気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識と物質のはざま

2021-09-11 08:02:41 | 語り部の章

私たちの身体、周囲の環境物のすべては・・「物質」とされている。

我々の肉体、環境のすべては・・様々な物質で出来ている。

あなたもここで生きるためには様々な物質を大事にしているはずだ。

ある人達はその物質の所有を必死に追い求め、財を成し、地域、国家、世界を支配するようにまでなったり、

その物質の所有量、金銭換算された富から生じる権威や権力にしがみつく。

 

しかしながら、その物質は・・さらに肉体も、

実に中身の希薄な・在るのか無いのか不明な”代物”なのである。

重厚な金であろうと、鉛であろうと・・、

その密度の程度はあれ中身はスカスカの有るような無いような代物である。

 

ここでは何度も記事にしたが、

また、物質は、分子・原子・素粒子で出来ているとされている。

原子の古典的モデルでは、

原子は原子核と、その周囲を取り巻く電子で出来ていて

電子が原子核の周りをぐるぐる回っているという。

 

その物質密度を表す例として、

「原子核」が東京駅にあるバレーボールの大きさとすれば、

その周りをまわる「電子は」、数十km先の小田原駅にあるピンポン玉のようなものだとされる。

その間はなにも無い ”真空” ということだ。

 

つまり原子核と電子・・それらで構成されている原子は、ほとんど空っぽの空間ということになる。

つまり・・、濃密だとか重いとか言っている物質とは、

ゼロではないが・・99.9999999・・パーセント以上が空間なのである。

等身大の世界、日常では全く感覚がないが・・

わたしたちは、ほとんど空(からっぽ)の世界にいるということだ。

あなた自身も・・ほぼ・・空っぽの空間なのである。

 

わたしとは何か?・・・といった場合、

ほとんど・・空(くう)・・というのがほぼ正しい見解であり、

自分はこの肉体だ・・・というのは・・99.9999・・パーセント、

見当違いだと言えるのである・・・・。

 

そんな馬鹿な・・・?・・と言う人は、まだ望みがあると言える。

普通はそこまで行かないもの。

つまり、

わたしは肉体である・・、猿に近い知的動物である・・という概念の中に縛り付けられているのだ。

 

さて、

量子力学的検証・見解では、

その真空の中に・・いつか原初の超微細な・・振動・波動が起きるのだ!

それが・・その原初の超微細な振動・波動・・が、波長を変え、重合・分離を繰り返し、あまねくすべての物質を創り上げているということだ。

あなたの身の回り、肉体自身・・世界・宇宙すべてそれである。

 

しかし無の中に・・何かが起きる・・わけはない・・、

無という概念は・・無い・・ことを意味しており、

したがって真空は・・それを無と言わず・・空(くう)という。

真の・・空(くう)。

 

これは、般若心経の・・色即是空・・そのものである。

かたちは、なにも無いと見える・・空(くう)から現れるのだ。

 

ちなみに、物質が・・・空間中を移動する・運動する・・と見えているのは、

物質があって・・空間中を移動している・・のではなく、

空間そのものが・・連続して物質形に順次生成、消滅を繰り返しているともいえるのである。

 

量子力学的見解では・・

空間が・・物質になっている、なり続けているということだ!

 

オー、マイゴッド!・・と、こころで叫ぶ人は幸いである。

勝手な見解ながら、3(4)次元レベルの認識を越えたからである。

 

いつかビッグバンで物質が出来たのではなく、

 

いまここで・・・、物質は生成・消滅を繰り返しているのだ。

 

理解可能だろうか?

 

しかしながら・・・どうして・・真空の中に・・物質の元になる・・

原初の波動・エネルギーが・・起きるのだろう?

 

元々、なにも無い・・エネルギーもない・・その真空から・・、

どうして・・原初の波動・物質の元になる・・微細な波動が起きるのだろうか?

 

あなたはどう思うだろうか?

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


気付きの根源

2021-08-22 18:28:22 | 語り部の章

私たちは、今・・生きていることを知っている。

どんな人も、これは例外なくそうだ。

そう、

それは「意識」があるからだ。

そして、意識があるから世界がある。

 

意識とは気づいていることであり、

自分自身を・・意識していること・・気づいている・・のである。

これを軽いものと見逃してはならない・・。

 

”気付いていること”が・・すべてのわたし・・の原点だ。

意識・・と言っているものである。

これがすべての・・根幹にある。

 

モノではない、音ではない、触感ではない、大きさではない、

心地よいか、そうでないか、・・・狭いか、広大かではない。

たとえ広大な宇宙も・・そこに根源があるのではない。

 

創造の根源は・・そんなものではない。

宇宙すべてが。。気づきの集合体と言ってもいい。

それらすべてに・・気づいている・それ・・意識・だ。

また気付くことのあらゆる集合が意識と言ってもいい。

また・・意識は・・分割されえない。

1つ、1人と思える意識は・・メビウスの輪のように全体と一体なのだ。

 

根源の一部、例えばあなたは・・全部の中の1部分ではなく・・・、

根源をしょってたっている・・代表の1人のようなものであり、

代表の背後には・・無限のサポートがついているということだ。

非論理的に見えるような仕組みが・・根源の表れ方なのだ。

 

あなたが!・・・気付いていないだけ・・・である。

わたしと宇宙とが一体だって?・・・

そんなの誇大妄想だ・・とも言うあなたが、

自分を1つの肉体個人と思い込み、

その真実を・・・捨てているのである・・・・

 

 

”気付いていること”が・・すべてのわたし・・の原点だ。

 

朋よ・・それが根源に繋がっている・・”証”なのだ。

存在・意識・在ること・気づいていること・・

ひっくるめて・・意識‥と言うならば、

これが・・真我の証拠、あるいは神・根源を感じる息吹である。

 

人間という、次元制限された個体に見える‥意識は、

・・神なる根源の・・湧出点・・・・

あなたやわたしという個人の意識に見えるものも、

個人の魂に見えるものも、

無限の空(くう)・・・ひとつなる・・絶対・無限の・・

多次元的な表現形態、言わば、ほとばしる湧出点である。

 

根源・・至高の実在の噴出点である・・意識・・・

言い換えれば、

創造主の出張先ともいえる・・わたし・・意識が、

生まれて死すべき単なる有機的肉体である・・という、

空恐ろしく局限された思い込みによって、

本源から隔絶してしまう、あるいは、

真我から分離する・・我を忘れる経験が出来るのが・・・

この地球という3次元世界だったのだ。

 

一体誰がこういう罠のようなシステムを作ったのかは問わないものの、

ある意味で、自らが創造主としての、決してあり得ないような局限体験、

実に得難き・・あり得ないような経験が出来る・忘我の世界、

よく言われる3次元的マトリクス世界にいたことに気付くだろうか。

あなたもわたしも・・今その終わりの時にいるのだ。

 

本当に、気付いているだろうか?

 

忘我から自己覚醒へ、深い眠りから目覚めた意識へ・・、

嗚呼・・朋よ・・・本道に戻る時が来ているのだ。

 

・・・

マインドの創り上げるその場しのぎの様々な仮想現実のストリームに、

皆々呆けたように見入るばかりで、

自己自身である・・ここ・・わたし意識・を掘り下げない人が多い。

自己自身と言っても、自己の肉体・組成・細胞などのことではなく、

わたし・・意識、「気付いている」ことだ。

 

切に求める無限の至宝は外の世界にあると思い込み、

今か、未来か?・・ここか、あそこか?あの人か?この人か?

自分の「利益」「保身」のため、鵜の目、鷹の目で探し続けている。

そういう人間の集合体を3次元世界という。

その中の個々人は、

何をどうしようとも、いつかは終わる相対世界の中に絶対なものを探す、

時間空間内の唯物世界の中を探し続ける一過性の旅人であり、

 

自分が生きて死ぬと言う、この世の仕組みに気付かず知らず、

ただ、目先の安楽さを維持することが目的の刹那的存在である。

しかしながら、

そういう虚構を基にした集団的自己認識は終わりを告げている。

 

終わる・終わる・・そういう言葉さえも聞く耳持ちたくない、

あなたは今・・・どう感じているだろうか?

終わりこそが始まりであること、その連続さえも恐れて拒否して、

一体全体、刹那の現象世界の中で永遠な何が・・得られようか。

 

自分自身が・・意識・・気づいていること・・・、

これは自己が創造主の片割れであるという事だ。

意識・・気づいてゆくことは・・その意識の知覚対象が現れているということだ。

知覚対象とは、あなたが創造している世界・宇宙のことである。

意識によって、創造されているということだ。

これが、毎日・毎旬・・行われていることである。

 

この最大の奇跡・・に気づかない・・・あり得ない状況が起きていた。

意識ある者たちは、自分が瞬間瞬間で創造していることに気付いていない。

 

創造とは、頭で考え、手でこね上げて作るもんだと勘違いしていて、

生きている・意識している・気づいていることそのものが・・・

その意識主体の創造世界である・・ということを知らなかったということだ。

現実が。。現実が・・という、それこそが。。。、

その意識によって投影されているということは、

どう考えても難しいことかもしれないが、

意識が無ければ・・どんな世界もないのである。

 

難しく考える科学者たちは、

あらゆる全ての始まりが、外宇宙のビッグバンと想像していたかもしれない。

あくまでも物質諸粒子の原型が・・究極の圧縮状態から爆発する・・と、

 

そうではなく・・・今・・起きている・・わたしは在る・・という、

あなた自身の今の・・・ことなのである。

あなたの見る世界は・・あなたの創造している世界なのだ。

それが気に食わない、不都合、ろくでもないものと映るならば、

それは意識の前に・・歪んだマインドが掛かっているということだ。

あなたはかつて・・マインド・こころを。。

真の意味で浄化したことはあるだろうか?

騒いでばかりいる・思考・感情・想像・心模様を・・・

綺麗に掃除したことはあるだろうか?

 

これを深く・深く感じることが第一義的に重要なことである。

 

外の世界や、地球や太陽、壮大な宇宙のどこかに根源・原点があるのではない。

そういう宇宙などのような知覚対象物の集合体も・・・

あなたが・・気づいている、意識している、

知覚・認識・想像しているからこそ、そこにある!

 

ところが、今までのこの世界では、

私とは・・個々人の身体・肉体である、

種族の中で偶然生まれて、死んだら終わりの肉体であると、

そういう信念が支配していたのだ。

 

われあり・・在りて、有る者である!

気付く範囲、知覚する範囲のすべての創造的原点・・

それが真のわたしである。

 

これが私たちの、唯一の原点である。

 

マハラジはこれを「わたしは在る」という言葉で繰り返し語った。

わたしは在る・・は、意識としてのわたし・・

存在していることそのもの・・それは意識そのもののことだ。

特定の個人、貴方やわたし、君と僕、意見の違う他の人、他の動物たち・・・

全てが・・あなたの意識のなかの知覚対象なのだが、

それを外側の無数の分離した物体と見ていて、

あまつさえ、自分自身さえも、自分自身の知覚対象物である肉体と信じ込んでいた。

自分の意識で行為・行動できる単体の肉体であるから、

この意思で直接動かせる肉体が・・自己自身であると思い込む。

しかしながら、

肉体そのものも・・あなたの知覚する対象物なのである。

 

この原点は・・宇宙創成の原点でもある。

ビッグバンと言われているものは、自分自身に目覚めた瞬間のことだ。

それによって宇宙が創生され拡大されている。

あなたの世界・宇宙があるのは、”あなた”が目覚めたからだ。

そして今もその進化度・広さに応じて、目覚めているからだ。

目覚めている・・を定義すれば・・・根本は・気づいていることである。

 

目覚めや覚醒という言葉が色々語られ、

ある時は・・騙されていることに気付く・・・という意味にも、

ある時は・・自分の以外な側面に気づく・・という意味にも使われる。

そう、目覚める・・は、気づく・・と同じなのだ。

 

何々に・・気づく、これこれに・・気づく・・・その繰り返しによって、

その気づきの範囲・次元・広さが拡大してゆく、

これをビッグバンと言わずして・・何であろう?

 

気付いている者は、・・意識ある者は

この最もシンプルな源に深く”浸透してゆく”必要がある。

これが自分自身・根源への帰還の道である。

そして、気づきが続くのは、これが無限であるからだ。

人間は魂である、魂は永遠だと、聞いたことがあるだろう。

そう、

宇宙が拡大し続けることと、あなたが進化し続けることは同義なのだ。

 

あなたも私たちもすべて皆・・この道にある。

そして、

気付いてゆく・・という進行形が・・魂の旅と言われるものだ。

その魂の旅は無限に続くと言われるが、そう聞くと何だか疲れるな‥と感じるかもしれない。

それはこの世界の3次元的な、生存競争社会の堂々巡りに毒されたからだ。

 

トンでもない修行場としてのこの地球は、

嫌なものばかり、異端のものばかりを与えられ、局限され、

これでもかというぐらいに、本質たる魂の無限性を閉じこめられた世界であった、

そう、それが嫌さで・・魂を防護するために・・多くが眠りを選んだのだ。

気付いているだろうか?・・本当に。

もう・・目覚めなければならない。

 

あなたの世界・宇宙の根源である・・あなた自身・・、

無限なのは・・見える宇宙ではなく・・それを観ている・・

あなたの方である・・ことを、・・思い出せ!

 

自己自身・・わたし・・とは何か?

・・・を問いかけ続けることが魂の進化だ。

意識・・・わたし・・があるからこそ世界があり宇宙がある。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


マインドの話(5)こころの建て替え

2020-01-18 11:09:17 | 語り部の章
「こころ」を入れ替えるというのは、「世界」を入れ変えるということに等しい。

しかしながら、注意すべきは、

入れ替えるのは・・わたしのマインド”こころ”であって、世界ではない。


ところが、

世界という外側の環境が変われば、自分が”幸せ”になるという

錯誤した信念が植えつけられているため、まず環境世界を変えなければ・・と考えてしまうものだ。

そのための文明の進歩やら、科学や経済の発展や、

手段としての銭、金、物ということなのだが、

そんな世間全体の当たり前とされる掛け声に盲従しつつ、頑張り続け、

その挙句は、社会を発展させ、地球という環境そのものを改善するどころか、

汚しに汚してしまったことの愚かさに・・気付くべき時が来ているのだ。


原因となる内面でなく、結果である外の環境を変えようとする「愚かさ」そのものが、

結果である外の世界を・・構築、改悪・破壊してしまうのである。

それはあたかも、

スクリーンの映像を変えるために、スクリーンそのものを掻きむしって、

映し出される事象を変えようとする・・愚かな行為なのである。


映し出される映像、無限の意識で投影される世界がいかに複雑であろうと、

それがバーチャル仮想世界、体感付きの3次元的感覚的映像と理解するならば、

その投影事象の原因たるシナリオ側、光源に乗せる情報、信念型、

自在に創れるフィルム、つまりマインド、こころを変えるべきなのは火を見るより明らかではないか?


現実とは・・それが・・意識の投影事象であるという”現実”であり、

現実的、物理的なものは、単に意識で知覚する対象に過ぎないということだ。

3次元とか第3密度とかいうカテゴリー世界は、

わたし”意識”という、高次の原因体が不在のまま据え置かれ、

意識の創り上げるその世界、どうしようもない物理的・物質的な世界、

そのなかで右往左往しているという状況は、

主人公としての魂・意識が、

この地球という世界に幽閉されているという表現にもなるのである。

そう言えば、あなたはいつからこの3次元的幽閉世界に入ったのだろうか?



意識によって知覚されるのが世界であって、

世界が意識を創るわけではない。

意識によって知覚されるのが肉体・環境であって、

肉体・環境が意識を創るのではない。


意識の展開する様を示すところの・・マインド・こころが、

あるいは無数の思い、イメージ、感情という想念の束、

それを魂などと呼んでいるが、

それが世界の無数の事象を知覚投影するのであって、

世界の無数の事象・現象が、意識、マインド・こころ、

あるいはそれらの集合系である魂を形創るのではない。


これを理解する人ならば、その人は・・

自分のマインド・こころを入れ替え、建て直すべき時ではないのか?

これは魂の進化などと言われるが、

意識・魂である自らに気づき、

そこから出てくるマインドを観察しながら・・入れ替え創造しつつ、

本来あるべきと”心底感じる”方向へと自らを表現、開化するべき時なのだ。


これは決して、3次元的まやかしである、

どでかい規模や物質的な成功の話ではなく、あるいはまた、

凝り固まった信念系にもとずく世界規模の戦争や世界崩壊の話でもなく、


それら世界、宇宙の投影事象を観ている・・

真のわたしへの気付きという・・大きな意識転換の話なのである。





マインドの話(4)現実=意識的創造

2020-01-10 07:58:34 | 語り部の章
意識的存在である人間たちの世界は、

それぞれのマインドで創り上げている「幻影の集合体」である。

幻影といっても、あなたは既に十分知っているように、

実にリアルで質感・肉感を伴うバーチャル仮想現実・マインド劇場だ。


この世界が物質で出来ていて、何事も偶然に起きている等と茫然と考えているならば、

極めて大きな間違った想念の渦中にあることに気付かなければならない。

物質とは、自意識で勝手に自己表現しない波動のかたまり、

ある意味で、物的性質を帯びた精神構造物だと言ったほうが妥当なのである。

物質的とされる現代科学も、実際ここまで理解していることに気付けるだろう。

大勢の人がそうだそうだとシュプレヒコールを上げるのを待つ必要はない。


二次元平面でのCGや映画・ビデオ映像、音声も・・全て

人の思考・マインドが創り上げた微細な点滅の集合体であるように、


”あなたの”3次元的時空間、つまり周囲環境・世界・ひいては宇宙は、

あなたの”意識”が時空というステージの背面で創り上げている、

微細なエネルギー波動微子の集合体なのである。


創造とは・・・学校でやったり仕事でやったりしたように、

手で作ったり、念じて作ったり、加工して・・という創るではなく、


意識している・・そこに対象として浮かび上がらせている・・気付いていることが、

すでに創造しているという事なのである。


あなた、わたしの”意識”と言っても、

いまここに気付いている自意識・意識表面ではなく、

膨大な潜在意識としての”意識”のことである。

それを”宇宙意識”などと言っている。


だから、あなたは宇宙意識のただ中にあって、まったく”それそのもの”なのだが、

そうではないという観念、想念とその物質表現型の渦の中に居るために、

ほとんど全く気付かない・・・いや気付かなかったということだ。


”あなたの”3次元的時空間、つまり周囲環境・世界・ひいては宇宙は、

あなたの”意識”が時空というステージの背面で創り上げている、

微細なエネルギー波動微子の集合体なのである。


創造とは・・・学校でやったり仕事でやったりしたように、

手で作ったり、念じて作ったり、加工して・・という「創る」ではなく、


意識している・・そこに対象として自然に浮かび上がらせている・・気付いていることが、

すでに創造しているという事なのである。



そうであれば、誰でも思うはずだ・・、

「こんな非道多き世界など創った覚えはないが・・」

「私はこの創造された現実なるものは好まない・・」と、

さらに、

「もっとより良き世界が良いに決まっている・・」と想うものだ。

そうではないか?

それはもっともな心情であり、革命や世界変革、

ひいてはある種の人達にとってのアセンションなどの話も出てくるのだが、


実は・・ここにも想いの癖があることに気付けるだろうか。


それは例えば、映画の内容が気にくわないから変えてくれとか、

時空のスクリーン自体を掻き毟って何かを変えてしまおうとか、

自分が美しいと感じる物語を投影してもらいたいとか、

そういう風に願っているのかもしれないということだ。


いやいや、そうではなく・・・

あなたの意識で・・・投影されているのが、その幻影だということであり、

本質を言うならば、誰かがやるとか、皆で団体行動するとか、

地球環境がよりよく変わるとか、宇宙のシステムが今回変わるとか・・でなく、

何をどうしようとも、どう在ろうとも・・・・

あなたの意識・気付きに沿って出現しているのが、

あなたの世界なのだということを、

真に悟る必要があるということなのだ。


それぞれの世界、映し出される物質感・肉感を伴った世界幻影の

・・その光源は・・・

それぞれのわたし以外にない・・・ことを真に理解しなければなるまい。


それぞれの魂・意識の知覚する世界、

気付くこと・意識という光源に映し出される幻影・世界は・・、

それぞれの魂・意識の振動情報内容とでも言おうか、

瞬間瞬間の様々な経験と想いの集成によって、

形作られる想念の質によって映し出されること。

その魂の大きな仕組みのほうに気付かなければなるまい。


それが、・・本来皆々が・・創造の主であるという意味だ。




マインドの話(3)世界は心象である

2019-12-30 07:36:12 | 語り部の章

●マインドで創られた世界?

この世がバーチャル(仮想)世界であるということは、
その表現を変えて少し具体的に言えば、

わたしの世界は”わたしの心・マインド”で創られているということでもある。
あるいは身近な世界も宇宙も、マインド上の無限の構築物であるとも言えよう。

単純な事実を言えば、

人類の生活・文明のあらゆる物が、誰かのイメージ・設計・加工によって創られているし、
小説も人文科学も理科学も、工学も全て人間の思想と、すでに出来ている大自然の仕組みとのコラボレーション創造なのである。

自然にある物質が勝手に創造しているのではなく、人間の意識的活動の結果出現しているものである。

人類文明のあらゆる事物・歴史・物語は全て・・人類作・・想念の創りものなのである。

これらすべてが現実とされるならば、

現実とは、元は全て人間の思索・想いによって現れるものだ。

人の人生も全て、その人の発する想念、意識的な作り物であるという事だ。

何をどう考え行為してきたのか・・それが全てであり、外側の出来事・事象の影響も、

実際はアトラクション、あるいは触媒のようなもので、

それに対して、何をどう考え・行為してきたのかが全てなのである。

そのための人生であると言っても過言ではない。


●現実は幻影で、ただ法則があるのみ

全ては想念・マインドで創られている・・・、

これは何かの心理論のようだが、

実際は世界の創造の仕組みであり、これがいわば『現実』である。

「現実が・・現実が・・」と言っているのは、観ている”幻影”のこと。

あなたが暗い顔をして・・「この現実がネ・・」というのは”幻影”のことであり、

真の現実とは・・

それが意識的な投影現象・・マインドで創る幻影だという、

いわばその仕組み、法則の方である。それが「現実」なのである。

●仮想現実はマインドで創られる

それがバーチャル・仮想現実世界の”基本的な仕組み”なのだ。

実際、あなたの世界も、あなたのマインドで出来ているということだ。

あるいは、あなたの意識があるから、あなたの世界がある・・と同じ意味だ。

誤解が多いかもしれないが、

頭でちょいと考え、想起したイメージがすぐに実現するようなものではない。

もしそうであれば、特にこの世界は、ネガティブな事象で溢れてしまい、

世界の存続どころではないだろう。

●幻影でなく、”現実”を直視すべし

いわゆる”現実”?生活において、

例えば、あなたの人生が「不幸で苦悩だらけ」と感じているとしたら、

それは大勢の人々が愚かで、心狭く、あなたを認めない、優しくないのが原因なのではない。

それは誰のせいでもなく、単にあなたのマインドで創り上げている幻影のおかげなのである。

質感的・肉感的に現れ出ているからと言ってそれが「現実」とは限らない。

3次元的仮想世界とは、質量感を伴った・・幻想・・と言えばいいかもしれない。


●ありのまま見るとは

例えば、こういう人もいるに違いない・・、

自分が創っているって?

「いや、そんなことは無い! 実際に俺は”あいつに”やられたんだ!

あいつ以外に誰がいるもんか・・あいつの言動が無ければ、

俺がこんな怒りや侮辱や苦悩、苦痛を感じることは無かった、そうだろう?

ああ、間違いなく、奴が原因だ、絶対そうだ」・・と思うかもしれない。


でも良く見てみよう。

そもそも、それも、幻影世界での”出来事のこと”を言っていて、

実際に起きていることの表面しか見ていないという事に気づく必要がある。

ヤな奴がいて、何かが起きて、あなたはその影響で苦痛や怒りを感じている・・・、

ということが・・・”起きている”のだ。いや、起きているだけなのだ。


と、こう言えば、・・・

「ただ?・・起きているって?・・どうよ??」

「こんな大変なのにさ~・・」

「え?、それでは何かい、何でも無反応であればいいのかい?、へっ、(かなり下品?笑い)

それじゃまるでロボットじゃないか、何も感じないなんて・・出来るわけない!」

と反論するのはもっともながら、

いや、そうではなく、それらの沸き起こる感情やイメージを感じていながら、

同時に、どこかでそれを”観察しているか”ということだ。

あなたが人的、物理的事象という出来事に遭遇し、それに反応して色々な想いや感情が起きていることを・・・観察しているか?



観察者というと、鉄仮面のような非情な”傍観者”のような誤解があるものだが、

自分が、想念や感情の反応で創られる「物語」のその渦中にあることを、

観察している者、高次の意識、あるいは魂の・・視点があるか?ということだ。


わたしの魂、高次意識、ハイヤーセルフ等とも言われる高次の自己は、

どこか・・別の時空、宇宙、”場所”や”時間”にあるのではなく、

それぞれのわたしの内面・・いまここで、・・意識・存在の中にある。


●高次元へのシフトの意味

現象に巻き込まれて没我しているか、あるいはその渦中にありながら、

それらが起きている・・こと、場合によっては激しい想念や感情の起伏が起きる事に、

・・・・気付いている”次元”にいるか・・・ということだ。

これはある意味では、この地球上の支配的観念・信念による、
閉鎖マトリクスの網を超えているか?という事にもつながる。

観察、あるいは気付いていること自体、

つねにその事象より高次にあるということを理解可能だろうか。



いつもの例えだが、映画を観ている人に対して、

”あなたはその中に入り込んでいる主人公に感情移入しっぱなしなのか、

あるいはそれを鑑賞している観客としても気付いているか?”

と問うているようなものなのだ。

映画を観ること自体が、映画の仮想物語を楽しむためのものではあるが、

夢中になっている時にはその中に没我であると言っても良いはずだ。


映画の中にどっぷり入り込んでいる場合、あるいは熟睡して眠りこけている場合などでは、

これが映画だと言っても、聞く耳持たぬこともあるわけで、そうふいう人を目覚めぬ人々と言ってもいいだろうか。

スピリチュアルな教えで、気付きの深まりが最も大切などと言われるが、

”魂・意識”が高次へと変化するならば、変化の進捗・進化の割合に応じて、

魂・意識”のその知覚対象たる世界もまた、いわゆる高次へとシフトするのは自然である。

超単純に言えば、

感情や思考、想念に翻弄され、感情の不幸まみれで右往左往する状況から脱し、

逆にそれらを観察者の視点からコントロール出来るようになれば、

それだけより自由な境涯に至るということだ。


イエスが残したとされる言葉にこういうものがあったとか。

”わたしはこの世に居ながら、しかもこの世の者ではない”・・・と。

キリストの宇宙人説とか、本当はどこで生誕したとか、若い頃どこで修業したとか、

そういう諸説もあるわけだが、まるきり嘘ではないと思われるわけだが、

ことの本質はそういうところにあるのではなく、

自身の言明として、

わたしはこの世界に居ながら、この世界を超えているところの、

高次の存在(魂・意識)であるということを言っているように思われる。


あなたやわたしたちも同じだと想えるだろうか?

あなたが人的、物理的事象という出来事に遭遇し、

それに反応して色々な想いや感情が起きていることを・・・観察しているならば、

わたしたちは、この地球の体験場にいながら、それを超えている、

いわゆる高次の存在であることに気付いていることなのだ。


意識的存在である人間たちの世界は、それぞれのマインドで創り上げている幻影の集合体。

幻影といっても実にリアルで質感・肉感を伴うバーチャル仮想現実、マインド劇場だ。

世界が質感的・肉感的に現れ出ているからと言ってそれが「現実」とは限らない。

3次元的仮想世界とは、質量感を伴った・・幻想・・と言えばいいかもしれない。


そして、その幻影を観ている者は・・・誰なのか?