人が最も恐れているのは、多分死のことなのである。
自分のこころの様相を、ある程度まで観ることが出来れば、そして世間の世界の人々を観察できるようになれば、人類の集合的意識の中にある様々な問題、歪、その元にある死への恐れを見抜けるとことが出来るようになる。
多分あなたもそうであろう。
ただし、この生と死に関する事柄は、誤解なく話し、誤解なく聞かなければならない重要な部分とも言えるのである。
要は、世間ではどこかアンタッチャブルな部分であるからだ。
「おいおい、死の話か・・・やめてもらいたいね、そんな話、縁起でもない」
多分にそんな観念が生じるのが常である。
「まだ若いんだから、そんなことを考えてどうなるんだね。」
多分こういうことだろう。
世間では 「命が大切だ、生きるために頑張ること」 という考え方を誰しも正しいと感じているだろう。
特に戦後の欧米的な権利思想では、この個々人の生きる権利を強調し法的にも明文化しているわけである。
これは本来明らかなことを、殊更明確に文章化し、思想として権威づけ、定着させることであり、別に間違ってはいないのだが、
問題は殊更 「生きる」 ことだけがクローズアップされ、それ以外の人間の相、例えば「死ということ」に関してとんと手つかずの状況に放置されていることを示しているとも言えるだろう。
「生」に対して、その対極にある「死」というものに、手がついていないというよりも、世間一般的意識ではほとんど探究されていないということである。
例えばかつての日本の武士道精神は生と死の両方をにらんだ、一段高い見識レベルであったわけだが、とうとうここまで意識的な次元降下をしてきたとも言えるかもしれない。
・・・
人々は不幸を恐れ、貧乏を怖れ、病気を怖れ、生存競争に負けることを怖れるがゆえに、
そうでない幸福を求め、豊かさを求め、医療や介護を求め、また社会での生存競争に勝つことを求め続けるのである。
不幸も貧乏も病気も負け組も、それがすなわち死へ近づくことを意味してると感じているからである。
セレブやリッチ等というような観念、肉体的な安楽さや快適さを求めることも、そういう人間としての生存の安泰さを求めているからである。
とはいえ安楽さや快適さ自体が決して悪いわけではなく、
問題は、こころの中に潜在している「死への怖れ」なのである。
そう、問題は・・・、
ことさら安楽さ快適さを必死に追究しているところの・・・、
人類的な集合観念の底に在る、生存への棄損環境を「恐れる」という観念・・・にある。
我々の多くが「死を恐れる」からこそ、必死で生きなければならない状況に追いやられているのであると言えよう。
生への執着、それに必死になることで、極端に保守的になって事なかれ主義、何も知らないだけの無意識的人生を歩むか、あるいは逆に極端な執着が故での自暴自棄的行為に陥る場合もあるわけだ。
・・・・
最も愚かで無知蒙昧なのは、自分が死にたくないから、それを怖れすぎているから、敵と仮定する者たちを抹殺してしまう行為である。
さも尤もらしいどこかの国、さらに多くの国の軍隊、あるいは私兵組織、それらに金をかけ増強しなけらばならないという強迫観念は、
何か悪いことをしていると・・・密かに自覚しているからのことである。
そういう恐怖を一切観ることなく、自覚することなく、自省することもなく、
外に投影し、その外の影絵を攻撃・粉砕するわけだから、何時まで経っても切りがなく、
現象の深みへはまり込み、当事者たる魂の演技者のカルマが溜まってゆくばかりなのである。
おいおい、それらの魂での宿題、歪は・・・全て自分で解消しなければならないんだよ!
ということ・・すらも、わからない霊的幼児の段階もあったわけだが、
これからは、ここでは、おいそれとそういう最低レベルのママゴトは出来ない相談である。
今まで、大人たちは、いわゆる世間の荒海の中で、板子一枚下の地獄という吹聴される観念に怖れおののおきながら、そういう恐れを自覚・対処する余裕を得ないまま、人生を送ることになっていたのであろう。
確かに自分達で云うように、大人の世界は「大変」なのだった。
・・・
ところが、少年少女の時代には、実はこういう脅迫観念がほとんどないことは誰の記憶にもあるだろう。
そういう時代には、殊更に死などへの恐怖の観念等はなく、大なり小なり天真爛漫な想いや行動に終始していることは、既に誰でも知っているだろう。
それはおバカで、未だ知識がないからという事ではなく、本来はそういう、生とか死とかの制限観念がないという事なのである。
あなたの子供時代はどうだったろうか・・・。
あなたの子供たちはどうだろうか・・・。
多分間違いなくそうであったし、逆に、社会の競争の中で生きなければならないという、後付けされた「戦いの観念」が次第しだいにどうしようもなく重くなり、
それを跳ね除けるための知識や学(がく)やスキルという武装を身につけようと躍起になったり、あるいは必死にそういう指導をしているはずなのである。
世間一般の親の苦労、子の苦労は、主にそういうところから生じているのだと言えようか。
なるほど、郷においては郷に従えというように、それもまた致し方がないわけなのだが、
気付くべき問題、潜在する大きな問題とは、
そういう世間での「生存競争」とあいまって、必死で生存をしなければならないという強迫観念、いわば「死への恐怖」なのである。
・・・
大病をした人たち、不治の病気だと言われた時、何かの極端な活動中に死を真近に感じた経験をした人たちは、よくわかるはずなのだ。
一旦、死というものに面した場合、世間的な何も、どんな観念、どんな富も解決もできるわけもないこと、何が最も大切なのかということが嫌でも解ってしまうのである。
魂レベルによってその感覚の深みは異なるものの、
生きて在ることの意味を嫌でも感じなければならないのである。
その時には、死をどうとらえているか、どう感じるか、どういうこころ模様が現れるのか、そういうものに明確に対峙しなければならないことになるからだ。
そうして、どこか根底での「死への恐れ」があることが浮かび上がってくるのである。
それと同時に、逆に生というものの真価、その有難さ、個人技では如何ともし難いことだということに気づかされることになるのだ。
理由など必要のない「感謝」が内面から噴出するのである。
・・・
ましてや一度死んで理由あって戻ってきた存在達、臨死体験を経験した人々は、
より高次な在り方の自己を再経験することで、肉体に制限されていない拡大された自己への認識に至ることになる。
往々にして、世間的な無知に長く浸っていれば、例え臨死体験でより自由な自己を自己体験した時も、何かどこかの間違いあるいは脳内ビジョンのたぐいではないかと、疑ってしまうことにもなるわけだが、
考えてみれば、自己の経験とその知覚、思考以上に確実なものはあるわけもなく、否が応でもそれを悟ることになるのである。
そういう経験をした場合には、そこに程度の差はあれ、「わたしには死など存在しない」ということを如実に知ってしまうことになるのだ。
そういう真実を知っている者たちは、たとえ誰が何を云おうと、どうでも良いことを知っている。
どこかの大臣が何を言おうが、どこかの偉い先生方が何を言おうが、メディアが何を宣伝しようが、どうでも良いということを知っているのである。
そういう人々は、かつてキリストが言ったと言われるように、
この世界に在っても、この世界に属さない人々なのである。
この世界に在っても、この世界の歯車から抜け出した人々なのである。
例えば臨死体験者のように、
理由(わけ)ありで、「死の向こう」側から戻ってきた存在達、臨死体験者のその理由(わけ)の大きなものの1つは、
当の、自らの魂・意識の「不死たる真実を知る」時期だということの他に、
そういう魂的事実を世間に伝える為なのである。
世間では特異とされる、理由(わけ)ありの霊的経験をした存在達とは、
既に目覚め始めた者たちへ、人間の歪んだ観念群の、その泥んこの遊びから卒業すべき者たちへ、メッセージを託された者たちであると言えるだろう。
今の時代は既に相当数のこういう霊的真実のメッセンジャーが現れていることに気付けるはずである。
そう、今は特異な時期、スピリチュアル界隈ではアセンションとか、次元上昇とか言われている、
この惑星生命圏の霊的進化の「特異点」なのである。
・・・・
しかしながら、逆に、何をどう言おうが、何がどう示されようが、世界に何が生起しようが、地軸が動いて世界があっという間に様変わりしようが、
まったくその意味に気づかないような魂・意識達も結構大勢いるわけであり、
これは未だ目覚める時期に来ていない、未だ霊的経験が不十分な魂達であるわけで、だからと言って焦ったり無理強いしたりする必要もないのである。
いまだこういう世界における魂経験での飽和に至っていないのである。
・・・
世間では死など、さもどこにも何事もないように浮かれ騒ぎ、様々な人間関係で傷つき悩みつつ、あるいは勝った負けたで有頂天になったり社会の崖下に転落したり、そういうことをやっているわけだが、
次から次への感覚的刺激があれば、ただそれだけが楽しく、当たり前のような、そんな生活演劇が何時までも続くわけはないことを「忘れて」いるのである。
それは要するに、突き詰めれば、人の嫌がる言葉である「死」からの集合観念的「逃避」が故なのである。
・・・というか、生と死、人生とは何か、生命とは何か、そして現生の原因である「魂」のこと、この3次元的刹那的な生を生み出しているところの高次な魂レベルの自己というものに、ほとんど全く気付いていなかったということである。
テンポラリ・・刹那・・見える物だけ・・・世間の常識内容だけ・・
そういう霊的近視眼者の生き方をしてきたという事である。
狭い自己認識の仕方に終始する魂の学び舎的世界、狭い意識範囲での共通認識で知覚される世界のことを、3次元的世界と呼んでいる。
高次な次元世界とは、まず生と死の観念を超えた意識レベルに広がった魂・意識の仲間たち、謙虚で向上心の篤い魂の表現者達の、「和気合い合い」の世界である。
もう、そちらの方が良いのではないか。
実は「生とそして死」の関係、この部分をおざなりにしては本来の生が「生きてこない」のである。
それまでは、いわば様々な物質的幻影で創られている世界ということだ。
物質的幻影は、それぞれの人が意識の中に取り入れた、様々な観念によって投影されるということ、
また畏怖すべき、様々な恐怖の影絵は、世界という銀幕スクリーンの方にあるように見えるだろうが、
それはそれを観ているそれぞれの意識の中、フィルムの方にあることを、
どうしても・・・・、どうあっても理解し、悟る必要がある。
・・・・
その為の例えば1つ具体的な方法は、何のことはない黙想、瞑想、自己観想である、
眠らない状態で自己に静かに気付いているまま、
意識を静謐に保つ時間を設け、また出来るだけ増やすことである。
ただこのような内的姿勢を続けることで、確実に何かが変わってくるのである。
何事も、経験しなければ決してわからない。
内観、瞑想・・それらは、こころの内部にくっついた想念の塵や汚物を洗い流す意識的行為のことでもある。
魂の表現形である自己の想念を・・自分で観ないでは、自己の何を、どうすることもできない相談なのだ。
なぜなら、
その一人一人の想念というエネルギーの鋳型によって、当然ながら魂の表現型、その経験と学習の在り方が決まってくるからである。
あなたの方向指示器は、あなた意外に持っていないはずだろう。
それとも、未だ自己以外の、何か、誰かにあるとでも思っているのだろうか。
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