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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

マインドの話(2)心ここにあらず

2019-12-20 05:58:27 | 語り部の章
これこそが・・仮想現実だ! というそれは、
根っから”そう想っている”という・・その意識状態のことだ。


根からすべての木が成長し、枝葉を伸ばし姿を広げるように、
思考、感情や体感記憶イメージの集合を創り上げている。
これが「魂」といわれるもので、その中には多生の記憶集合体も包含している。

魂の記憶集合体が1つの存在シナリオを選定し、
”わたし”という個人として、時空間内部に、自らを結実・顕現させているのだ。
---
物理的環境とか条件とか・・肉体感覚とか、重いとか熱いとか・・そういうものは、
その2次的知覚創造感覚として現れているに過ぎない。

その”根っこから想っている”・・一見単純な物言いだが、
自己の内部・意識・・に想起する想念を観察できるまでに至らねば、
これはそう簡単に理解は不能かもしれないが、

それしかないと意識的に・・絞り込んでいる・・信じ込んでいる、
あるいはフォーカスともいうが、それその状態そのものが、
仮想現実の経験領域として出現しているのである。


この世では、外側・環境があって、それによって意識・マインドが決まるという、
実際には最悪な「たわごと」を教えられる過程で、いつかそれが根の思考になってしまい、
環境、条件、物質が人間を規定するので、
この環境、条件、物質を少しづつでも改善せずば幸せにはなれない・・、
そういう根の思考も作り出す。

したがって、毎日の思いのつぶやきも出てくる。
---
いや応なく・・毎日毎日繰り返される現実は、
悟りどころか・・飯を食うための生活維持に翻弄されているではないか。
悟りで得られそうな幸福感すら、いったい全体?どこにあるのやら・・
これはどうしようもないではないか・・!?

・・と、

これはいわば思考の回路のようなもので、この状況のままでは、
同じ回路で同じ状況を生産することになるため、
はっきり・すっきり・・完全破棄!しなければならないのだ。

人類意識が変わるまで・・待っている?ならば、
実際には、それが足の引っ張り要因であろう。

使い終わった古びた道具は捨てるだろうに、
ましてやそれが身の丈に合わなくなったならば、
まずそれを捨て去らねば、他の新しい道具を扱えないではないか。

多くの場合自分のこころ・想念を観ていないため、
こころここにあらずのまま人生を繰り返すため、
こころのうろつくまま、右に左に翻弄されていて、
様々な不快や苦痛、軋轢を大量生産していることに気付かない。
そうして、
悪いのは社会や大勢の他者であるとそう思うのも・・マインド・思考である。

例えば自分に不快感や不幸感、恐怖感をもたらすと分かった「想念」、
小さな世界でぶつかり合いつぶしあって、へとへとに疲れるような「想念」を、
いつまで後生大事に持っているのかという話である。




微細な水の分子も人の想いによって反応することが報告されている。

水に「ありがとう!」感謝・感謝の念を投げかけた場合と、
「馬鹿野郎!、この野郎!」等を繰り返し投げかけた場合の違いは明瞭である。

上の写真はまるで花のように結晶した水分子であり、
下の絵はぐちゃぐちゃな水分子の集合を示している。

例えばこのような写真の信憑性にしても、それ自体の証拠を探し回ることも大切なことながら、サラサラと知識だけ仕入れただけでは事足らず、
誰でも今・・すぐ出来ることならば、それを想いと行為で試し・現す時期でもあろう。
そう・・、それが科学的な行為と言えよう。


マインドの話(1)仮想現実 

2019-12-18 05:03:15 | 語り部の章
真面目に科学的な探求をしたり、
現代においてコンピュータグラフィックに精通した人や、
または純粋な動機で瞑想に親しむ人たち、
あるいは意識内面を観察する「内観」を多少とも実践する人たちならば、

我々がいる世界は実体のない”バーチャルリアリティー”であるということが、
まったく妥当であると実感するだろう。

ここで”実感”という表現は・・・、なんとなくそう思うけれども、
実体はどうなんだろう?という中途半端な想いではなく、
いやはや・・そうだったという「悟り」のようなものである。

そう、実感・・・ここまで行けば「悟り」となる。

「悟り」とは・・分かってしまって、
もう後には戻らない意識レベルへのシフトとでもいうべきもの、
あるいは大いなる目覚め、妄信でない確信のようでもある。
例えば、
幼稚園児から小学生になって、また幼稚園に戻る友達は決していないようなものだ。

あるいは優しい表現であれば、
悟りあるいは覚醒とは、
二度と忘れることのない根本的な理解、もう後には戻れない意識進化のようなものだ。

あるいはまた別の表現で言えば、
エネルギーや振動数が一段と上昇し、情報量が飛躍的に増えるようなもの、

何も、霊的行者や神官や仏法僧の専売特許のことでもない。
あるいは人と違う(超)能力をもっている人のことでもないし、
有名大学の超偉い先生が知ってる何かでもなければ、
謎めいた噂の宇宙人のことでもない。

おー!、なんだ、実体のない世界なのか、
ならば、何がどうという事もなく、必死に何かに追いすがる必要も、
肉体の周りを仮の物で飾りまくり、
地位や名誉や知名度を生涯かけて獲得することもないではないか、
すくなくとも、もっと気楽に生きて行けるではないか・・と想うものだ。
スピリチュアルな知識を得た人ならば誰でも、
こういう一時の涼風感的な経験をしているかもしれない。

しかしながら、・・

とはいえ現実は重く、・・・なかなかそうは問屋が卸すわけもなく、
「そうかもしれないが・・しかし実際は違うがね~」ということで、
いわゆる現実生活という有象無象の重たい縛りの感覚に引き戻ってしまうものだ。

そうではないか?

いや応なく・・毎日毎日繰り返される現実は、
悟りどころか・・飯を食うための生活維持に翻弄されているではないか。
悟りで得られそうな幸福感すら、いったいどこにあるのやら・・

嗚呼、これはどうしようもないではないか・・!?

という話にもなるだろう。

ところで、あなたはどうだろうか?


でも、

ちょっと待って♫・・笑)、今の言葉~ ♪(ちょっと古いが山口百恵風?)

いや応なく・・毎日毎日繰り返される現実は、
悟りどころか・・飯を食うための生活維持に翻弄されているではないか。
悟りで得られそうな幸福感すら、いったい全体?どこにあるのやら・・
これはどうしようもないではないか・・!?

・・と、

これ自体が・・仮想現実なのである!



転生の話(20)眠り・まどろみ・目ざめ

2019-12-07 10:55:13 | 語り部の章
わたしたちの”肉体”とは、
”自ら”の意識の無限性を現すところの1つ1つの表現体であり、有限という姿を託(かこ)った、無限の意識の・現れにすぎない。

その現れを・・人は「生命」などと呼んでいる。
あるいはその粗大な形式においては「物質」と呼んでいる。

我々自身の身体、身の回り、環境内の諸物、見上げる宇宙も全てその現れなのだ。

既にこの世界の科学者たちは見いだした、
粗大な顕現形である物質を分解してゆくと、細胞、分子、原子、素粒子さらには基本的なクオーク、言わば、空(くう)に出現する存在と非存在の狭間で揺れる極微のエネルギー、現れては消え去るような挙動を繰り返す微小な何か、実際には在るのかないのか、とらえどころのない何か・・を見いだしたのだ。

もとはひとつ空(くう)より出でる無限小のエネルギーの振動・波動で、全てが構成され全てが創られていることを知ったのだ。

それは自分とは関係のない、難しい科学の世界の話だとして退けてはなるまい。


<わたし>・・の外側には決して存在しないところの、
・・神の・・目ざめ・・
おのれの無限性に・・気付いている働き・振動・波動のことを・・意識と呼び、その粗大な表現形を物質という。

意識とは・・私個人、あなた個人、誰それの”意識”にも、
また動物の本能的行動や植物や鉱物の姿形や、さまざまな反応にも現れている。

そう、あらゆる存在は・・意識・・である。

あなたの家の猫や犬、小動物のまなざしのその中にも「意識」が感じられるはずだ。

あらゆる存在は・・振動・波動であり、
創造の原初の・・無限の自己への気付き、
おのれへの目ざめから派生する「意識」である。

当然ながら、なじみ深い、あなたわたしの個人の意識にもそれが現れている。

これは人々が毎日、普通はその重要性に気付かずに通過している、
眠り、夢見、そして目が醒めた後の生活にも如実に現れている。

いわゆるこの世的、3次元的常識観念では、
体が眠り、体が夢を観て、体が生活をするとすり替えられている。

つまり(魂)意識が・・肉体次元に隷従しているということなのだが、

意識が眠り、意識が夢を観て、意識が目ざめて肉体次元で生活をするのである。

例えば、
次元上昇というのは・・何が・・次元上昇するのだろうか?
あくまでも、肉体が・・ホヤホヤニなって消えるのだろうか?
あるいは愚かにも、改造されたサイバーボディにでもなるのだろうか?

何が・・誰が・・
肉体や、環境や、世界や・・自分の思考や感情に気付いているのだろうか?
変化・転移・遷移そして転生にも気付いている不変なるものは・・誰?

意識から観れば・・我々の肉体は、意識が目が覚めた後に出現しているのだ。
その同じ肉体と環境の一定の時間と空間の体験が1つの人生であり、
大きな次なるサイクルへの転移、変化が・・転生と言われるもの。
あるいは、
魂意識の様々な自己表現形の移り変わり・・が転生だと言えよう。

ここまで気付いた人たちならば・・

身の回りや環境、人間関係、社会情勢、世界の動向もそれはそれとして、
それらのすべての元にある・・・わたし・・意識に・・最大の意識を向け、
自分自身の・・在るがままを・・深く理解しなければなるまい。

意識が目覚め、起きだしてから現れる幻想世界の信念形
自分は肉体だ、物質だ、脳髄だ・・という日常の想いを浴びるまま、
外側世界の個々人としての肉体の本能の刺激と享楽に酔い、
毎度毎度同じ中に安堵を求め、飯を食うために忙しく動き回るだけでは、

逆に・・だが、今、この世界にいる・・意味がないかもしれない。

せっかくの幻想の中の幻想の世界、
楽に見える苦や、後に苦痛となる愉悦、得れば奪われる富、
真実のような嘘八百の物語で塗り固められたこの3次元世界の幻想を、
見抜き、見破り、観念の殻を壊し去り、そこから、
さらに幸多き自在な自己表現へと上昇するために用意されたこの世界を、

気付かず知らずの無知のせいにして、
無駄にしてしまうのは、実に・・つまらないのではないだろうか。



創造の根源の欠片、一片として、

その根源と絶対に・・切っても切れないところの個々の魂・意識は、

”・・おのれが・・何か?”・・を知ろうとして、

根源から放たれる無数の光(波動)となって未知へと出かけた。

あなたやわたしたちが・・それなのだ。


幾多の人生 --I am THAT・・(わたしはこれだ・・)を通して、

今ここに・・在るのである。



(転生の話   了)
 





転生の話(19)わたし(本質)は肉体ではない

2019-12-02 05:29:02 | 語り部の章


●常識とは単に便宜上のもの、真実ではない


まず、この世の常識という迷信、
「自分は肉体であり、死んだら終わりの粗大な物質的な存在である」という認識あるいは信念は、ある物が時間とともに劣化したり、燃えたり、爆発・分解して消滅すれば、そのある物自体が知覚対象から消えてしまうため、その物はそれで終わりであると認識していることであり、さらに、それを自己にも当てはめているということだ。

●現象=わたし・という誤認識
つまり、わたしとは肉体であるからには、肉体死によって「わたし」も消滅すると考えるのだ。
しかしながら、これはすなわち、
わたしはわたし以外の様々な肉体形態の死の事象・現象を観察し認識している・・。
ということであり、次に・・同時に・・”わたしはその肉体形態であり”、その肉体死とともに消滅すると”思う”ことなのである。

その<わたし>・・が理解されていない(はず)にもかかわらず、当然のごとく、わたし=肉体、という判断を・・既に下しているということだ。




●そういう「想い」に気付けるか


えー、?どういうこと?・・だってそうじゃない!・・皆そういう経験しているし、
皆そう思っている・・というより、そうじゃないの?えー何言ってんだよ!

・・とそう思うものである。
これが常識で出来た集合意識の閉鎖枠の中の想念形である。

みんなそう想っているよ・・と、いったい ”誰が” そう思っているのか・・・?
そう、
わたし・・意識がそう想っている・・だけのことだ。

また、事実・事実というが、それは認識されたものの事実認識概念の集合であり、直接の観察・認識を抜きにして、事実・現象など存在し得ないことに気付かなければならない。

事象・現象へ気付いていること、その働きを・・意識・・といっている。

●現象は変化するのが宿命

春が過ぎ、夏が来て、いつのまにか秋が深まり、冬枯れを見る。
例えばその変化・現象の中にいる肉体も、同様の素材で出来ているからには、現れてはやがていつかは消え去ってしまうものだ。

そうではないか?

●他者も知覚対象

わたしたちはこの世界の諸現象の只中にいるがゆえに、その生成消滅を観察する。
特に人間世界というものを眺めた場合に、知人、友人、家族の中で、かつて生きていた人も、死んでしまって今はいない・・そういう経験は誰でもしているし、
大なり小なりのその衝撃を受けるがゆえに、あまりいい気味ではないし、出来れば避けたいと思う感情が、その事象を観察する意識を曇らせるとも言えよう。

嫌なものに蓋をするようなものだ。
そのため、自分を肉体レベルのままにして、その先を疎かにしていたのだとも言えよう。
嫌だ、怖い、そら恐ろしいことだとして、ただそのまま無視を決め込んできたのかもしれない。

実のところは・・・・死ぬなどという概念やそれに付随するネガティブな感情は、本来真の自己の真実ではないということを、内奥では知っているための違和感であるとも言えよう。

ある意味、ネガティブな感情、恐怖・・そのものが・・そこに放置されていたということだ。



●この世では常識自体がネガティブ


死という事象にネガティブな感情が付きまとうのは、殺伐として愛の少ない、嘘のはびこる世界での、身近な同志の喪失感が実に大きいからだと言えよう。

人間という意識的存在たちの有り様を言うならば、それぞれの肉体自我の刹那的な営利を目的としただけの想念と、その強烈な自己正当化のオンパレードのような世界であり、そのような世界では、生きること自体相当に過酷な状況であったとも言えよう。

お世辞にも豊かさと幸福の存分に味わえる世界とは言えないはずだ。

だからこそ、自分の長い記憶を一旦閉じてまで、あなたもよくもまあこの世界にまで来たものである。

あなたという魂の、その無類の勇気や強さは全宇宙の称賛に値する・・と、どこかのスピリチュアルな話でも聞いた事があるだろうか?

まったくその通り、こういう記事にしても、いつもただ目でサラサラ追っているだけかもしれないけれど、いまここにいて、自分が肉体・常識以上の何かであると気付いた・目覚めたならば、それは実に称賛に値するのである!

自信をもっていい・・等の話でなく、

既に今ここにいることで・・・実績・実証済みではないか!

●最大の迷信=私は肉体である

わたしとは肉体であるからには、その肉体死によって「わたし」も消滅する(だろう)。
多くの人がそうしているのだが、
それは、
”わたしは様々な肉体死の事象・現象を観察し認識している・・”
ということであり、と同時に、
<わたし>自体も、その肉体死とともに消滅する・・と”思う”ことなのである。

実のところ・・わたしに対する”想念形”・・なのである!

単純すぎて、身近すぎて分かりにくいかもしれないが、

<わたし>・・が理解されていない(はず)にもかかわらず、わたし=肉体、という判断を勝手に下しているということだ。

1つの迷える無知の正当化された”想念形”に過ぎないということだ。

誰も皆、わたし・・・意識内面に在る膨大な知識に気付いていないにもかかわらず、
わたしは肉体であると・・決めつけているという事だ。

「だって、そうじゃない?!」(笑)

●気付き対象は・・肉体から意識へ

死や転生に対する誤解や迷信に関しては、真のわたしとは・・に気付き始めた人だけが反応するだろう。

いったい誰が?そういう認識をしているのか?

いつもきまって常識や、権威、他者の意見に頼る意識レベルの場合は、
みんながそう思っているし、事実はそうじゃないか・・で終りなのだ。
自分で意識的に・・この先を探求しないままということだ。
別に良いも悪いもないが、ただ・・気付いていないだけということ。

●噂ではなく真実を探すべし

よく言われる事実とか現実とかいうものほどいい加減なものは無い。

例えば人が死んだ、終わった・・ということは、他者というあなたの知覚対象の”現象面の”生成と消滅を観察しているのであって、観察・・の当事者である・・わたし・・意識側の・・事実・・直接体験ではないということだ。

●本質のわたし・・の死は経験できない

まず、あなたは今生きており、未だかつて・・・今回この世界に生まれた後、死んだ経験が無い・・はずである。
そうではないか?

あなたは死んだら終わりだと・・それを言うならば、あなたが死んだならば・・その時にそれがわかるだけなのだ。臨死体験を経た人も、今生きているからこそである。


●わたしが死んで終わりは・・証明不可


たとえばあなたが肉体の賞味期限を過ぎた後には、その時には、この世から消滅して世界には存在しないため、決してわたしは死んだら終わりだったという、その証明などできないという事だ。

言えるのは、わたしの”肉体は”・・・生まれて死んだということだけ。
そもそも、あなたが死んだあと無になったとしたら?
いったい・・誰に証明するというのだろうか?

「わたし・・・が肉体であり、死んだら終わりである」・・ということは、
決して証明できないということだ。

●いったい何を信じ込んでいたのか?

証明できないことを集団で信じているからこそ、わたしは死んだら終わりの肉体人間である・・という常識観念は、迷える無知の正当化されただけの・・想念形だと言えるのである。

そして、
死んだら終わりであるという・・・そういう報告や事象なども起き得るものではない。

逆に、
いわゆる霊的世界からの通信とか、臨死体験の無数の報告など、有象無象のお話があるが、
死んでも終わりでない・・ことばかりの情報満載なのである。

これに引き換え、
自分は肉体であり、死んだら終わりだということを信じるという事は、情報のまったく無いデータを信じるということになるわけだ。

”オー、マイ GOD!” 

・・・
●目覚めとは・・意識・魂へ気付くこと

眼で追うだけでは理解に至ることは無いが、ここに書かれたことを経験に即して熟慮、理解できる人は、肉体や物質現象世界を超えたレベル、自分という存在の本質・・真我、不滅の魂の側面に既に気付いているということである。

この世もあの世も全ては事象・現象で満ち満ちており、その事象・現象、世界・宇宙の様々な世界創造を知覚・認識する「魂・意識」に気付いているという事であり、

わたしとは・・肉体という知覚対象・現象そのものではなく、それと不可分一体となってそれを知覚・観察している・・古くから言われる・・魂・あるいは根源意識・・真我に気付いているということだ。

様々な創造世界を知覚・認識・確認するための、様々な存在時空間への幾多の転生も、当たり前のように理解されることになるだろう。

問いかけてみよう・・、

「真のわたしとは・・誰か?」・・と。



転生の話(18)地球意識の転生

2019-11-25 13:03:04 | 語り部の章
迷信とは、迷った信念・思い込み
人類の歴史においては、実に古くから生まれ変わりの概念があるが、
近代、現代にいたって物質的な分野の科学的分析や法則化が進み、
転生・魂とか、そういうものは迷信だという強い風潮が席巻してきた。

仏教的教えや古くからの言い伝え等がある優れた文化でも、
そういう思想も、いつか現代科学の進展に準じて消滅してきたとも言えよう。
宗教はカルトに堕し、哲学は既に陳腐化してしまった。

●末法の世では、確かに、こころが否定される
いわゆる末法の世とは、仏教が廃れる世の中という事ではなく、
人間の霊性や精神性なるものが、全て物質的なものに置き換えられてしまう世、
ある意味で、ぐちゃぐちゃした、こころ模様を消去するかのような世界、
実にわかりやすく単純ながら、
味気なく、刹那的で、無味乾燥的な状況になってゆくことを意味している。

●こころのゴミを消し去る働き
この末法の世とは、大変な悪がはびこる末の世の中と考えるものだが、
そういう善悪の価値判断だけの話ではなく、
一種の「マインド浄化」、こころのゴミの断捨離に必須なプロセスでもあって、
実のところは・・これは必ず通過すべきものであるため、
古くからあるような予言等が可能なのである。

●崩壊と再生は予言されたこと
旧約・新約聖書、イスラム、仏教経典にある末期の時代を語る記録は、
このタイプの集合意識世界が、どのように進化・変化してゆくかという、
一種の科学的法則からの帰結としての記録であると言えよう。


●カルマの解消・昇華

ぐちゃぐちゃした感情的因縁の絡みあった集合意識内の精神的なゴミ、
幾世代間で絡み合った因果応報の反応の繰り返しの膨大な蓄積物、
あるいは枝葉の繁茂しきった状況からは必然的に腐敗が生じることになり、
当然ながら、あるいは必然的に自壊と崩壊に至ることは火を見るより明らかなのである。

この地球の生体系では、魂の進化に沿って出てきた副産物としての
腐った有機物あるいは調和から逸脱したシステムが飽和した段階では、
当たり前のように、短い時間スパンでの分解と崩壊が必然なのだ。

やや大きくは、
地球という大きな意識生命体におけるカルマの解消時であるとも言えよう。
カルマとは・・無知無明、因縁と悪感情という想念の塊のことであり、
その個々の魂・意識の波動や、それを受け入れ同期している地球という意識波動の、
そのかたまりを解きほぐすことが、アセンションとも言われるものである。

誰もが避けて通れない、カルマの解消と昇華への苦しい過程は、
エゴの作った閉鎖意識からの魂・意識の開放をもたらすことになるのだ。


●今はもう、もうは既に・・

こころすべきは、今がその末法の世、または黙示録の時代、
あるいは予言が成就される時代という事である。

アセンションという概念で言えば、ある人は2020年の冬至までが、
そのゲートの開いている時期である・・とも言っているが、
誰がそんな勝手なこと?・・等とは言っていられまい。

また、なにもおどろおどろしく宗教がかる必要もない。
身構えて、肉体・自己保身に走っても・・まったく意味も効果も無い。
生きるとか死ぬとか、怖いだとか、サバイバルだとか、
そういう我欲の想念形だけでは全く役に立つまい。

●他者の事ではなく、それぞれのわたしのこと
ある意味で、わたしたちの・・意識で・・知覚している世界、
大きなシステム全体の転生の時なのである。

なので、それぞれの人生のこと、生きる死ぬ、のみならず、
その・・わたしとは何か?
自らが何者なのかという、本質的なテーマに取り組まなければならない時期であろう。

大きなお世話だろうか。

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●今ここに多次元層あり
人類の営々と積み上げてしまった歪んだ記憶(想念の束)は、
生活のために必須だった家庭ごみのように、
地球の見えない波動域(層)に捨てられている。
実際は、どこかに捨てるつもりが、自らの時空内に波動となって記憶されているわけだ。

それは何も地球の物理的上空、あるいは静止軌道上の人口衛星のゴミばかりではないし、
各個人の肉体、DNA、頭脳等の局所だけに、個別に記憶されているわけでもない。


●原初の波動はすべての相(層)のベースにある

意識は原初の超微細な波動であるとすれば、
個々人の意識も、集合意識も、惑星意識も、宇宙意識も・・
その原初の波動帯(神・存在)にあるわけであり、
つまるところ、あなたの意識も・・原初・根源意識の中に含まれているわけである。

●人はみな原初の意識を体現している
空(くう)と称される・・空間・・そこらじゅう、あちらにもこちらにも様々なことが記憶されている。
なぜなら、最先端のまともな科学者が知っているように、
空(くう)はすべての波動母体だからだ。
想念も同じことで、人は誰も皆、熟睡中以外、夢の微睡であっても、
意識ある限り何かを考えているはずだ。

精神的なゴミの束は、人々の想いや発言、行為に如実に現れるものであり、
身近なことを含め、昨今の世界情勢をも観察している人ならば、
いまが相当に”来ている”状況だとわかるだろう。

あなたの知覚する身近な環境や社会の出来事の中に、
そして遠くの世界にも、今の時期は特に、そこから逃げにくい事象としても
その精神的なゴミ(カルマ)が噴出していることに気付けることだろう。

●想念は頭脳の中にあるわけではない
精神的なゴミはあるいは低次の想念波は、
電磁波が地球の大気を飛び回っていると同じように、
その時空内を伝搬振動していると考えなければなるまい。

その伝搬波動に同調するのが・・あなたの人体・頭脳・細胞ということだが、
これは妥当と考えられるだろうか?

頭脳が思いを作っていると考えるのは、
神経細胞の電気的信号を観察出来ることからきており、
それに間違いないものの、思考と同時に発生するその副次的に起きる電気信号は、
想念波動層からの受信結果であると考えられるだろう。
頭脳細胞の観察される電気信号は、情報受信の二次的結果として起きることである。

ある想いが、連想(同調)として瞬時に無数に想起されるのだ。

考えること・想念・・そのことである。

つまり、誰かが何かのきっかけでふと、「想う事」は、
その時空内の無数の定在波のうちの、ある想念波に同調していることを示している。

●スマホのでの例え

例えて言えば、スマホで、ぱっぱサラサラと何かを検索するのと似たようなものだ。
スマホは電磁波動帯の波動情報の感受だが、想念の場合も同じようなもの。

あなたの”意識する方向の何か”を 検索するようなものだ。
これは、アラジンの魔法のランプを使っているようなものだが、
ある人は、自分がお金持ちにならない限り、こういう奇跡のパワーに気付くまい。

定在化した意識に、同調して起きてくるのが「想い」であり、
想いが言葉や行為となるならば、
その想いや意識する方向性に・・注意すべきなのは、
まったくもって火を見るより明らかである。

●意識レベルを上げるとは
意識レベルを上げ、より俯瞰した意識的視座から自らを眺めることが重要である。

その意識の在り方を・・ありのままに観る行為、
つまり・・「観自在」を実践することをしない場合、
言い換えれば、
自らの・・意識の働きを観ない場合には、
想いの連関、連環、即座の想念出現の意味にも気づかないし、
その想念に翻弄されて、苦悩多き幻想の中を彷徨う事にもなろう。

あなたもそうだったかもしれないことに気付いているだろうか。

あなたが何かに”意識的に注意を向ける”時、
即座に”意識上”に現れる何かの”想い”は、
同調した波動域からダウンロードした情報であるとも言えるのである。


それを人々は・・考える・・としているのである。
もしそれがすでに経験済み、つまらないと分かっていることならば、
なぜことさら、繰り返しダウンロードするのか?

それが愚かな行為であるというのは、はっきり理解できることだろう。

それぞれのわたしたちは、何を意識するのか?

また、観自在であること、
自らの意識の在り方を、在りのままに観る意識的行為を通じて、
その様々な想いの上に自らを引き上げることが、

今の時期、いや今までも含め、

何を置いても大事なことではないのだろうか?

これでどうなるのか、

それで何が得られるのか?・・・そんな損得のレベルの話ではない。