私たちは、今・・生きていることを知っている。
どんな人も、これは例外なくそうだ。
そう、
それは「意識」があるからだ。
そして、意識があるから世界がある。
意識とは気づいていることであり、
自分自身を・・意識していること・・気づいている・・のである。
これを軽いものと見逃してはならない・・。
”気付いていること”が・・すべてのわたし・・の原点だ。
意識・・と言っているものである。
これがすべての・・根幹にある。
モノではない、音ではない、触感ではない、大きさではない、
心地よいか、そうでないか、・・・狭いか、広大かではない。
たとえ広大な宇宙も・・そこに根源があるのではない。
創造の根源は・・そんなものではない。
宇宙すべてが。。気づきの集合体と言ってもいい。
それらすべてに・・気づいている・それ・・意識・だ。
また気付くことのあらゆる集合が意識と言ってもいい。
また・・意識は・・分割されえない。
1つ、1人と思える意識は・・メビウスの輪のように全体と一体なのだ。
根源の一部、例えばあなたは・・全部の中の1部分ではなく・・・、
根源をしょってたっている・・代表の1人のようなものであり、
代表の背後には・・無限のサポートがついているということだ。
非論理的に見えるような仕組みが・・根源の表れ方なのだ。
あなたが!・・・気付いていないだけ・・・である。
わたしと宇宙とが一体だって?・・・
そんなの誇大妄想だ・・とも言うあなたが、
自分を1つの肉体個人と思い込み、
その真実を・・・捨てているのである・・・・
”気付いていること”が・・すべてのわたし・・の原点だ。
朋よ・・それが根源に繋がっている・・”証”なのだ。
存在・意識・在ること・気づいていること・・
ひっくるめて・・意識‥と言うならば、
これが・・真我の証拠、あるいは神・根源を感じる息吹である。
人間という、次元制限された個体に見える‥意識は、
・・神なる根源の・・湧出点・・・・
あなたやわたしという個人の意識に見えるものも、
個人の魂に見えるものも、
無限の空(くう)・・・ひとつなる・・絶対・無限の・・
多次元的な表現形態、言わば、ほとばしる湧出点である。
根源・・至高の実在の噴出点である・・意識・・・
言い換えれば、
創造主の出張先ともいえる・・わたし・・意識が、
生まれて死すべき単なる有機的肉体である・・という、
空恐ろしく局限された思い込みによって、
本源から隔絶してしまう、あるいは、
真我から分離する・・我を忘れる経験が出来るのが・・・
この地球という3次元世界だったのだ。
一体誰がこういう罠のようなシステムを作ったのかは問わないものの、
ある意味で、自らが創造主としての、決してあり得ないような局限体験、
実に得難き・・あり得ないような経験が出来る・忘我の世界、
よく言われる3次元的マトリクス世界にいたことに気付くだろうか。
あなたもわたしも・・今その終わりの時にいるのだ。
本当に、気付いているだろうか?
忘我から自己覚醒へ、深い眠りから目覚めた意識へ・・、
嗚呼・・朋よ・・・本道に戻る時が来ているのだ。
・・・
マインドの創り上げるその場しのぎの様々な仮想現実のストリームに、
皆々呆けたように見入るばかりで、
自己自身である・・ここ・・わたし意識・を掘り下げない人が多い。
自己自身と言っても、自己の肉体・組成・細胞などのことではなく、
わたし・・意識、「気付いている」ことだ。
切に求める無限の至宝は外の世界にあると思い込み、
今か、未来か?・・ここか、あそこか?あの人か?この人か?
自分の「利益」「保身」のため、鵜の目、鷹の目で探し続けている。
そういう人間の集合体を3次元世界という。
その中の個々人は、
何をどうしようとも、いつかは終わる相対世界の中に絶対なものを探す、
時間空間内の唯物世界の中を探し続ける一過性の旅人であり、
自分が生きて死ぬと言う、この世の仕組みに気付かず知らず、
ただ、目先の安楽さを維持することが目的の刹那的存在である。
しかしながら、
そういう虚構を基にした集団的自己認識は終わりを告げている。
終わる・終わる・・そういう言葉さえも聞く耳持ちたくない、
あなたは今・・・どう感じているだろうか?
終わりこそが始まりであること、その連続さえも恐れて拒否して、
一体全体、刹那の現象世界の中で永遠な何が・・得られようか。
自分自身が・・意識・・気づいていること・・・、
これは自己が創造主の片割れであるという事だ。
意識・・気づいてゆくことは・・その意識の知覚対象が現れているということだ。
知覚対象とは、あなたが創造している世界・宇宙のことである。
意識によって、創造されているということだ。
これが、毎日・毎旬・・行われていることである。
この最大の奇跡・・に気づかない・・・あり得ない状況が起きていた。
意識ある者たちは、自分が瞬間瞬間で創造していることに気付いていない。
創造とは、頭で考え、手でこね上げて作るもんだと勘違いしていて、
生きている・意識している・気づいていることそのものが・・・
その意識主体の創造世界である・・ということを知らなかったということだ。
現実が。。現実が・・という、それこそが。。。、
その意識によって投影されているということは、
どう考えても難しいことかもしれないが、
意識が無ければ・・どんな世界もないのである。
難しく考える科学者たちは、
あらゆる全ての始まりが、外宇宙のビッグバンと想像していたかもしれない。
あくまでも物質諸粒子の原型が・・究極の圧縮状態から爆発する・・と、
そうではなく・・・今・・起きている・・わたしは在る・・という、
あなた自身の今の・・・ことなのである。
あなたの見る世界は・・あなたの創造している世界なのだ。
それが気に食わない、不都合、ろくでもないものと映るならば、
それは意識の前に・・歪んだマインドが掛かっているということだ。
あなたはかつて・・マインド・こころを。。
真の意味で浄化したことはあるだろうか?
騒いでばかりいる・思考・感情・想像・心模様を・・・
綺麗に掃除したことはあるだろうか?
これを深く・深く感じることが第一義的に重要なことである。
外の世界や、地球や太陽、壮大な宇宙のどこかに根源・原点があるのではない。
そういう宇宙などのような知覚対象物の集合体も・・・
あなたが・・気づいている、意識している、
知覚・認識・想像しているからこそ、そこにある!
ところが、今までのこの世界では、
私とは・・個々人の身体・肉体である、
種族の中で偶然生まれて、死んだら終わりの肉体であると、
そういう信念が支配していたのだ。
われあり・・在りて、有る者である!
気付く範囲、知覚する範囲のすべての創造的原点・・
それが真のわたしである。
これが私たちの、唯一の原点である。
マハラジはこれを「わたしは在る」という言葉で繰り返し語った。
わたしは在る・・は、意識としてのわたし・・
存在していることそのもの・・それは意識そのもののことだ。
特定の個人、貴方やわたし、君と僕、意見の違う他の人、他の動物たち・・・
全てが・・あなたの意識のなかの知覚対象なのだが、
それを外側の無数の分離した物体と見ていて、
あまつさえ、自分自身さえも、自分自身の知覚対象物である肉体と信じ込んでいた。
自分の意識で行為・行動できる単体の肉体であるから、
この意思で直接動かせる肉体が・・自己自身であると思い込む。
しかしながら、
肉体そのものも・・あなたの知覚する対象物なのである。
この原点は・・宇宙創成の原点でもある。
ビッグバンと言われているものは、自分自身に目覚めた瞬間のことだ。
それによって宇宙が創生され拡大されている。
あなたの世界・宇宙があるのは、”あなた”が目覚めたからだ。
そして今もその進化度・広さに応じて、目覚めているからだ。
目覚めている・・を定義すれば・・・根本は・気づいていることである。
目覚めや覚醒という言葉が色々語られ、
ある時は・・騙されていることに気付く・・・という意味にも、
ある時は・・自分の以外な側面に気づく・・という意味にも使われる。
そう、目覚める・・は、気づく・・と同じなのだ。
何々に・・気づく、これこれに・・気づく・・・その繰り返しによって、
その気づきの範囲・次元・広さが拡大してゆく、
これをビッグバンと言わずして・・何であろう?
気付いている者は、・・意識ある者は
この最もシンプルな源に深く”浸透してゆく”必要がある。
これが自分自身・根源への帰還の道である。
そして、気づきが続くのは、これが無限であるからだ。
人間は魂である、魂は永遠だと、聞いたことがあるだろう。
そう、
宇宙が拡大し続けることと、あなたが進化し続けることは同義なのだ。
あなたも私たちもすべて皆・・この道にある。
そして、
気付いてゆく・・という進行形が・・魂の旅と言われるものだ。
その魂の旅は無限に続くと言われるが、そう聞くと何だか疲れるな‥と感じるかもしれない。
それはこの世界の3次元的な、生存競争社会の堂々巡りに毒されたからだ。
トンでもない修行場としてのこの地球は、
嫌なものばかり、異端のものばかりを与えられ、局限され、
これでもかというぐらいに、本質たる魂の無限性を閉じこめられた世界であった、
そう、それが嫌さで・・魂を防護するために・・多くが眠りを選んだのだ。
気付いているだろうか?・・本当に。
もう・・目覚めなければならない。
あなたの世界・宇宙の根源である・・あなた自身・・、
無限なのは・・見える宇宙ではなく・・それを観ている・・
あなたの方である・・ことを、・・思い出せ!
自己自身・・わたし・・とは何か?
・・・を問いかけ続けることが魂の進化だ。
意識・・・わたし・・があるからこそ世界があり宇宙がある。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。