのものが魂の進化プロセスということではなく、

 

様々な事象への認識と理解が拡大しつつ深化するという、魂・意識の進化のプロセスのことである。

 

 

 

従って、様々な事象にのめり込み、巻き込まれること等は、その現象自体の意味が未だ理解の棚に入っていないという事、

 

単にそういうことであり、まさに1つの階段を上がりかけている途中であるということである。

 

さらに大いなる自己に、どこか気付く位置にあるかどうか・・・単にその視座、認識レベルの問題である。

 

・・・

 

世の中では、頭の良い人は優れている・・・等という固定観念が刷り込まれているはずだが、頭の良さは魂の進化そのものとは全く関係がないのである。

 

人による頭の良さの違いというのは、頭脳の表出機能の違い、例えば古い携帯電話と最新のスマホの違いのようなもので、持っている機能あるいあ機械の違いでしかなく、それを使用している<人間>の違いのことではない。

 

肉体の部分つまり頭脳の、ある方向の、使い方に少し優劣があるというだけの話である。

 

人間は肉体でしかない・・・という認識レベルでは、その頭脳の働きが唯一人間の価値を決めるものと勘違いする傾向があるわけだ。

 

頭脳の働きを「様々な情報を分類・整理し、そこに何らかの有意味な情報をとり出す知的能力」とするならば、

 

多分そういう能力に優れた場合には、頭脳明晰などと言われて尊敬される風潮にあるわけだが、これは根本的な間違いである。

 

そんなことであれば、人間は昨今のコンピュータの足元にも及ばないだろう。 

 

肉体人間、知能だけの人間の価値、そんな価値観はとうの昔に潰えているということである。 

・・・ 

人間の価値はいわゆる「知能」の相対的優位さにあるのではない。

 

例えばあの人は東大出だとか京大出だなどと聞けば、すぐどこか恐れ入ってしまう「こころのパターン」があるかと思うが、こういうところにも極めて深ぞりの刷り込みがあることに気付けるだろう。

 

とはいえ、自分もいわゆる有名な大学なる所?を出てはいるのだが、確かに社会的に多少の優位さがあることは認めるが、それはその刷り込まれた知的優位性の価値観が社会の中に刷り込まれているからなのである。

  

往々にしてそれは、小賢しさの優位性、まるでキリギリスの喋る嘘の優位性のようなものである。

 

違うだろうか。 

 

これは、受験競争などを通じていつの間にか知的能力に基づく階級意識が刷り込まれてしまうということだ。 

 

競争を通じて生き残った者が優性なものである・・という根の思考が植えられるわけである。 

 

これは、良いとか悪いとか、自然的だとか陰謀だとかいう類の思想のことではなく、 

 

未だに荒々しい大自然の中で、人類種の生き残りの唯一の武器が「知能」であるという思想、価値観そのものであることに気付けるだろうか。 

 

こういうイメージは、誰でも学校等で教わったことがあるだろう。 

 

要は、環境の中で生き抜く為には知能の開発が第一であるということであって、

想像される原始時代もそして文明の発達したと言われる現代でも、まったく変わっていないとうことである。

  

周りに色々な文明機器、学術情報、建物や航空機等が五万と増えていても、

 

それは楽しく遊べるおもちゃが増えているようなものであり、

 

人間の根本的なあり方自体、その根本にある「思考体系」は、全くと言って良いほど変わっていないということだ。

 

 

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大自然のジャングル?で生き残りをかけて右往左往していた人類が、今は都会ジャングルで右往左往しているのである。(笑)

 

なるほどジャングルでは知恵次第で動植物も味方につけることが出来たのだが、

 

今の都会、グローバル世界ジャングル?では自然の希薄になった領域、砂漠のような時空間で、

 

バラバラの個人、あるいはそれらの利害の共通した組織、企業どうしでサバイバルをしているようなものである。

 

物質文化の繁栄とは・・・実はそういう事なのだった。

 

これは多くの人間が「物質・肉体レベルの自己認識」に終始していることを如実に示している。

 

肉体レベルの安楽・快楽・安寧だけが人の生きる目的となっている現代社会、そしてそこからの離脱・死というものを極端に恐れる社会を、実にありがたく獲得してきたという事だ。

・・・

で、

 

それで人類は相対的にでも少しづつでも幸福になってきたのだろうか?

 

あなたは『幸せ』を感じていただろうか。

 

あなたの周囲に次第に調和や知恵が広がってきただろうか。

 

それどころか、どんどん孤独になり、人生、何かどこか、常に焦ってはいなかっただろうか。

 

また逆に、世界のあちらこちらで不幸や悲惨が増大してきてはいないだろうか。

 

 

未だそういうこころのベクトルで、それも他者の命の犠牲によって築かれる、おママごと遊びをしようとしている者もいるが、

 

もう、それは出来ない相談であることを、悟らなければならない。

 

そう・・・、もう人類は明確に解ってしまったのである。 

 

 

例え、道をそぞろに歩いているおじさん、おばさんも潜在意識では識(し)っていることだろう。

 

・・・・・

 

物質繁栄だけの思想体系は、すでに卒業の時期を過ぎたのだ。 

 

古い共通認識で創られた世界は終わったのである。

 

また舞台である地球の方も、既に変わっていることは、今では明確に気づけるに違いない。

 

 

これから人類に必要なのは、地球、生態系、宇宙とのハーモニー、調和、謙虚さなどであるということだ。 

 

もう決して、自己主張、自我顕示、エゴ的アピールの時代ではないということなのだ。

  

そして、ひょっとしてその舞台の演技者達(人類)は、その動きに合わせない程度に応じて不都合を体験することになるのかもしれない・・・ことも肝に銘じているべきではないだろうか。

 

 

なるほど、確かに「不都合な真実」の時代なのである。

 

・・・

 

人類は、あるいはそれぞれの魂・意識達が、ようやく訪れた卒業時期に気付くことが出来るかどうか。

 

経済政策だとか、右傾化だとか、不正選挙だとか、どこかの支配層の悪巧みだとか、経済クラッシュだとか、 またぞろフォーカスして増幅すべきものではない。

 

それらは潜在意識層から浮き上がってきた、また必要欠くべからざることでもあった、人間の魂経験上での垢(あか)のようなものなのである。

  

様々な垢を垢として、わが身において、さっさと流すに過ぎることはない。

 

・・・・

 

そんなことよりも、何よりも、・・・

 

あなたの落ち着いて描ける最高・最大の、そして最愛の自画像は、・・・何であろうか。 

 

それが今回の一大転換、卒業のテーマであり、そして自己解答なのである。

 

自分で描く・・・こと。

 

実にそういう事なのだ。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


克服すべきは死の恐怖

2013-08-06 08:23:39 | 魂の諸相

人が最も恐れているのは、多分死のことなのである。

 

自分のこころの様相を、ある程度まで観ることが出来れば、そして世間の世界の人々を観察できるようになれば、人類の集合的意識の中にある様々な問題、歪、その元にある死への恐れを見抜けるとことが出来るようになる。

 

多分あなたもそうであろう。

 

ただし、この生と死に関する事柄は、誤解なく話し、誤解なく聞かなければならない重要な部分とも言えるのである。

 

要は、世間ではどこかアンタッチャブルな部分であるからだ。

 

「おいおい、死の話か・・・やめてもらいたいね、そんな話、縁起でもない」

多分にそんな観念が生じるのが常である。

「まだ若いんだから、そんなことを考えてどうなるんだね。」

 

多分こういうことだろう。

 

世間では 「命が大切だ、生きるために頑張ること」 という考え方を誰しも正しいと感じているだろう。

 

特に戦後の欧米的な権利思想では、この個々人の生きる権利を強調し法的にも明文化しているわけである。

 

これは本来明らかなことを、殊更明確に文章化し、思想として権威づけ、定着させることであり、別に間違ってはいないのだが、

 

問題は殊更 「生きる」 ことだけがクローズアップされ、それ以外の人間の相、例えば「死ということ」に関してとんと手つかずの状況に放置されていることを示しているとも言えるだろう。

 

「生」に対して、その対極にある「死」というものに、手がついていないというよりも、世間一般的意識ではほとんど探究されていないということである。 

 

例えばかつての日本の武士道精神は生と死の両方をにらんだ、一段高い見識レベルであったわけだが、とうとうここまで意識的な次元降下をしてきたとも言えるかもしれない。

 

・・・ 

人々は不幸を恐れ、貧乏を怖れ、病気を怖れ、生存競争に負けることを怖れるがゆえに、

  

そうでない幸福を求め、豊かさを求め、医療や介護を求め、また社会での生存競争に勝つことを求め続けるのである。

 

不幸も貧乏も病気も負け組も、それがすなわち死へ近づくことを意味してると感じているからである。

 

セレブやリッチ等というような観念、肉体的な安楽さや快適さを求めることも、そういう人間としての生存の安泰さを求めているからである。

 

とはいえ安楽さや快適さ自体が決して悪いわけではなく、

 

問題は、こころの中に潜在している「死への怖れ」なのである。

 

そう、問題は・・・、

 

ことさら安楽さ快適さを必死に追究しているところの・・・、

 

人類的な集合観念の底に在る、生存への棄損環境を「恐れる」という観念・・・にある。

 

我々の多くが「死を恐れる」からこそ、必死で生きなければならない状況に追いやられているのであると言えよう。

 

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生への執着、それに必死になることで、極端に保守的になって事なかれ主義、何も知らないだけの無意識的人生を歩むか、あるいは逆に極端な執着が故での自暴自棄的行為に陥る場合もあるわけだ。

 

・・・・ 

最も愚かで無知蒙昧なのは、自分が死にたくないから、それを怖れすぎているから、敵と仮定する者たちを抹殺してしまう行為である。

 

さも尤もらしいどこかの国、さらに多くの国の軍隊、あるいは私兵組織、それらに金をかけ増強しなけらばならないという強迫観念は、

  

何か悪いことをしていると・・・密かに自覚しているからのことである。

 

そういう恐怖を一切観ることなく、自覚することなく、自省することもなく、

 

外に投影し、その外の影絵を攻撃・粉砕するわけだから、何時まで経っても切りがなく、

 

現象の深みへはまり込み、当事者たる魂の演技者のカルマが溜まってゆくばかりなのである。

 

おいおい、それらの魂での宿題、歪は・・・全て自分で解消しなければならないんだよ!

 

ということ・・すらも、わからない霊的幼児の段階もあったわけだが、

 

これからは、ここでは、おいそれとそういう最低レベルのママゴトは出来ない相談である。

 

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・・・

今まで、大人たちは、いわゆる世間の荒海の中で、板子一枚下の地獄という吹聴される観念に怖れおののおきながら、そういう恐れを自覚・対処する余裕を得ないまま、人生を送ることになっていたのであろう。

 

 

確かに自分達で云うように、大人の世界は「大変」なのだった。

 

・・・

ところが、少年少女の時代には、実はこういう脅迫観念がほとんどないことは誰の記憶にもあるだろう。

 

そういう時代には、殊更に死などへの恐怖の観念等はなく、大なり小なり天真爛漫な想いや行動に終始していることは、既に誰でも知っているだろう。

 

それはおバカで、未だ知識がないからという事ではなく、本来はそういう、生とか死とかの制限観念がないという事なのである。

 

あなたの子供時代はどうだったろうか・・・。

 

あなたの子供たちはどうだろうか・・・。

  

多分間違いなくそうであったし、逆に、社会の競争の中で生きなければならないという、後付けされた「戦いの観念」が次第しだいにどうしようもなく重くなり、

 

それを跳ね除けるための知識や学(がく)やスキルという武装を身につけようと躍起になったり、あるいは必死にそういう指導をしているはずなのである。

 

世間一般の親の苦労、子の苦労は、主にそういうところから生じているのだと言えようか。

 

なるほど、郷においては郷に従えというように、それもまた致し方がないわけなのだが、

 

気付くべき問題、潜在する大きな問題とは、

 

そういう世間での「生存競争」とあいまって、必死で生存をしなければならないという強迫観念、いわば「死への恐怖」なのである。

 

・・・

 

大病をした人たち、不治の病気だと言われた時、何かの極端な活動中に死を真近に感じた経験をした人たちは、よくわかるはずなのだ。

 

一旦、死というものに面した場合、世間的な何も、どんな観念、どんな富も解決もできるわけもないこと、何が最も大切なのかということが嫌でも解ってしまうのである。

  

魂レベルによってその感覚の深みは異なるものの、

  

生きて在ることの意味を嫌でも感じなければならないのである。

 

その時には、死をどうとらえているか、どう感じるか、どういうこころ模様が現れるのか、そういうものに明確に対峙しなければならないことになるからだ。

 

そうして、どこか根底での「死への恐れ」があることが浮かび上がってくるのである。

 

それと同時に、逆に生というものの真価、その有難さ、個人技では如何ともし難いことだということに気づかされることになるのだ。

  

理由など必要のない「感謝」が内面から噴出するのである。

 

・・・ 

ましてや一度死んで理由あって戻ってきた存在達、臨死体験を経験した人々は、

 

より高次な在り方の自己を再経験することで、肉体に制限されていない拡大された自己への認識に至ることになる。

 

往々にして、世間的な無知に長く浸っていれば、例え臨死体験でより自由な自己を自己体験した時も、何かどこかの間違いあるいは脳内ビジョンのたぐいではないかと、疑ってしまうことにもなるわけだが、

 

考えてみれば、自己の経験とその知覚、思考以上に確実なものはあるわけもなく、否が応でもそれを悟ることになるのである。

 

そういう経験をした場合には、そこに程度の差はあれ、「わたしには死など存在しない」ということを如実に知ってしまうことになるのだ。

 

そういう真実を知っている者たちは、たとえ誰が何を云おうと、どうでも良いことを知っている。

 

どこかの大臣が何を言おうが、どこかの偉い先生方が何を言おうが、メディアが何を宣伝しようが、どうでも良いということを知っているのである。

  

そういう人々は、かつてキリストが言ったと言われるように、

 

この世界に在っても、この世界に属さない人々なのである。

 

この世界に在っても、この世界の歯車から抜け出した人々なのである。 

 

 

 

例えば臨死体験者のように、

 

理由(わけ)ありで、「死の向こう」側から戻ってきた存在達、臨死体験者のその理由(わけ)の大きなものの1つは、

 

当の、自らの魂・意識の「不死たる真実を知る」時期だということの他に、

 

そういう魂的事実を世間に伝える為なのである。

 

世間では特異とされる、理由(わけ)ありの霊的経験をした存在達とは、

 

既に目覚め始めた者たちへ、人間の歪んだ観念群の、その泥んこの遊びから卒業すべき者たちへ、メッセージを託された者たちであると言えるだろう。

 

今の時代は既に相当数のこういう霊的真実のメッセンジャーが現れていることに気付けるはずである。 

 

そう、今は特異な時期、スピリチュアル界隈ではアセンションとか、次元上昇とか言われている、

 

この惑星生命圏の霊的進化の「特異点」なのである。 

 

・・・・

 

しかしながら、逆に、何をどう言おうが、何がどう示されようが、世界に何が生起しようが、地軸が動いて世界があっという間に様変わりしようが、

 

まったくその意味に気づかないような魂・意識達も結構大勢いるわけであり、

  

これは未だ目覚める時期に来ていない、未だ霊的経験が不十分な魂達であるわけで、だからと言って焦ったり無理強いしたりする必要もないのである。

 

いまだこういう世界における魂経験での飽和に至っていないのである。 

 

・・・ 

世間では死など、さもどこにも何事もないように浮かれ騒ぎ、様々な人間関係で傷つき悩みつつ、あるいは勝った負けたで有頂天になったり社会の崖下に転落したり、そういうことをやっているわけだが、

  

次から次への感覚的刺激があれば、ただそれだけが楽しく、当たり前のような、そんな生活演劇が何時までも続くわけはないことを「忘れて」いるのである。

  

それは要するに、突き詰めれば、人の嫌がる言葉である「死」からの集合観念的「逃避」が故なのである。

 

・・・というか、生と死、人生とは何か、生命とは何か、そして現生の原因である「魂」のこと、この3次元的刹那的な生を生み出しているところの高次な魂レベルの自己というものに、ほとんど全く気付いていなかったということである。

 

テンポラリ・・刹那・・見える物だけ・・・世間の常識内容だけ・・

 

そういう霊的近視眼者の生き方をしてきたという事である。

 

狭い自己認識の仕方に終始する魂の学び舎的世界、狭い意識範囲での共通認識で知覚される世界のことを、3次元的世界と呼んでいる。

  

高次な次元世界とは、まず生と死の観念を超えた意識レベルに広がった魂・意識の仲間たち、謙虚で向上心の篤い魂の表現者達の、「和気合い合い」の世界である。

  

もう、そちらの方が良いのではないか。

 

実は「生とそして死」の関係、この部分をおざなりにしては本来の生が「生きてこない」のである。 

 

それまでは、いわば様々な物質的幻影で創られている世界ということだ。

 

物質的幻影は、それぞれの人が意識の中に取り入れた、様々な観念によって投影されるということ、

 

また畏怖すべき、様々な恐怖の影絵は、世界という銀幕スクリーンの方にあるように見えるだろうが、

 

それはそれを観ているそれぞれの意識の中、フィルムの方にあることを、

 

どうしても・・・・、どうあっても理解し、悟る必要がある。

・・・・

 

その為の例えば1つ具体的な方法は、何のことはない黙想、瞑想、自己観想である、

  

眠らない状態で自己に静かに気付いているまま、

 

意識を静謐に保つ時間を設け、また出来るだけ増やすことである。

 

ただこのような内的姿勢を続けることで、確実に何かが変わってくるのである。

 

何事も、経験しなければ決してわからない。

 

内観、瞑想・・それらは、こころの内部にくっついた想念の塵や汚物を洗い流す意識的行為のことでもある。

 

魂の表現形である自己の想念を・・自分で観ないでは、自己の何を、どうすることもできない相談なのだ。

 

なぜなら、

 

その一人一人の想念というエネルギーの鋳型によって、当然ながら魂の表現型、その経験と学習の在り方が決まってくるからである。

 

 

あなたの方向指示器は、あなた意外に持っていないはずだろう。

 

それとも、未だ自己以外の、何か、誰かにあるとでも思っているのだろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。