気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

転生の話(19)わたし(本質)は肉体ではない

2019-12-02 05:29:02 | 語り部の章


●常識とは単に便宜上のもの、真実ではない


まず、この世の常識という迷信、
「自分は肉体であり、死んだら終わりの粗大な物質的な存在である」という認識あるいは信念は、ある物が時間とともに劣化したり、燃えたり、爆発・分解して消滅すれば、そのある物自体が知覚対象から消えてしまうため、その物はそれで終わりであると認識していることであり、さらに、それを自己にも当てはめているということだ。

●現象=わたし・という誤認識
つまり、わたしとは肉体であるからには、肉体死によって「わたし」も消滅すると考えるのだ。
しかしながら、これはすなわち、
わたしはわたし以外の様々な肉体形態の死の事象・現象を観察し認識している・・。
ということであり、次に・・同時に・・”わたしはその肉体形態であり”、その肉体死とともに消滅すると”思う”ことなのである。

その<わたし>・・が理解されていない(はず)にもかかわらず、当然のごとく、わたし=肉体、という判断を・・既に下しているということだ。




●そういう「想い」に気付けるか


えー、?どういうこと?・・だってそうじゃない!・・皆そういう経験しているし、
皆そう思っている・・というより、そうじゃないの?えー何言ってんだよ!

・・とそう思うものである。
これが常識で出来た集合意識の閉鎖枠の中の想念形である。

みんなそう想っているよ・・と、いったい ”誰が” そう思っているのか・・・?
そう、
わたし・・意識がそう想っている・・だけのことだ。

また、事実・事実というが、それは認識されたものの事実認識概念の集合であり、直接の観察・認識を抜きにして、事実・現象など存在し得ないことに気付かなければならない。

事象・現象へ気付いていること、その働きを・・意識・・といっている。

●現象は変化するのが宿命

春が過ぎ、夏が来て、いつのまにか秋が深まり、冬枯れを見る。
例えばその変化・現象の中にいる肉体も、同様の素材で出来ているからには、現れてはやがていつかは消え去ってしまうものだ。

そうではないか?

●他者も知覚対象

わたしたちはこの世界の諸現象の只中にいるがゆえに、その生成消滅を観察する。
特に人間世界というものを眺めた場合に、知人、友人、家族の中で、かつて生きていた人も、死んでしまって今はいない・・そういう経験は誰でもしているし、
大なり小なりのその衝撃を受けるがゆえに、あまりいい気味ではないし、出来れば避けたいと思う感情が、その事象を観察する意識を曇らせるとも言えよう。

嫌なものに蓋をするようなものだ。
そのため、自分を肉体レベルのままにして、その先を疎かにしていたのだとも言えよう。
嫌だ、怖い、そら恐ろしいことだとして、ただそのまま無視を決め込んできたのかもしれない。

実のところは・・・・死ぬなどという概念やそれに付随するネガティブな感情は、本来真の自己の真実ではないということを、内奥では知っているための違和感であるとも言えよう。

ある意味、ネガティブな感情、恐怖・・そのものが・・そこに放置されていたということだ。



●この世では常識自体がネガティブ


死という事象にネガティブな感情が付きまとうのは、殺伐として愛の少ない、嘘のはびこる世界での、身近な同志の喪失感が実に大きいからだと言えよう。

人間という意識的存在たちの有り様を言うならば、それぞれの肉体自我の刹那的な営利を目的としただけの想念と、その強烈な自己正当化のオンパレードのような世界であり、そのような世界では、生きること自体相当に過酷な状況であったとも言えよう。

お世辞にも豊かさと幸福の存分に味わえる世界とは言えないはずだ。

だからこそ、自分の長い記憶を一旦閉じてまで、あなたもよくもまあこの世界にまで来たものである。

あなたという魂の、その無類の勇気や強さは全宇宙の称賛に値する・・と、どこかのスピリチュアルな話でも聞いた事があるだろうか?

まったくその通り、こういう記事にしても、いつもただ目でサラサラ追っているだけかもしれないけれど、いまここにいて、自分が肉体・常識以上の何かであると気付いた・目覚めたならば、それは実に称賛に値するのである!

自信をもっていい・・等の話でなく、

既に今ここにいることで・・・実績・実証済みではないか!

●最大の迷信=私は肉体である

わたしとは肉体であるからには、その肉体死によって「わたし」も消滅する(だろう)。
多くの人がそうしているのだが、
それは、
”わたしは様々な肉体死の事象・現象を観察し認識している・・”
ということであり、と同時に、
<わたし>自体も、その肉体死とともに消滅する・・と”思う”ことなのである。

実のところ・・わたしに対する”想念形”・・なのである!

単純すぎて、身近すぎて分かりにくいかもしれないが、

<わたし>・・が理解されていない(はず)にもかかわらず、わたし=肉体、という判断を勝手に下しているということだ。

1つの迷える無知の正当化された”想念形”に過ぎないということだ。

誰も皆、わたし・・・意識内面に在る膨大な知識に気付いていないにもかかわらず、
わたしは肉体であると・・決めつけているという事だ。

「だって、そうじゃない?!」(笑)

●気付き対象は・・肉体から意識へ

死や転生に対する誤解や迷信に関しては、真のわたしとは・・に気付き始めた人だけが反応するだろう。

いったい誰が?そういう認識をしているのか?

いつもきまって常識や、権威、他者の意見に頼る意識レベルの場合は、
みんながそう思っているし、事実はそうじゃないか・・で終りなのだ。
自分で意識的に・・この先を探求しないままということだ。
別に良いも悪いもないが、ただ・・気付いていないだけということ。

●噂ではなく真実を探すべし

よく言われる事実とか現実とかいうものほどいい加減なものは無い。

例えば人が死んだ、終わった・・ということは、他者というあなたの知覚対象の”現象面の”生成と消滅を観察しているのであって、観察・・の当事者である・・わたし・・意識側の・・事実・・直接体験ではないということだ。

●本質のわたし・・の死は経験できない

まず、あなたは今生きており、未だかつて・・・今回この世界に生まれた後、死んだ経験が無い・・はずである。
そうではないか?

あなたは死んだら終わりだと・・それを言うならば、あなたが死んだならば・・その時にそれがわかるだけなのだ。臨死体験を経た人も、今生きているからこそである。


●わたしが死んで終わりは・・証明不可


たとえばあなたが肉体の賞味期限を過ぎた後には、その時には、この世から消滅して世界には存在しないため、決してわたしは死んだら終わりだったという、その証明などできないという事だ。

言えるのは、わたしの”肉体は”・・・生まれて死んだということだけ。
そもそも、あなたが死んだあと無になったとしたら?
いったい・・誰に証明するというのだろうか?

「わたし・・・が肉体であり、死んだら終わりである」・・ということは、
決して証明できないということだ。

●いったい何を信じ込んでいたのか?

証明できないことを集団で信じているからこそ、わたしは死んだら終わりの肉体人間である・・という常識観念は、迷える無知の正当化されただけの・・想念形だと言えるのである。

そして、
死んだら終わりであるという・・・そういう報告や事象なども起き得るものではない。

逆に、
いわゆる霊的世界からの通信とか、臨死体験の無数の報告など、有象無象のお話があるが、
死んでも終わりでない・・ことばかりの情報満載なのである。

これに引き換え、
自分は肉体であり、死んだら終わりだということを信じるという事は、情報のまったく無いデータを信じるということになるわけだ。

”オー、マイ GOD!” 

・・・
●目覚めとは・・意識・魂へ気付くこと

眼で追うだけでは理解に至ることは無いが、ここに書かれたことを経験に即して熟慮、理解できる人は、肉体や物質現象世界を超えたレベル、自分という存在の本質・・真我、不滅の魂の側面に既に気付いているということである。

この世もあの世も全ては事象・現象で満ち満ちており、その事象・現象、世界・宇宙の様々な世界創造を知覚・認識する「魂・意識」に気付いているという事であり、

わたしとは・・肉体という知覚対象・現象そのものではなく、それと不可分一体となってそれを知覚・観察している・・古くから言われる・・魂・あるいは根源意識・・真我に気付いているということだ。

様々な創造世界を知覚・認識・確認するための、様々な存在時空間への幾多の転生も、当たり前のように理解されることになるだろう。

問いかけてみよう・・、

「真のわたしとは・・誰か?」・・と。



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