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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

転生の話(17)記憶のアクセスキー

2019-11-16 08:26:01 | 語り部の章

●転生の記憶

人々の多くは「転生」という言葉を知ってはいるが、ほとんど馴染みがないといっていい。

概念としては知ってはいても、それが自分とどう関係しているのか?

多分、それを突っ込んで探求・調査などしたことがほとんどないだろうということだ。

あなたはどうだろうか?

多分、そのような概念に全く無縁な人はこれを読んではいまい。


●過去生が無ければ来世も無いという考え

前世の記憶があるならば、わたしに転生(生れかわり)があることが理解できるが、

その前世の記憶が無いために、前が無い・・ならば、後も無い・・と、

そう言う風に考えるのは自然なことだと思うものだ。

普通は漠然とながらそういう考えを通過しているはずだ。

その思考のまま、その先を突っ込まないまま、肉体の維持できる間だけ、

忙しく人生を消費するということをやっていたということだ。


そんなもの無いと、みんなそう言っていると勝手に鵜呑みにしているわけだが、

鵜匠に使われる「鵜」は、ただ上に指示されるように魚を飲み込む者の例えだ。

与えられていない、または聞いてない、

わたしの・・今のこの意識には、過去の記憶がない・・、

なので、一切無いということにして、そのまま・・

何もしていないという事である。

それで良いと、人生を通じて思い込んでいるということだ。

皆が信じていることが正しいという考えを吹き込まれ、また、

事実ならば、教えられるはずだと・・そう思い込んでいるふしもある。

しかしながら、この世界は決してそんなお花畑的世界ではない。



●アクセスしないものは出てこない


前世記憶などは・・無いのではなく、

単に・・”アクセス”していない・・ということだ。

アクセスとはこの場合、意識探査とも言える行為だ。


原理原則を言えば、

根源・神・創造者が宇宙すべてを創っているというように、

(魂・)意識が知覚対象世界を投影しているのであって、

知覚対象世界(現象)が、意識を創っているのではないということ
である。

これは深く理解すべきところであって、

これを理解することは、大いなる意識転換であると言えるだろう。


●全ては気付き・意識の対象

単純に”こころが先か物が先か”というのではなく、

唯物論か唯心論かの、永遠のバトルロイヤルでもなく、

物もこころも・・いわゆる次元(波動帯)は違えど、気付き・意識の対象ということだ。


そして、

前世の記憶”情報”というのも、やはり意識の知覚対象に含まれるのである。

他人にトイレの用を済ましてもらうことが出来ないように、

自分でアクセス・知覚しないで、どうもこうもありはしない。

気付くまでは永遠に。


●アセンションは内側から外側へグレンと引っ繰り返ること

余談かも知れないが、

外側世界が変わることがアセンションだという誤解釈?も未だにあるようだが、

(集合)魂・意識の、その(波動)質に応じて、集合世界が展開するということ、

また今は、その一段の意識波動の上昇時期にあるということであるが、

これは妥当と感じられるだろうか。

内側(意識)が、外側(知覚世界)に

グレンと(一機に)

引っ繰り返る(転換)する時期(周期)とも言えよう。

なので量子的飛躍などとも言われる所以である。

量子的飛躍とは、エネルギーの増大して飽和した量子(素粒子)が、

一気にその活動位置を上昇・ジャンプするようなことである。


魂意識の波動(周波数)レベルの高い人は、

それだけ情報アクセス力もあるといえるため、

いま世界の様相がかなり変わってきていることに気づいているはずである。


●科学的実践意識へ

誰もが科学的な姿勢を重んじるというだろうが、そもそも、

科学的姿勢とは、それが事実かどうか試しつつ法則を見いだしてゆく行為である。

そして、

転生の証、前世の記憶、つまり
魂レベルの・・わたし・・の情報に関することは、

そもそも、・・わたしの意識・・の事なので、

わたし(意識)が・・為すことが必須なのである。

また、

それぞれの別のわたし(意識)達が経験して出した結果等を参考にすることも

立派に科学的な姿勢なのである。


意味不明で思わせぶりな、悟った風な謎の人達の言い分を鵜呑みに信じることではないし、

ましてや、意識的、霊的と言われる次元のことなど、

試してもいないどこかの先生が話すこと、単なる権威づけされた言説などには、

どんな真実性も妥当性も無いことに気付かなければならない。



これはよく言われる個人だけの主観的経験の話ではなく、

意識としての・・それぞれのわたし・・の科学的法則の探求なのである。



物質組成が意識を作っているはずだと言っている

頭脳や神経、裁縫組織という肉体機能を研究しているとされる科学者は、

わたし・・意識の直接の経験をせずに、ことを済まそうとしているわけであり、

それこそ単なる”思い込み”なのであるということなのだ。

真実は・・単に理論や推論だけではなく、

直接経験・・今・・生きて在る・・ことに深く気づいてゆく直接経験からくる。

そうではないか?



●今在ることの中にすべては存在する


意識は・・存在・・そのものである。

今・・在ることの中に・・・すべて、そう過去も未来もある。

あなたの転生の記憶も、いまそこに、

すでに人としての形として再現・出現しているといえるのだ。


過去も未来も・・今の瞬間・・の連続であり、

その連続という感覚は・・「記憶」の連続として形を成している。


今の気付いている・・(顕在化した)意識、

肉体的に生まれてからその時までの断片的な記憶は、

その意識表層にあるごく一部の記憶に過ぎない。

要するに、わたしとは単なる肉体であるという信念が、

意識的なアクセス範囲を狭くしているのだ。


わたしとは・・何かという・・真我への持続した問いそのものが、

前世の記憶も含む、その広大無辺な層への”アクセスキー”なのである。


この先、

外の映画の世界(変動する知覚対象世界)に巻き込まれたままか、

それを投影しているその光源(意識)に気づいてゆくか

・・今選択すべき方向性といえば、ただそれだけと言えよう。





転生の話(16)忘我と輪廻

2019-11-12 09:07:20 | 語り部の章

●魂とは存在そのもの

魂というのは「意識」あるいは「存在」という意味でもある。

自意識は・・自分自身だけが”内側から”感じている存在感覚である。

内側?、肉体の中?、そんなはずはあるまい。

そう、内側・・というのが・・意識ともいえよう。


●魂はその存在の光源から投影される世界を伴う


内側から・・すべての世界が投影されるという意味は、

意識によって・・その知覚対象世界が現れているということだ。


観ている映画の世界が・・観客席のわたしではないように、

知覚対象世界そのものが・・・(わたし)意識を創っているのではない。


●ある時空間(世界)に生まれるとは

わたし意識が、とある(知覚対象世界)に参加した・・のが、

その世界に生まれた・・ということだ。


その・・とある知覚対象世界は、

とある一定の集合意識で映し出された世界であり、

魂・意識である”あなた”は・・そこに「興味」を感じたがゆえに、

その世界に・・意識として参加したということだ。

生まれるとは、意識が肉体を伴って出現するということだ。


●無数の集合意識世界への参入と経験

諸世界とは・・宇宙において、とある一定の集合意識の作り出す諸世界のことであり、

あなたはその、とある集合意識世界(今の・この地球世界)に参加・参入したというわけだ。

参加・参入といっても、肉体が・・ではないことは明白だろう。

これは何かのコンサートにチケットを買って参加するのに似ているが、

魂・意識の参加は、その”時空を超えた”ところからの”魂・意識”による参入である。

その参加・参入以降に、自らを忘れたことにより、

元の魂・意識(いわばホーム)への帰還も忘れ、

その時空内で多くの転生が行われる場合がある。

そうやって、気づかぬ間に無意識的に行われる繰り返し転生を輪廻転生という。

理解可能だろうか?


●3次元的世界へと意識がダイブ


いわゆる3次元的と呼ばれる世界、例えば今のこの地球ワールド、

自己が肉体であるという認識レベルの者たちが集い、共同創造されている世界では、

特別な魂・意識のものが意図して降下した場合以外は、

自己忘我という、

トンデモナク破天荒?な設定がされていたということだが、

自らのことをさっぱり忘れるという経過を経ているため、

再び思い出す過程が必要になって、

そのための繰り返し試行過程としての輪廻転生が存在したということでもある。

もちろんそのこと自体、実に得難く不可思議な魂にとっての経験になるものだ。

そう、I AM THAT I AM

それも自己創造であり、自らの探求でもありながら、

死んだら終わりだと・・思い込んでいては、

毎度、死んだら終わり・・で、生まれ変わることになる。

つまり、前世などというものを憶えていない、

あるいは思い出しにくい境遇に生まれるという事にもなるはずだ。


あなたは今、どうだろうか?

いつでも自我のスタート点に引き戻される経験は、いかがだっただろうか?


しかしながら、

今までのこの世界では、そういう状況が大勢を占めていたわけだが、

実のところ、すでにもう大きく変わってきたことにも気づけるだろうか?


例えば ”今だけ”・・降りてきている高次からの情報のうち、

下記のような賢者の子供の語り風のパフォーマンスの中に、

真実の一端を感じ、思い出してゆくだろうか?

あるいは、単なる無知なる子どもの嘘八百だとして捨て去るだろうか?




うわべは子供、中身は魂の賢者の語る生と死







転生の話(15)記憶のアップ・ダウンロード

2019-11-02 09:08:09 | 語り部の章
あなたは「魂」のことを何も知らないと思っているかもしれない。

この世界のほとんどの人にとっては、

今では転生の主体としての「魂」と言う概念さえ迷信、死語になっているかのようだ。

そんな抽象的なことにかかずりあっていては生活も成功もできない・・という

世間全体の物質栄華先行の社会観念プログラムが邪魔をして、

真の自分自身のことの探求が生涯にわたっておろそかにされるため、

自己保身で安全と見える集団の惰性の中で生きて行き、やがては年老いて、

あるいは偶然・ハプニング・事象の異変に巻き込まれてこの世界から去るような、

その生涯を何度も何度も繰り返すことにもなるということだ。


そういう自己自身・魂に関して”無意識”であるがゆえに、

無自覚でこの世の人生を幾度も繰り返すことを「輪廻転生」と言えよう。

クルクル回る無限ループの輪・・輪廻である。


自己自身に関してどんな探求もせず、

他者や世界の事ばかりをいじくりまわして挫折・失望・恨み・後悔を繰り返し、

気付かず知らず、その幾多の生に渡って潜在意識に蓄積された記憶の束、

皆々どこかに感じているはずの真の自己、真我、

本来の自由自在の魂の本質から遥かに疎遠なはずの「歪んだ記憶の束」のことを、

”カルマ”と言っていいだろう。


カルマは主に”歪んだ感情”や、”癖になった想念”によって形になっている。

その感情や思考の記憶は、現在の生における性格や行動様式、

つまり、気付かず知らず・・ついつい出てくる思考様式、

根っこの想念と、その表現形としての「性格」「人格」「個性」として現れている。

そして、その想念に無自覚なまま考え・話し、行為してしまうことで、

様々な不都合・不幸な出来事が起きてくるのだ。


これをパソコンで例えるならば、

パソコンは”プログラムされたとおりに”動いているわけで、

そのプログラムを変えない限り、パソコンの動き・働きは決して変わらないようなものだ。

本体内の見えないプログラムがぐちゃぐちゃ・幼稚であれば、

パソコンの動きや機能もぐちゃぐちゃになって、

多分誰でも・・怒りまくるはずである・・(笑)


プログラムはパソコン本体・機械のなかの、

ほんのごく一部に書かれている小さな容量の膨大な文書であり、

専門家でなければどこをどう探していいか分からないものである。

また、そのパソコン(人でいう肉体)が壊れた・死んだ場合には、

そのプログラムもそのまま捨てられるのではなく、

決して無駄にせずに別の機種に転写され、再現されるだろう。


人の肉体死の後には、魂という膨大なプログラムはアップロード・保存され、

この世で言えば、別の(赤子の)肉体にダウンロードされるということだ。


あなたは幼少期・・自分の意識に気付いたのはいつだったろうか?

親たちが、この世界の生体系の中の仕組みに沿って生殖行為し

結果用意された赤子の肉体に「魂」がダウンロードされ、

それを可能にしている・・それ・・真我こそが、

そこに自己自身を置いた・・自己投入した、その時が、

この世界に再び降り立った時であると言えようか。


無限の意識が個別化しつつ、

本来の無限性に帰還するプロセスが「魂」の進化と言えようか。

その中で、おのれ自身まで忘れて艱難辛苦の末に・・思い出す、

奇跡的な経験が出来る時空としてのこの地球という閉じたフィールドは、

今まさに種から地上へと雄々しく開花する時を迎えている。

嗚呼、これもまた良きかな・・ではないか。

地球もすでに転生時期であるからこそ、今誰でも気づくほどに大きく変化していると言えよう。


あなたはもう気付くべき時、目ざめるべき時が来ていると、

・・そう想えないだろうか?

少なくとも、昨今の明らかな地球の変化に気付けば、

尋常ならざる時に至ったことが、既にわかるはずである。




転生の話(14)転生の仕組み

2019-10-27 09:01:51 | 語り部の章
人生とは何かを例えで話をすることにしよう。

生れることや死ぬこととは何かのたとえ話である。

超簡単に例えれば、

お気に入りの映画を上映している映画館に入り、観賞したのちに家に帰るようなものだ。


またそれは・・好奇心に満ちた・・魂:個性化した意識が、

さらに壮大な意識のプロデュースする「物語」の中に入り込み、

そして出てゆくことである。

それを繰り返して映画を楽しむようなものである。

楽しむ?とは、実に意味深い言葉であり、

経験・体験そのものには良いとか悪いとか、高いとか低いとか、

立派だとかみじめだとか、そういう後付けの幻想観念とは無縁の・・、

存在・・在ることの、創造の・・醍醐味なのである。

わたしは・・今・・在る・・。



好奇心に満ちた・・魂:個性化した意識が、

壮大な宇宙意識のプロデュースする「物語」の中に入り込み、それを体験する。

肉体とはそのためのツールのようなものだ。

なので決してあなたはその”肉体”そのものではない。


従って、宇宙スピリチュアル系列の情報で言われるように、

あなたは地球に生まれるように、自らが決めて来た魂であるというのも当て外れではない。

あるいは、あなたは何度もある地域・時代から、別のある地域・時代に転生したというのも、決して当て外れではない。


ただそれを思い出す、あるいは想起するような世界ではないために、

すっとそれを知らずに過ごしてきた、

つまり寝ては起きて動く日常人生、意識が眠り目覚めるその繰り返し、

さらにはその大きな生死というサイクル・浮き沈みの中にいたのである。


しかしながら、一回1回で全てを忘れて、また生まれ変わっても、

転生をする本質である魂、

共通の意識体・情報を伴ったエネルギーには全てが記憶されるため、

表面意識ではなかなか気付かないけれども、確実に魂・意識は進化しているのである。



「わたしとは肉体だ」・・という虚構、幻想の「自己認識」

誰も言わないけれども、それが既存の常識であるかのような支配観念、

あなたが今、人間をやっているという事は、

人間としての意識経験を十分にしているからこそのことである。


つまり何度も様々なレベルでの「転生」を繰り返しているからこその、

今の人生・意識レベルそして見識なのだ。


何もせずに、ただで(笑)・・勝手に偶然に起きることなどないと、

この世で既に経験済みではなかろうか。


実に身近な・・わたしという・・存在の、

実際の在り方を深く深く・・観てゆく実践行為を、

実におろそかにする世界である(あった)ため、

死という、それがどういう事なのか全然わからない状態のままであったと言えよう。


例えば、

映画館で1つの映画を観終わっても、その映画が全てだと思い込んでいるならば、

その映画(人生)の終わりの後も、その意識レベル(観客席)に居続けてしまうことで、

また同じような映画を観る羽目になってしまうということだ。


そしてその生誕と死の仕組みでいえば、

その映画(この世界)への参入は・・

自分がちゃんと親から生まれた赤ん坊という設定を持っているため、

実にリアルに自己自身が肉体として生まれてくるように見えるのである。

オギャーと泣いた瞬間に、

もうすでにその映画(人生・世界)に立派に出現したという事である。


生れて来た自分自身に気付く・・

実際に・・あなたが幼少期に・・自分自身に気付いたのはいつ頃だろうか?

それはあなたの肉体が気付いたのだろうか?


幼児期の肉体が気付いたのだろうか?

意識だからこそ、幼児である自分に・・・気付いたのだろうか?


”気付き”に・・肉体も頭脳も無く・・・気付き・意識そのものであると、理解できるだろうか?

それとも何か物体的なものが無いと”信じ”られないだろうか。

それも「想い」に他ならないし、身に着けている肉体は・・

あなた自身ではなく、あなたの知覚対象であることに・・気付けるだろうか?


宇宙創造は・・実に微に入り細に入り精巧に創られるものであるため、

これが魂のための体験物語だとは・・露とも思えないということだ。


外の世界でなく・・それを観ている・・わたしとは何か・・に、

深く深く・・気付いてゆくまでは・・・・。


そう、

宇宙創造さえも・・いわゆる神の・・”気付き”の対象なのである。




転生の話(13)想念の質

2019-10-15 07:17:55 | 語り部の章

若い時でも老いた時でも、
そして誰でも理解していることなのだが、そう、人生には限りがある。
そうではないか?

あなたやわたしが、いつまでも若い若い・・と思っていても、
いつか、気付けば・・歳をとっていることに気付くはずだ。
気付けば・・常に・・「あっ」と、時が過ぎているだろう。

そして、それに気づかぬ状況・日常の生活にいつも舞い戻る・・のである。
日常の生活とはつまり、自分の肉体、家族、社会生活を維持しなければならないという、
社会常識観念の集合で出来ており、
それから何か外れたことをすることに常に恐怖を感じているからである。

そう、色々な意味において、既成の観念から外れることは、
犯罪やら事故やら、社会的トラブルやらの恐怖の宣伝によって、
何でもかんでも、問題が起きてしまう様なイメージを植え付けられるため、
そこから逸脱、あるいは解脱することを畏怖してしまうのである。

しかしながら、「常識」という当たり前の観念体系の中にある、
実に見えにくい呪縛、強い集合意識的な傾向にはなかなか気づけない。

生まれ変わりや転生さえも、自己の意図によって生起することを知るべきである。

わたしの世界の原因としての・・自己とは、
自分の持つ体でも、それを取り巻く環境でもなく、
ましてやご先祖さまでも、時の支配者でもなく、

それらすべての対象世界に・・気付いている・・こと、
認識主体としての・・わたし・・意識・・のことである。

人が、ある意識的傾向、想念形を持続して持っているならば、
それが魂・意識におけるテンポラリーな”内部プログラム”となって、
人生やさらにその大きなサイクルを示す「転生」までも大きく影響を与えることになる。

引き寄せなどと言われる、想いによる現象誘因作用は、
何も1つの人生の中だけではなく、
より大きな幾多の人生においても有効となる法則と言えようか。

そうだ、
わたし・・意識の創る想念波動が様々な人生シナリオを描き出すと思えないだろうか?
それとも、人生・生命とは、何かあなた任せの単発・偶然の出来事だろうか?

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例えば昔、仏教僧たちが真言・念仏を唱えれば極楽浄土に行けると強調したのは、
迷信や人集めの仏教宣伝ということではなく、
念仏や真言により、少しでも想念の質を変えようとする行為によって、
今の瞬間の連続であるその時どきの人生や、
さらにその大きなサイクルである生と死、
つまり「転生」のサイクルをも改善をすべきであると説いているわけだ。

改善というよりも、より自由度のある自己表現形への意識進化とも言えよう。

つまり、生まれ変わり・転生も、想いの質、
意識における自己プログラムに沿って起こるということである。

簡単に言えば、
想い・想念、そしてそこから出力される表現・行為によって生起するということだ。

想念・想いの質が・・形として現れるわけで、
そこに嘘や隠しは全く通用しない。

そのまんま・・わたしの・・知覚する存在世界として映し出されるのである。

そして、生まれ変わる主体としての「魂」、
つまり、
あなたやわたしたちの本質としての個性化した魂・意識は、
すべて・・ひとつ・・の無限の(宇宙)意識の分化したもの、
あるいは全体の個別化という実に奇跡的な意識存在なのである。

意識存在は・・
その意識に重畳する波動、簡単に言えば想念の質によって、
それにふさわしい波動表現形、
つまり身体・環境・世界・宇宙の中心として自己顕現するということだ。

したがって、例えば、
あなたはこの世に生まれることを決めて来た・・・
等とスピリチュアルな話で言われることも、全くその通りで、
意識に生起する意図・・想念の質がシナリオになって、
そのとおりここに生まれてきたと言う事である。

ある意味で、
無知と無意識の支配してきたこの世界に「わたし」として出現すること、
今・・ここで、生きていることは・・、
そういう意図、つまり自己を忘れて再び思い出すこと、
無知・無明から雄々しく経ち返る意図があるからなのだと言えよう。

あなたは自分のことをどう想っているだろうか?

I AM THAT・・I AM.

ここで、 I(わたし) とは、
その時々の人生における肉体自我の事ではないことを、
すでに「あなた」は気付いていることだろう。