気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

続) 生まれ変わり

2013-08-15 08:46:59 | 魂の諸相

 

 

●親和と同調の法則

 

様々な波動重合の結果としての世界構成、そしてシナリオ的要素である人間の想念によって作られる世界は、地上界とかその他のフォーカスレベルでも違いがない。

 

なるほど、地獄や天国はこころで創られる・・・という言葉は単なる比喩や諭しの言葉ではないのである。

地上界、幽界等となんとなく人類の感情的、感傷的、あるいはネガティブな観念のまとわりついた表現で云われる場合があるわけだが、要はそういう事なのである。 

 

要は、全ては全てに対しての同調と調和、魂たちの居る世界は、その進化レベル、意識の表現レベルに同調した結果に過ぎないということだ。

 

これは親和の法則とかあるいは共鳴同調の法則とも言えるものだ。 

・・・

 

例えば当人が行く学校は、当人が選ぶように、体験フィールドとして選択する世界は、魂・意識の自由意思にもとずくわけであり、誰かが勝手に右だ左だと指示するわけではないのである。

 

なるほど、この3次元世界ではよく試験のようなものがあるものだが、魂の経験先を選ぶのは本質的にその魂の意識レベルと、その中での自ずと抽出されるところの意図以外にはなく、赤の他人の指示・命令などというものがあるわけもないのである。 

 

つまり、本来の魂レベルでは、様々な時空間、存在諸世界の波動域そのものには何ら影響を受けることはなく、自由自在に自己の表現形態を選択できるのであるが、 

 

しかしながら人間世界で培ってしまったようなエゴ、個我的な想念による、わがままな選択はどうも出来そうにないのも確かである。

 

俺は金持っているから、社会的地位が高いから・・・・、そういう想いは逆に「重り」となってしまうのである。 これは昔から言われてきたことである。

 

えー、それでは自由意思ではないじゃないか・・という事にもなるのだが、確かに自由意思なのである。 

 

これはどういうことかと言えば、

 

進化を旨とする「魂の」自由意思のことであって、魂の演技体のほう、例えばある時空舞台に生きている、肉体個人我の歪み切った想いでの選択には依らないということである。

 

魂レベルではおのれの成長すべき事柄の何たるかが良く分かっているのである。

 

言葉に制限があるのだが・・、魂達は神の子、創造主の子達であり、転生によって未熟な部分を成長させることがその目的であるからだ。

  

子であること、成長することも・・・また楽しいことだからである。  そうではないか?

 

存在が・・・どういう境遇に、どこの世界に、・・どこから来てどこに行くのか、それは、嘘や隠しも出来ない言わば純な魂レベルの意識の発露が決めることである。 

 

・・・・

 

●自己研鑽は魂の大道に乗っていることを示すもの

 

こういう話は、

 

わたしとは何か。。どうして生きて在るのか、、世界となにか・・

 

そういうテーマにどこか真剣に取り組む人生であるならば、自ずと理解されてゆくことになるだろう。

 

何故ならば、そういう何か未知へのチャレンジを通して魂の成長する方向性、魂・意識進化のベクトルというものが、その意図によって既に生じているからだ。

 

人生とはそのためのものではなかったか。

 

これは、何も昔からある行者の生き様や、修行僧のこころ姿や、悟りを目指す高邁な精神性だけの話ではなく、 

 

人生とはある意味で「魂の修行」のようなものだと喝破し、世俗の欲はほどほどに、その与えられた人生の大道を歩く自覚に目覚めた者達の、意識の進展・開花の方向を示す方向指示器なのである。

 

・・・

 

●身体は外の経験のために与えられた衣服のようなもの

  

人間社会の1つの理想的な思想の中に「最大多数の最大幸福」なるものがあるが、

 

魂レベルではそれに似たような法則があると言っても過言ではなく、それは魂の方向性というか、あるいは歩むべき道というか、魂の進化・拡大に相応しきベクトルが間違いなく在るということなのだ。

 

何でもかんでも偶然で生起するような無意味な物事などあるわけもなく、ある時には行き当たりばったりに見える断片事象でさえも、無限に壮大な魂の遍歴の絵巻物語の一部であるようなものである。

 ・・・・

 

物理的次元において、我々が必死で護持しつつその保身に明け暮れているこの肉体は、魂のまとう階層衣服の1枚に過ぎないということに気付かなければならない。 

 

こだわるでもなく、忌避するでもなく、それはそうだと喝破することである。

 

存在形態の一番外側の身体、また物理的身体であるこの肉体は、この地球の意識によって生み出されている、物理的次元で用意される衣服のようなものであるということ。 

 

肉体とは、この世界に下生してから・・・頂いたものだと考えた方が良いはずではないか。

 

そう、ある意味で肉体とは、大自然の中で有機的な生体組織として用意される、この次元用の『観測衣服』とも言うべきものであろうか。 

 

そういう肉体生存形態は、さらに高次のレベル、個々、あるいは集合体を構成する『魂たち』の表現の為のものだということだ。

 

またそれら時空間を超えた存在形式を有する『魂たち』は、この地球次元のみならず、実に宇宙大のステージを往来する旅人のようなものである。

 

何せ魂・意識の転移する世界は、この地球のみならず見渡せる無限の星々のごとくまさに無数にあるのだ。 

 

イエスの言った言葉、「天には住まいがたくさんある」とはそういう事であり、また地球という住まいもその1つということだ。

 

天に住まいは無数にあるにも関わらず、今までの地球上の人類意識は、それを宇宙にたった1つしかない・・?としてきたのは、まさに中世のあの天動説のような頑なな自画自賛的な固定観念から来ているのである。 

 

聖書にも、土の塊に・・「命」が吹き込まれたと書いてはいなかったろうか。

 

・・・・

 

●時は既に満つ

 

この肉眼で見える範囲だけでも無数にある宇宙の星、星雲、星団、銀河、銀河団を前にして、

 

その雄大な無限の宇宙に関して、その意識を向ける範囲が、たった単なる想像的SF小説だけである等ということがあり得るわけもないだろう。 

 

木を見ても、森が見えず・・・・それは1本の木だけに意識をフォーカスしていたからだ。

 

この地上に行き交う人々の魂の経験とその昇華が否応なく行われてきたその結果、

 

そう、未だ小さいけれども、次第に木だけでなくそれを含む森の全貌が姿を現してきたのである。

 

今の時代、何がしかの気づきを促す現象は相当数に増大していること、押しつけがましくない証拠が実は増大しているといえるのだ。 

 

今は相当数の未確認飛翔体も出没している現実がある。

 

何でもかんでも嘘だとか、どこかの国の新しい兵器や航空機などと断定すべきではないはずだ。未知なるものへの恐れも期待も、どちらも全く不適当な対応でなのである。

 

要は宇宙への認識が広がってきたという事、壮大なステージでの仲間が増えた事を単に示しているのである。

 

また人間の生まれ変わりに関する学術レポートや書籍、あるいは統計なども増えている。

 

そういう中にある過去生の記憶とその時代検証の一致等も、全て偶然としてしまう頑迷さは、さすがに捨てなければ到底次には進めない。

 

臨死体験における意識の遷移や、その時空を超えた存在である「わたし」の体験記録も増えてきた。

 

その全てが脳内ビジョンの類(たぐい)だとするならば、あなたや私の実生活さえも脳内ビジョンの類となるはずだ。(笑)

 

何時までも、おもちゃ大好き、物欲大好きの、脳内オタクであるわけもなかろう。

 

●感謝すべきは常に「今」という時である

 

事実についてそれを直視する姿勢がなければ、そこに在る真実は常に、何十万年の昔か、何千年の未来にしかないだろう。

 

真実を、今この瞬間に・・・こころの眼(まなこ)で観る以外にないという事である。

 

魂にあるのは、何がどうしようが、どこがどうであろうが、

 

常に・・・ただ・・・・・・・・なのである。

 

 

思い出す・・過去も 『今』 在り、

 

想像する・・未来も 『今』 有る

  

 

今のその在り方を自己表明あるいは、顕示しているのが・・・『想い』そしてその表明であるところの『行為』なのである。

 

●こころの入れ替え時期は「今」 

 

今というのは 緊急という意味も含まれるかもしれないし、

 

今は 実はもう時がないという意味もあるかも知れない。

 

また常に今がその時だという意味もあるかも知れない。

 

この意味が分る人は、そう多くないかもしれない。

・・・・・

 

そして、まだ、今・・・・

 

いつでも、だれでも、どこでも、何もなくてもできることは・・・、

 

そして最も困難かもしれないことは、

 

わたしたち自身の本質・魂から発する想い、その想念を、

 

清く・・・

 

高く・・・

 

より広く・・・

 

健やかに・・・

 

どこか不動で・・・

 

他者には優しく・・・

 

また快活で・・

 

楽しくあるべく  努めること・・・、

 

そういう想いが種となり、シナリオとなりそして表現となり、あなたの外側という世界系に展開するのである。

 

 

それが生きるという事、そして生まれ変わりであろう。

 

これは今も昔も・そして未来も・・まさに真実なのだ。 

 

そう、

 

こころを入れ替えるという言葉は、より大きな意味、また小さな意味をも含めて、 

 

まさに 『生まれ変わり』 を意味するのである。

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 

 


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