わたしとは何か?に関すること、
生きていること、死ぬとはどういうことか・・、
私たちは、それら肝心なことを随分と避けて来たのではないだろうか。
多くの人は、多分何もそんなことを重要視せず、問題視せず、
ただ目先の人生の流れだけに追従すること、
とりあえず、いかに他者より有利にあることが出来るか、
とりあえず、死ぬまで生きながらえることばかりを考えてきたのだろうか。
なぜ今・・今・・生きて在るのか?
実際、死んだらどうなるのか?
それは一体どういうことなのか?
そもそも、その主体として在る・・わたしとは‥何か?
何も考えず、調べず、努力もせず、
大勢の走り回る姿を追いかけ回して、
何とか良くなろうとしながら、いつか人生を消費することに、
いつから明け暮れていたのだろうか?
そして、今・・・、
自分の・・この「生と死」の意味を理解する必要性に迫られている。
身近なことを片付ける必要性だけ強調しつつ、
時間を先延ばししながら、
出来れば安楽さの中に眠ってしまいたい想いの癖は、
今まで何生も演じてきた人生の焼きまわし、繰り返しに繋がるだろう。
きっと誰かが、きっと神様が、
私を・・よりよい人生に送り出してくれるだろうという”外側信仰”は、
それそのものが、被支配、奴隷根性の表明であって、
他者依存を示しているのだ。
気付かず知らず、いつか生まれてきて、
大勢の人の流れに沿い、喜怒哀楽取り混ぜで、とりあえず生き永らえ、
結局は死を恐れつつ、生を生き切るまでもなく死んでゆくような、
短い時間空間での単発の肉体人生、
連続した意味深い生の記憶を持たない1回ぽっきりの人生は、
リンゴを食べて、1時間後にはそれを忘れてしまうようなものである。
忘れて、また繰り返す・・それってどうよ?・・・
偶然に世界に出現し、その自分に関して意味不明なまま死んでゆく、
そんな輪廻・転生の中、あちらこちらのたらい回しのマトリクス人生は、
米つきバッタのように、執拗に繰り返すほど、面白いわけもないのである。
・・・
人が今、どこかで、その意味を深く感じながら、
世界がどうこうとは関係なく、
今自分は ”幸せだ” という実感があるならば、
その人は3次元的時空間での生と死の概念を超えている。
もちろん、「幸せだ」・・という想念・実感の波動的中身にもよるが、
その・・幸福が・・どうして単発で、すぐに忘れることが出来ようか?
内面から感じる幸福感、至福・・・、
それは至高の実在から・・そこはかとなく伝わってきた波動なのだから。
前世もなにも憶えていない、来世がどうかも考えられない、
そんな過酷な世界においては、
毎回毎回忘れることが幸福だと・・いう自己忌避のへ理屈であり、
いわゆる地獄の世界で役にたつ嘘の方便でしかない。
しかしながら、すでに時は来ている。
3次元的マトリクス世界が終わり、あるいは次元認識の理解が拡大すれば、
単発の人生、偶然生まれていつか死んでいって、
それで終わりという・・今まで常識とされていた、
1回ポッキリ人生も終わりとなる。
例えれば、単発の1コマ漫画だけが漫画ではなく、
連続したコマ送りによる、壮大な魂の記憶物語でつづられるアニメ映画もあるように・・・だ。
いままでメジャーなところからは一切情報が無かっただろうが、
実際にはあなたには膨大な、幾多の人生の記憶があるのだ。
そうでなければ、生誕してたった2-3年で意識が自己に気付くはずがない。
真我の意識・魂は時間・空間を超えている。
生と死は・・一体誰が経験しているのか?
それぞれ・・わたし(真我・意識)・・・自身である。
経験することを知るのは・・誰か?
それぞれ・・わたし(真我・意識)・・である。
知るということは・・記憶していると同義である。
しかしながら、それを忘れる・・ということは、
その記憶から意識がそれる・・という意味であって、
つまり、記憶自体がなくなることは無いということだ。
それに意識してアクセスしないならば、どうして記憶が再現されよう。
とにかく、誰かが何かを勝手にやってくれる・・ことはない。
だから・・人生は貴重なのだ・・・、
絶対的な主人・主人公は、それぞれ・・真のわたしなのである!
空(くう)に巻き起こった根源からの波動は、拡大しつつ、
同じく様々な波紋の織り成す世界を創り上げる。
それぞれの波紋の中心は、
等しく・・無限次元を含む空(くう)の中心である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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