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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

臨死体験の真実(5)死後の生の証拠(後半)

2015-02-08 03:17:43 | 魂の諸相
「生まれ変わり?・・・そんなの迷信だよ、科学的じゃない」とある人が言っていた。
当たり前のように、さも当然の科学的認識のように・・・だ。
しかしながら、それは現在までの「物質的科学では証明できない」というだけのことに、全然気付いていないのである。
こんな感じで、何事も自らが確認し、腑に落ちるまで探究することをせずに、尤もらしい権威筋の言葉を受け売りするだけに徹している人も多いだろう。
だれも決して責任等持つわけでもないのにだ。


人生、生きるとか死ぬとかいうことは、まるでDVD映画を「何巻も借りて見る」ようなものだろう。
また、シリーズ本を「何冊も読む」ようなものでもある。
次元設定、シチュエーションが違えども同じパターンではないか。
体験、物語自体に・・・自己の意識を投影・投入する・・・そういうパターンである。

それになぜ何巻も鑑賞したり、何冊も読むのだろうかと言えば、結局それが面白いからだろう?

例えば、今迄のこの地球の演目ように、
そのテーマが無知や悲・喜劇のストーリーならば、
その主人公は、その映像や物語の中で、楽しい反面どこか悲惨で苦しい役をも負っているものである。
あなたはどうだろうか。

しかしながら、「読者」(魂)としてのあなたは、
その物語に引き込まれ(下生して)、登場人物にいつか成り替わり(人格を形成し)、
それを『自分のこととして味わう』ことで、ハラハラ・ドキドキしつつも、
実は魂レベルではその醍醐味を感じているのである。
それは、魂としての本質の<あなた>が、ある人格を演じつつ体験進化しているということだ。

しかしながら、小さな表面意識、それも不特定多数の影響をもろに受けて、常識観念にはまり、
それにがんじがらめになっている場合はなかなか気づけないものである。
いわゆるマトリクスの中で身動きできない在り様とも言える。

自己とは何か?・・・まるで、てんで皆目わからずに人生を送る場合もあるわけだ。
だから本質の自己を思い出す・・までは、この世界あるいは同レベルの世界で生死を繰り返すことになる。
それはいわゆる3次元的な、物質偏重的な観念世界独特の学びだとも言えようか。
ところが、それもいつか卒業すべき時がくるのである。

しかしながら、今までのような残留と再生は、今回の特殊なステージでは不可のようであり、
それは同じレベルの世界での横滑り的再生となるかも知れない。
それも、どうするのかを、あなたの本質:魂はすでに選択済みという事かも知れないのである。


今はそのチャイム音が教室全体に鳴り初めていることに、本当に気づけるだろうか。
時は金なりではなく、今の時は目覚めの鐘鳴り・・・ということだ。

この時期に及んで、何を言おうと、どうなろうと、未だ本質の自己に気付けない人々は、
そういう人生物語の中で、喜々としつつ没我となっている段階なのだ。



そんな風であれば、
体験者としての魂:本質の自己に無自覚である為に、忘れたままであるために、
いつか、その(人生)物語が必然的に一巻の終わりとなった場合、一時非常なショックを受けることにもなるし、
それを観ている「高次の自己」にその意識を戻すプロセスさえも忘れてしまうだろう。

そのための救済のプロセスとして、
臨死体験や体脱体験の、その事実認識や、
否応のない「科学的」「統計的」な証拠が出てくるようになったのだと察してよいだろう。

そう、今はもう目覚める時なのである。
ずっと、今までの「未だ」は・・すでに「もう」なり・・・ということだ。

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「臨死体験9つの証拠」 P76より・・・
6.臨死体験中に出会うのは、まず例外なしにその時点で死亡している人間で、ほとんどの場合、親族である。
 臨死体験中に知り合いと出会うとき、それは必ずと言っていいほど死んでいる人間だ。対照的に、夢や幻覚の中で会うのは生きている人間が多い。これも臨死体験と夢や幻覚とを区別する際立った特徴で、臨死体験の信憑性をいっそう裏付けている。
 臨死体験者が見覚えのある人物に出会う事例は多いが、誰だかわからないこともある。しかし、のちに一族の古い写真を見るなどして、身元が判明するケースもある。

7.幼い子供の臨死体験と大人の臨死体験の内容が驚くほど似通っているという事実は、それらが現世での何らかの信条に影響されたものではないと強く示唆している。
 五歳以下の幼い子も含めた子供たちの臨死体験の特徴は、大人の臨死体験の特徴とほぼ一致する。この事実自体が、臨死体験は、夢やでっちあげではなく本物だという強力な証拠だ。
 なぜなら子供たちは大人と違ってほぼ確実に、今まで臨死体験のことなど耳にしてこなかったはずだからだ。彼らはライフ・レビュー、トンネル体験といった臨死体験の特徴をおそらく何も知らない。
 自ら臨死体験---多くは生まれて初めて---をして初めて、そうしたものの存在に気付く。子供と大人の臨死体験の特徴がほぼ一致するという事実は、臨死体験が真実で、何らかの信条や文化的影響、人生経験に触発されたものではないというもっとも強力な証拠と言える。

8.世界中の臨死体験の内容が驚くほど共通しているのは、臨死体験が本物だという証拠である。
 この事実をわかりやすく示すたとえ話がある。アメリカ人とスペイン人とメキシコ人の家族がパリへ行ったら、三家族とも同じエッフェル塔を見るか?
 答えはもちろんイエス。違いが出るとすれば、それぞれの説明の仕方である。これと同じことが、異なる文化圏の臨死体験者たちについても言える。私たちのもとに世界中から寄せられる体験談からは、その内容の驚くべき共通性が見てとれる。

9.臨死体験者は、体験後にさまざまな面で変化を遂げ、その多くは一生続く。
 研究では、臨死体験後にその人の人生にはっきりした長期的な変化が起こるという結果が出ている。まず臨死体験者は死への恐怖が薄れ、これと反比例するように死後の「生」を信じるようになる。死から生還したあと、人を助けたり癒したりする職業を目指すケースが見られた。
 さらに彼らの多くは臨死体験によって大きく変わり、それまでとは違う人間、つまりより善良な人間になっている。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

臨死体験の真実(4)死後の「生」の証拠(前半)

2015-02-04 19:55:35 | 魂の諸相
笑える話ではないか。

良くわからないままに放置しているがゆえに、

死を怖れ、忌み嫌う事で、

逆に、生が委縮し、生に囚われ、生きにくくなるのだ。

本末転倒なので笑えるだろう。そうではないか?


真に死という現象を理解し、死後の生も明らかとなれば、

また今の生も・・・より意味あるものとなるのだ。

そうすれば、生死の区別など無くなって、ただ「今」の・・・変化のみがあることが悟れるだろう。

毎日のサイクルは小さな変化であり、人生のサイクルはより大きな変化に過ぎない。

本質の<われ>すなわち、魂の表現形の変化はあれども、真の<われ>は不変なのだ。

不安だとか、死だとか、怖れだとか、騒ぎだとか? 一体全体・・、

だから、それがどうしたというのだ?

人のそういう・・・無条件の・・「穏やかで不屈の意識」こそが、強力なガードとなり盾ともなるだろう。

・・・・

そう、今の時期は・・・まさに、それが問われているのである


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臨死体験 9つの証拠(ジェフリー・ロング,ポール・ペリー共著)
71ページより
・・・

死後の生の証拠

1.意識不明、あるいは臨床的に死亡しているとき、非常に系統だった明瞭な体験をするというのは、医学的に説明不可能である。

 私たちNDERFの調査では、「身体状況がこのまま改善しなければ死に至る」と予想されるくらい身体機能が低下している者を「臨死」状態にあると定義している。臨死状態にある者は通常意識不明で、呼吸と心拍が停止し、臨床的に志望している場合もある。
 臨床的な死亡状態で「意識を伴った経験」をするのがどれほど驚嘆すべきことか?
心臓が止まったらたちまち脳への血流が止まるという事実を伝えれば少しは解ってもらえるだろうか。
・・・
2.臨死体験者は、しばしば体外離脱状態に陥り、そこで見聞した内容はほぼ常に現実と矛盾しない。

 臨死体験者は多くの場合、最初の特徴として体外離脱を体験する。そして見えるはずのない出来事を描写する。見るはずがないというのは、主に彼らが意識不明状態である為だが、ときには肉体から遠く離れた出来事を説明しているためである。
 意識が抜け出たあとの肉体や、自分に施される懸命な蘇生処置を目撃するケースが多い。何百もの事例で報告されているこれらの描写は、現実と矛盾しないことが報告されている。
・・・
3.盲目の人たちにも臨死体験は起こり、視覚的体験を伴うことが多い。

 生まれつき完全に盲目の人は、目の見える私たちが日常認識している視覚的な世界を全く認識できない。・・・だから彼らに視覚をわかってもらおうと別の四感にたとえても、うまくいかない。
 それなのに彼らの臨死体験には、多くの場合視覚的な体験が含まれている。



・・・
4.いかなる類の意識もあるはずもない全身麻酔下で、臨死体験が起こっている。

 全身麻酔下で明晰な体験は不可能で、ましてや日常より意識レベルがあがることなどありえない。
しかし調査では、全身麻酔下での臨死体験が何ダースも寄せられた。次に挙げるデボラの例もそのひとつだ。彼女は一三歳のときに簡単な手術を受けるため入院し、麻酔が原因で心臓が停止した。医師が懸命に蘇生を試みる中、デボラは突然、自分が体外に出ているのに気づいた。

【手術中に麻酔のため心臓が止まった・・・。
気づくと天井に浮いていて、台の上に横たわっている私の体が見えた。
医師たちが焦って、私が死にそうだと話していた。怖くはなかった。とても親切な人がふたり、一緒にいてくれたから。
そのときは天使だと思った。
心配しなくていいよ。守ってあげるからと言ってくれた。

ヒュン、と音がしたと思ったら暗いトンネルに入って、光に向かって進んでいた・・・。
女の人が私に手を差し伸べてくれた。私が誰だか知っていて、しかも愛してくれているようで、そばに居ると安心できた。誰かはわからなかったけれど・・・。

手術から何年もたってから、たまたま父方の祖母の写真を見せてくれた。
父を生むときに亡くなったそのひとは、トンネルを抜けた先で私の手をにぎってくれたきれいな女性だった。
それまでは一度も写真を見たことがなかった】


(つづく)



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臨死体験の真実(3)ライフレビュー

2015-01-31 09:42:48 | 魂の諸相
臨死体験で起きる「ライフレビュー」というものがある。

死んだあと、あるいはその境目にあって、自分の人生を振り返るプロセスがあることが知られている。
ライフレビューでは、文字通り人生を一瞬のうちに振り返り、自己の想いや行為、そしてそれが他者に与えた影響までも、そこに浮かびあがることになる。

それは「魂・意識」そのものの自己認識であって、誤魔化し隠れる「物」「観念」などどこにも無く、逃げも隠れも出来ない、自己自身の自己直視が起きるということだ。

また、ライフレビューとは、後悔とか、そういうストイックでどこか自虐的な「反省」というものではなく、
人生で何を学んだかという、ある意味で質的な、厳密とも言える「霊的進化の自己確認」であるとも言えようか。
そこに後悔や悲しみ懺悔等という、個人中心のいわゆるエゴ的な、世間体で尤もらしい感覚の感情論はない。
 


何処か宗教的な意味合いと感じられようが、それを簡単に言うならば、
如何に人生で・・「愛」や「慈悲」、「調和」に気付き、
またそれを想いや、言葉や、行為で表現出来たろうか?・・・という自己評価とも言えるだろう。

なぜならば、存在諸世界は「それ」で創造されているからである。

人生においては、
喧嘩したり、争ったり、騙したり、あるいは逃げ隠れしたり、無知のぬるま湯で終生すごすなど、
実際のところ、そんな暇はないのだ。
また他が良いとか悪いとか、原因だとか・・・そんなことは全く見当違いなのである。

今までのこの世界のような、競争やせめぎあいでの進化?など、最も外れた観念、閑念だ。
天網恢恢疎にして洩らさず・・・・と言うことわざがあるが、
宇宙的な法則から外れたシステムは長く維持することは出来るわけもない。

それは本質的に・・・楽しくないからである。
誤解なく理解すべきことは、
<本質的な意味>で・・・楽しい在り方・・・それが本道であり、また調和と進化の目安なのだ。

全ての物、生物、現象も、いわゆる創造神、根源意識、あるいはサムシング・グレートの自己表現であり、したがって全てはその神なる自己へと回帰している、あるいはつながっている。
全体そのものが、あらゆる部分に、それ自体が畳み込まれているということ・・・。

またそれを、「一」はすなわち「多」なり、また「多」はすなわちひとつなり、
・・・あるいはオール・イン・ワンネス、また「全ては愛」と言うのは、
それであらゆるものがつながっていることを意味しているのである。

なかなか気付かないけれども、あなたも「神」だということ。
本来・・・楽しくない・・わけがないではないか!

あなたであると意識している<意識主体>は、
世界において「あなた」しかいない・・・極めて当たり前の事実
を直視すべきであろう。

「われ・・在り」は形を変えようとも、常に永遠に・・・今在る・・・

幾多の人生は、そして今の人生も、まさにその証拠である。

本質的な意味で・・・楽しい人生・・・それが本道にあることの目安だ。

ここがちょっと辛いと感じるかもしれないのだが、
それは、自らを・・・自らで・・・創ってゆくことであり、安易に誰かに与えられるものでもないということでもある。ましてや、お金を出して得られる貰える、浮ついた快楽や安穏さは、確かに単なる商品でしかないということだ。

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「臨死体験 9つの証拠」156ページより
・・・
 紹介するのはマークという若い男性のライフ・レビューだ。彼はタホ湖近くをジープでドライブ中、雪道で滑って電柱に激突した。そして車と電柱の間で押しつぶされ、重傷を負った。

このひどい事故のせいで本格的な臨死体験をしたが、それには本書の冒頭で述べたほとんどの特徴が含まれている。その中のひとつが、完全なライフ・レビューである。

 たとえばマークは、彼の人生で実際に合った出来事を、まるで映画の一場面のように見ている。自分のライフ・レビューについて語るとき、臨死体験者の多くが映画という表現を使っている。奇妙な夢のようなものとは違い、彼は自分の再体験に感情移入している。

 当たり前のようだが、自分の気持ちだけではなく、ほかの人がどう感じたのかまで知ることが出来るのだ。また彼は、自分の人生や人間の一生というものについて、いくつかの真理にたどり着いている。
 臨死体験を通した自己認識のおかげで、彼は残りの人生で自分が変わるための指針を手に入れた。アンケートにはこう書かれている。

「全ての人生は死で終わる。恐れることはない。『死は最高の冒険だ』と言ったのは、ピーターパンだったろうか?誰もがこの旅に出かける。死が訪れたら、恐れずに楽しもう」

 以下はマークのライフ・レビューだ。

・・・
[ どんなふうに始まったのかはっきりしないが、いわゆる「人生が走馬灯のように駆け巡る」とか、「ライフ・レビュー」とか呼ばれているようなことが自分に起こっていた。人生でやってきたさまざまなことについて、自分の感情を再び経験するだけでなく、周囲の人々の感情までも経験するのだ。いちばん衝撃的だったのが、母の感情だ。

 子供のとき養子になったぼくは、ちょっとした問題児だった。少年時代はほかの子に暴力をふるい、ドラッグやアルコールに溺れ、盗みをし、めちゃくちゃに車を乗り回し、成績も悪く、物を壊し、妹や動物を虐待した。問題行動を並べだすときりがないほどだ。

 要するに、こうした出来事全てを体験し、自分や周囲の人間の感情も体感したのだ。
だが、もっとも心に残ったのは、思ってもみなかった母の感情だった。彼女は、ぼくの死を知って深い悲しみに打ちのめされたが、息子がいざこざばかり起こしてきたことに対する複雑な感情も抱いているようだった。善い行いを何もせず、こんなに早く人生を終えてしまうことが悲劇的であるのは、私にもなんとなくわかった。

 母の気持ちを知ったおかげで、人生にまだやり残したことがあると悟った。
母や友達の悲しみは、とても深いものだった。問題ばかり起こしていたが、ぼくは友達に恵まれ、有名人とは言えないまでも人気者だったので、多くの人々がぼくの人生を、どうとらえているか知ることが出来た。とりわけ母の悲しみを知ったことにより、その後の人生が大きく変わった ]
・・・・

(つづく)

臨死体験の真実(2)シエイラの体験

2015-01-28 16:29:45 | 魂の諸相
臨死体験が科学的に認識され、次第にそれが既成の事実だという方向に動いて来たということは、実のところ、ようやく人類の世界認識範囲というものが広がってきたということだ。

いわゆるあの世とこの世の境界が壊れてきたとも言えるだろうし、誰も皆実際には多次元的な世界にいることに気付いて来たという事でもある。

あの世とか、この世とか・・・何かトンデモナイ仕組みがあるのかと言えば、そうでもなく、別段何もおどろおどろしいものはなく、知らないが故の怖れがそうさせるのである。
UFOだとか宇宙人だとかも全く同じことであり、知らない・解らない意識から出る「恐れ」が様々な枝葉を作ってきたということだ。

ただそこには・・・今まで多くの人がそれを知らなかったという事、あるいは知らされなかったという事、つまり何が何だかわからないこと、そういう未知なるものに対する恐怖があっただけだったのである。

そりゃそうだろう。

何が何だかを知らないと、「あーでもない、こうでもない」という妄想が先走り、あるいは歪んだ宗教観念での判定や、茶化して安心したり、または何でもかんでもトンデモ・・と決めつけるような「観念論」だけで終始することにもなる。

誰に聞いても答えは不明確であれば、結局は目先の生活だけ、この身の保身という生存本能だけが残ってしまうことになっていたわけだ。

人類の束縛観念の究極のものは、死への無知であり、したがって生への無知でもあったわけだ。

だから取りあえず、大勢に合わせて、身近な肉体の安楽さや快適さに邁進して来たということでもある。

そうではないか?

良いとか悪いとかではなく、世界認識及び自己認識そのものが狭かったと言って良い。

無知と恐怖が故の自己幽閉、この世とは、そういう思考・観念で閉じられた惑星次元であったとも言えようか。

例えで言えば、まるであの千と千尋の物語の、橋の向こうの小さな湯屋に閉じ込められていたようなものなのだ。






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「臨死体験 9つの証拠」46ページより

[私には昔から、いくつものアレルギーがあったの。生れついてのちょっとした不快の症状という程度のものだったけど、あの運命の日は、命を脅かされることになったわ。
外科医と麻酔医には、前もって全てのアレルギーを伝えてあった。どうしても必要という手術ではなかったし、緊急性も低かった。
医療チームは出来る限りの予防措置をしてくれたけれど、手術で使われた薬剤に私は深刻なアレルギー反応を起こした。あまりにも激しくて、心臓が止まったのよ。

 心臓が停止するとすぐに、自分が天上付近に浮いていると気づいた。私につないである心電図のモニターが見えたわ。線が水平になっていた。医師や看護師たちは必死で私を生き返らせようとしていた。眼下に広がる光景は完全にパニック状態だったわ。でも反対に私は深い安らぎを感じていたの。痛みは全くなかった。私の意識は手術室を漂い出して、ナースステーションに行ったわ。手術室にいたフロアのナースステーションだって、すぐにわかった。天井近くの高い場所から見下ろしていたから、看護師たちが忙しく業務をこなしているのが見えたのよ。
 
 しばらくそのまま見ていると、トンネルが開いたの。引き寄せられて中を進んでいくと、やがて反対側に明るい光が見えてきた。穏やかな気持ちだった。トンネルを抜けると美しい神秘的な光が満ちた場所で、私の前には、死んだはずの愛する肉親が数人いた。また会えたことがうれしくて抱きあったわ。

 圧倒的な愛と慈悲にあふれた神秘的な存在がそばにいた。「戻りたいか?」と聞かれて「わかりません」って答えた。当時は優柔不断だったから。
しばらく話し合って、肉体に戻ると決めた。本当に難しい選択だったわ。圧倒的な愛に満ちた場所にいたんですもの。そこにいると本当の故郷にいるのだと実感した。でも私は肉体に戻ったのよ。
 1日以上たって、私はICUで目覚めた。体中、チューブやワイヤーだらけだったわ。でも、この深遠な体験については話せなかった。しばらくして手術室にいたフロア・・あの時見えたナースステーションがあるところ・・に戻った私は、ようやく勇気をとり出して、看護師のひとりに臨死体験でみたものを話したの。

 その看護師はショックを受け、怖がっているみたいだった。そこはカソリックの病院だったから、修道女が私の話を聞くために送り込まれてきたのはまあ、当然よね。私が自分の体験を丁寧に説明すると、修道女はじっくり耳を傾けたあと、「悪魔の仕業」だと断言したの。そのあと誰にも話したくなくなったのも、無理ないでしょう]

(つづく)


臨死体験の真実(1) 科学的な統計から浮かび上がる事実

2015-01-27 08:12:08 | 魂の諸相
臨死体験とは、いわゆる病気や事故等で死にかけて、再び生きかえった人々の体験のことだ。

このブログでも、実際わたしの友人が大事故に遭遇して、病院に運ばれる前後で臨死体験をしたという記事を載せたことがある。

死とかの話は一般的に嫌がられる傾向があるのだろうが、実際誰でも間違いなく経験するものであって、怖いとか嫌だとかばかりでは解決できず、

逆にいったいそれは何だろうという具合の、勇気や探究心、本来の科学的精神が必要なことなのである。

この世に出てくること、そして去ること、その本質的事実から何世にも渡って逃げていてどうするのだろうか。

ここにも真実を知らせない、あるいは知りたくないという、世間一般に浸透した恐怖にもとづく迷妄観念があるということだ。

日本には古来から漠然とでもあった死生観が、明治以降の物質偏重観念への取り込みによって薄められた感があり、

例えて言えば、あの「千と千尋の神隠し」のアニメでの、冒頭の千尋の両親のような、何も考えないで喰うだけに専念しつつ、とうとう豚になってしまうようなお話は、単なるアニメストーリーではない。



しかしながら、この世界はある意味で過酷な世界だが、そうであればこそ、そこから上昇するための意識的エネルギーが得られるのである。

・・・


臨死体験 9つの証拠」ジェフリー」・ロング/ポール・ペリー共著(株ブックマン社)The evidennce of afterlife

という最近出された書籍があり、放射線医療医である著者が、1300以上の臨死体験のデータをウエブサイト上で集積した結果を発表している。(絶対と言って良いほど確認しておくべき事実報告、真正の量子物理解釈とおなじく、本道にある科学的文献の1つである。)

レイモンド・ムーニー、キュブラー・ロス他の研究者、日本では飯田史彦、現在東大の救急医療分野の教授矢作直樹氏の報告など、もちろん臨死体験、前世療法等に関する科学的でかつ有名な書籍は1970年代以降多く出されているが、この著者は「科学的に有意味だとされる統計的分類」を駆使して、体験談のなかの共通性を抽出しつつ、これらが間違いのない人類全般の「現実」であることを確証している、ということである。

未だに、全ては脳内の発火現象、それに伴う単なるイリュージョンであるかのような愚かな決めつけや逆に調べもしない非科学的見解で誤魔化そうとしている科学者やメディアもあるが、もうそちらの嘘の世界は消えかけているのである。

人間は単なる肉体であり、生は偶然の産物、死んだらすべて終わりだとする・・それこそが造られた恐怖のイリュージョンであったということだ。


・・・・
以下、しばらく前著の抜粋で内容を紹介することにする。

(同著7P)
 ずいぶん前に、わたしは「死」が全ての終わりだと考えるのをやめてしまった。だが、そう思えるようになるまでは長い時間がかかった。科学者の一家に生まれたこともあるだろう。父はアイオワ大学薬学部の教授だったし、ノーベル賞の候補になったこともある。そんな父をはじめとする家族の影響で、私は科学を信奉することになった。
 NDERF(臨死体験科学研究財団)で、1300もの臨死体験の事例を科学的に研究した結果、本書に示した九つの証拠はすべて、あるひとつの真実を浮かび上がらせたと私は信じている。

すなわち、死後の「生」は存在するという真実だ。

・・・・
(つづく)